ブルーザー・ブロディが亡くなって32年。生前のハンセンとの仲は?

 先日、アメリカン・フットボールNFLのワシントン・レッドスキンズが、チーム名の変更を検討していると報じられた。同チームは以前から、インディアン団体にチーム名変更を要求されていたのだ。レッドスキン(赤い肌)とはインディアンのことを指しており、インディアンの好戦的なイメージが差別的と同団体は指摘していたのである。他にも、メジャー・リーグ(MLB)のクリーブランド・インディアンスやアトランタ・ブレーブスも、同団体から改称を求められていた。
 日本でも、同団体から抗議を受けたわけではないが、法政大学アメフト部が『トマホークス』という愛称を、自主的に『オレンジ』と改称している。

 ワシントン・レッドスキンズというチームを、アメフトには詳しくなくてもプロレス・ファンなら知っている方がいるかも知れない。故:ブルーザー・ブロディがプロレス入りする前に所属していたNFLチームだ。
 そのブロディは今から32年前の1988年7月17日(現地時間)、プエルトリコで死去した。レスラー兼ブッカーのホセ・ゴンザレスにナイフで刺されたのが死因である。

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 ブロディの死で謎なのは、なぜ身内とも言えるレスラー兼ブッカーに殺されなければならなかったのか、ということだろう。
 それについて最も詳しく書かれている書物は、故:ミスター・ポーゴ(関川哲夫)が著した『評伝ブルーザー・ブロディ 超獣の真実~暁に蘇れ』をおいて他にない。今までどの本にも書かれていなかったブルーザー・ブロディの真実を、最も超獣に近しかった日本人として記している。
 もちろん、死の現場以外にもブロディの素顔が描かれているので、是非ご一読いただきたい。

▼評伝ブルーザー・ブロディ 超獣の真実~暁に蘇れ

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▼ブルーザー・ブロディ 米メジャー入りを拒否し日本や独立プロを転戦

[ファイトクラブ]ブルーザー・ブロディ 米メジャー入りを拒否し日本や独立プロを転戦

大学時代は手の付けられない暴れん坊だったブルーザー・ブロディ

「またもや、俺たちのコンビで勝負を決めたな!」
「見ろい、チア・ガールのカワイコちゃん連中が、あんなに熱くなって、俺たちを祝福してくれてるぜ!」

 この会話は、漫画『プロレススーパースター列伝』(原作:梶原一騎、作画:原田久仁信)で描かれている、ブルーザー・ブロディとスタン・ハンセンのセリフだ。『スーパースター列伝』のブルーザー・ブロディ編は、ブロディとハンセンとの友情物語が柱となっている。
 このシーンは、2人がウエスト・テキサス州立大学時代の、アメフトの試合だ。ブロディとハンセンはアメフト部のチームメイトであり、当時から大親友だったとある。
 卒業を前にして、ブロディとハンセンは進路について語り合っていた。ハンセンの元にはプロ・フットボール界とプロレス界からスカウトが来てどちらの道に進もうかと悩んでいるが、ブロディはプロ・フットボール入りもプロレス入りも両親から大反対されているという。そんな野蛮な仕事ではなく、紳士的な職業に就いてくれ、と。そこでブロディは、スポーツ好きと紳士的な仕事を両立させる職業、スポーツ新聞記者になった、とあるが、実際にはどうだったのか?

 本当は、ブロディとハンセンが同大学のアメフト部だったのは事実だが、ブロディの方が3年も先輩だ。つまり、大学時代は『スーパースター列伝』で描かれているほどの親友ではなかったのである。
 ハンセンは入学前、寮でのブロディの部屋を見せられ、あまりの汚さに絶句したという。その時のブロディは酔い潰れて寝ており、ビールの空き缶が散らかり放題、それがブロディとハンセンとの初対面だった。
 前述の『評伝ブルーザー・ブロディ』によると、当時のブロディはハンセンとよくぶつかっていたが、口喧嘩ではブロディが上だったんだとか。
 ハンセンにとってブロディの大学時代のイメージはとにかく粗暴で、コーチやチームメイトと喧嘩しているか、呑んだくれているか、学校内の物を壊して回っているかという、尾崎豊の歌に出て来るような男だったらしい。さすがに盗んだバイクで走り出したりはしなかっただろうが。
 他に『評伝ブルーザー・ブロディ』で書かれているエピソードでは、ブロディは校内にあった桜の木を勝手に切って自ら名乗り出るという、ジョージ・ワシントンのようなことをしたという。ちなみに、ジョージ・ワシントンの桜の木のエピソードは作り話だ。正直者のウソ話である。

▼スタン・ハンセンにとって大学時代のブルーザー・ブロディは粗暴なイメージしかなかった

新聞社からNFL、そしてプロレスラーへの転身

『スーパースター列伝』によると、ブロディは両親の意見を聞き入れてスポーツ記者になったが、あまりに記事がヘタクソで、いつもデスクに怒鳴られっぱなしだったという。試合が最高に盛り上がった時、ブロディも夢中になってしまって、記事にはクライマックスが全く書かれていなかったのだ。
 その頃、ハンセンは「プロ・フットボールは契約金こそデカいものの選手寿命が短い。プロレスだと長年にわたって稼げる」という理由でプロレスラーとなっていた。
 試合に勝ったハンセンに、ブロディがインタビューを申し込むと、ハンセンは大笑いした。
「君はインタビューする側じゃないッ、される側だ! 記者をクビになったらいつでも来な。親友が待ってるぜ。パチッ(ウィンクの音)」

 ハンセンの予言通り(?)、ブロディは間もなく記者をクビになり、プロレスよりもプロ・フットボールの方が『紳士的』という両親の意見によりワシントン・レッドスキンズに入団したものの、ブランクが祟って膝を故障してしまった。その頃、父の事業が上手くいっておらず、一家も収入が必要だったため、ようやく両親はブロディのプロレス入りを認める。
 ブロディにプロレス入りを相談されたハンセンはフリッツ・フォン・エリックを紹介し、ブロディはエリック門下からデビュー。デビュー戦で圧倒的な勝利を収めたブロディは、リング下に陣取る記者連中に言った。
「よう、昔の仲間のスポーツ記者諸君。せいぜいハデに書いてくれや。パチッ(ウィンクの音)」

 さて、事実はどうか。サンアントニオ・エクスプレス社のスポーツ局に勤務するようになったブロディだが、その傍らセミプロのアメフト・チームでもプレーしていたのだ。つまり、ブロディはまだNFLへの夢は捨てていなかったのである。
 では、ブロディの記者としての評判はどうだったのか? 当時の編集長によると「給料分の仕事はキッチリこなす男」で、『スーパースター列伝』に描かれているほど酷い記者ではなかったようだ。ただ、指が太すぎてタイプを打つのはヘタだったそうだが。

 その後、ブロディに朗報があった。ワシントン・レッドスキンズにスカウトされたのだ。夢のNFL入りである。ブロディはNFLでのプレーに専念することとなった。
 しかも、当時のレッドスキンズのヘッドコーチは、NFL史上に残る名将と言われたビンス・ロンバルディ。スーパーボウルの優勝チームに贈られるビンス・ロンバルディ・トロフィーに、その名を遺す人物である。大学やセミプロでのブロディは、アメフトでも力任せに暴れ回るだけだったが、NFLだとそれでは通用しない。それまではコーチの言うことなど聞かなかったブロディも、ロンバルディの元では基礎をみっちり叩き込まれた。NFLでの成功も夢ではなくなったのだ。

 しかし、ブロディの幸運もここまでだった。癌を患ったロンバルディは間もなく死去。その後、ブロディはロンバルディのようなヘッドコーチには巡り合えず、またコーチと喧嘩ばかりするブロディに戻ってしまう。やがてレッドスキンズを解雇され、その後はカナディアン・フットボール(CFL)に転身するも長続きせず、ブロディのフットボール人生は終了した。もしロンバルディが長生きしていれば、プロレスラーのブルーザー・ブロディは誕生していなかったかも知れない。
 ブロディをプロレスの世界に引き込んだのは、同じ元フットボーラーのイワン・プトスキーだった。つまり『スーパースター列伝』と違い、ハンセンではなかったのである。

 ちなみにハンセンは、ブロディがプロレスラーになったことを全く知らなかった。ハンセンがそれを知ったのはプロレスラーになってから1年後、ブッカーから「君と同じ大学出身のフランク・グーディッシュ(ブロディの本名)を知ってるか?」と尋ねられ、その時に初めてブロディのプロレス入りを知ったという。そんな縁で再会したブロディとハンセンだったが、ブロディはハンセンに「大学時代のエピソードは黙っていてくれ」と懇願したんだとか。プロレスラーになったばかりのブロディは、大学時代の素行の悪さがバレてクビになることを恐れていたのだ。

 ついでに言えば、『スーパースター列伝』ではハンセンは大学卒業後にプロレス入りしたことになっているが、実際にはNFLのボルティモア・コルツ(現:インディアナポリス・コルツ)およびサンディエゴ・チャージャーズ(現:ロサンゼルス・チャージャーズ)でプレーするもレギュラーにはなれず、フットボールを諦めて教職に就き、その後はプロレスラーに転身している。

 セミプロ時代、オフェンス・ラインとして評価が高かったブロディだが、縁の下の力持ちでハッキリ言って全く目立たないポジションだ。ルール上ボールを持つことは許されず、したがってタッチダウンを奪うチャンスはない。司令塔のクォーターバックを守り、ランニングバックやレシーバーがプレーしやすいように体を張って、相手ディフェンスをブロックする役目である。
 当時のNFLでは、よほどのスターにならないとオフェンス・ラインでは金は稼げない。それに比べると、個人が狭いリングで動き回るプロレスの方が目立ちやすく、自己顕示欲の強いブロディにとっては格好の職業だった。

▼青チームの黒丸で囲った5人がオフェンス・ライン。彼らはボールを持つことができない

ブルーザー・ブロディとスタン・ハンセンの友情は本物か?

 プロレスラーとなって再会したブロディとハンセンはタッグを組むようになる。ギャラが安かった頃のブロディとハンセンは、2人で組んで無銭飲食まがいのことをしていたようだ。もちろん違法行為だが、もう一度確認しておくとハンセンは元教師である。
 ちなみに、『スーパースター列伝』によると、2人はタッグを組む前に1度だけシングルで闘っていた。

「きさまかッ? 首折り技のスタン・ハンセンてえのは!? しゃらくせえ!! 俺の首を折れるものなら、みごと折ってみやがれ!」
「しゃらくせえのは、てめえだッ! うすらデカイ化け物め!!」

 と、お互いに他人のふりをしながら。そして試合は、両者ダブルKOという壮絶な結果となった。
 しかし実際には、ハンセンは「ブロディとは、シングルではアメリカでも日本でも闘ったことはない」と語っている。やはり、この試合は『スーパースター列伝』の創作だったようだ。

 その後は袂を分かったブロディとハンセンだが、日本で再会を果たす。新日本プロレスに参加していたハンセンが全日本プロレスに引き抜かれ、全日にいたブロディとタッグを再結成し、『超獣コンビ』として売り出すことになる。
 しかし、初来日したザ・ロード・ウォリアーズが自分と同格扱いされたことに不満を感じたブロディは、新日本プロレスに移籍してしまう。以降、2人が日本でタッグを組むことはなかった。
 グリーンボーイ時代は一緒に食い逃げしたほど仲の良いブロディとハンセンだが、ビジネスはビジネスと割り切っていたのだろう。

 ブロディとハンセンでは、性格的に違っていた。2人とも頑固者という共通点はあったものの、ハンセンは誰とでも付き合える気さくさがあったが、ブロディは敵と味方をハッキリ分ける。特に、プロモーターに対しては、ブロディは完全に敵意を持っていた。ハンセンはブロディについて、自分とは根本的に考え方が違う、と感じていたのである。
 全日本プロレスに移籍してからのハンセンは、決して総帥のジャイアント馬場を裏切ることはなかった。しかしブロディは馬場を裏切り、新日本プロレスに移籍している。だが、新日とは水と油のように合わなかったブロディはトラブルを起こし、全日にUターンした。ちなみに『評伝ブルーザー・ブロディ』には、ブロディがジミー・スヌーカと一緒にIWGPタッグ・リーグ決勝戦をボイコットした理由も書かれている。

 全日に戻ったブロディだったが、冒頭のようにプエルトリコでレスラー兼ブッカーのホセ・ゴンザレスに刺殺されてしまう。それまでのブロディは、ゴンザレスを完全に見下していたのだ。
 この時の詳しい状況は『評伝ブルーザー・ブロディ』を読んでいただくしかないが、ブッカーとしてブロディは最も扱いづらいレスラーだっただろう。しかし、ブロディは客を呼べるので、ブッカーとしては使わざるを得なかった。

 ブロディの死後、ハンセンは未亡人となったバーバラ夫人によく電話をかけたという。そして、主を失ったグーディッシュ家の面倒を見た。ブロディの息子であるジェフリー君も、よくハンセンの家を訪ねたらしい。そしてハンセンは、ジェフリー君と一緒にドライブしたり、野球観戦に連れて行ったりしたそうだ。
 スタン・ハンセンとブルーザー・ブロディ、いやフランク・グーディッシュは、単なるビジネス・パートナーではなかった。ブロディの死後も、2人の友情は続いていたのである。


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