二代目タイガーマスクにノア設立、三沢光晴のレスラー人生

 三沢光晴さんが亡くなって早くも11年経つ。三沢さんが亡くなったのは2009年6月13日、まだ46歳だった。当時の筆者は関東遠征しており、帰阪したときにこの訃報を知ったのを思い出す。

 三沢さんは筆者にとっても思い出深いレスラーだ。『天才』と呼ばれたプロレスラーは多くいる。力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木はもちろん、ジャンボ鶴田や武藤敬司もそうだろう。彼らはいかにも天才、とても手の届かないレスラーに思えた。
 三沢さんは『天才』と呼ばれながら、その天才さをあまり感じさせない。どこか身近に感じられる、稀有なレスラーだった(以下、敬称略)。

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▼ノア社長の三沢光晴さんがお亡くなりになられました。謹んで哀悼の意を表します

ノア社長の三沢光晴さんがお亡くなりになられました。謹んで哀悼の意を表します


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▼三沢光晴へのレクイエム。二度とリング上での悲劇を起こさないように

[ファイトクラブ]三沢光晴へのレクイエム。二度とリング上での悲劇を起こさないように

不遇だった二代目タイガーマスク時代

 筆者が初めて三沢光晴を見たのは、1983年4月22日に札幌中島体育センターで行われたルー・テーズ杯争奪リーグ決勝、越中詩郎戦だった。当時は全日本プロレス前座の黄金カードと呼ばれたこの対戦が、日本テレビ系の全日本プロレス中継で放送されたのである。

 前座の若手レスラーだけあって、2人とも線が細い。結果は先輩の越中詩郎が返し技の回転エビ固めでピンフォール勝ちしている。印象的だったのは、若手と言いながらパンチパーマ姿の越中がめちゃオッサン臭かったことだ(笑)。

 この後、2人はメキシコ遠征に出る。ところが、三沢にのみ帰国命令が下った。二代目タイガーマスクになれ、と。
 新日本プロレスで大ブームを巻き起こした佐山聡の初代タイガーマスクを真似るために、帰国した三沢は士道館の“猛虎” 添野義二館長から空手の特訓を受けた。しかし、佐山と違って格闘技志向のない三沢は「タイガーマスクを真似るんだったら、初代じゃなくて漫画の方を真似ればいいんじゃねえか」と反発を覚えたという。

 1984年8月26日、東京・田園コロシアムで三沢は二代目タイガーマスクとしてデビュー。相手を務めたのはルチャドールのラ・フィエラだった。ラ・フィエラも、三沢が亡くなった約1年後に、49歳の若さでこの世を去ったのは何かの因縁か。
 アニメ『タイガーマスク』のオープニング曲(インスト)に乗って入場し、コーナーポストに立ったタイガーマスクを待っていたのは、観客からの『三沢コール』『佐山コール』そして『帰れコール』だった。しかし三沢自身も、ファンからの反感を買うのは判っていたのである。
 正体はおろか国籍まで不明とされていた初代タイガーと違い(もちろん、コアなファンは正体が判っていたが)、二代目タイガーはデビュー時から正体バレバレ。おまけに二番煎じということで、初代タイガーのような鮮烈さもなかった。

 三沢は素顔時代の前座から、メインに登場するほどに出世したものの、正体バレバレとは言え三沢自身がブレイクしたわけではない。いくら見事な技を繰り出しても、タイガーマスクだから綺麗に決めて当たり前、『三沢光晴』が評価されているのではないというジレンマもあった。
 さらに、タイガーマスクとしては三沢の体は大き過ぎる。身長173cmの初代タイガーに対し、二代目タイガーは185cm。体重も100kg以上は優にあって、新日本プロレスならヘビー級扱いされるところだ(ジュニアヘビー級のリミットは、新日が100kgで全日が105kg)。

 しかもその後、新日本プロレスから長州力率いるジャパン・プロレスが全日本プロレスに来襲。初代タイガーのライバルだった“虎ハンター”小林邦昭にピンフォール負けしたり、ヘビー級の長州に完敗したりと、タイガーマスクと言えども三沢はジョブ(お仕事)役をやらざるを得なかった。特に小林戦の後は膝を故障して、長期欠場を余儀なくされる。
 ヘビー級に転向後は、ジャンボ鶴田やスタン・ハンセンなどのスーパーヘビー級との対戦が多くなり、負け試合も極端に増えた。ずっとジュニアヘビー級で、日本ではフォール負けを許さず、連戦連勝だった初代タイガーマスクとは対照的である。タイガーマスク時代の三沢は中途半端な印象があり、不遇だったと言えるだろう。

▼小林邦昭と初代タイガーマスク(佐山聡)
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全日本プロレスを、そして自らを窮地から救ったジャンボ鶴田戦

 二代目タイガーマスクの三沢光晴にとって転機となったのが1990年。この年の4月を最後に、ジャンボ鶴田と並ぶスターだった天龍源一郎が全日本プロレスを退団、新団体のSWSに移籍した。ドル箱カードだった鶴龍対決が消滅したため、全日は大ピンチに陥る。
 同年5月14日の東京体育館でタイガーマスクは、天龍同盟の一員で三沢にとって高校時代の1年後輩だった川田利明とタッグを組み、谷津嘉章&サムソン冬木(冬木弘道)と対戦した。余談ながら4人中、三沢、川田、谷津の3人は、足利工大付属高校のレスリング部出身である。

 試合中、谷津を攻め立てるタイガーは、川田に指示を出し自分の後頭部をしきりに叩く。意を決したように、川田がマスクの紐をほどき始めた。
「おい何してんだ? 何してんだ。何してんだ何してんだ!?」
 日本テレビの放送席に座っていたゲスト解説者のザ・グレート・カブキが呟く。
「おおっと? おお? マスクに手を……、おおああー! マスクを脱いだーー!! タイガーマスク、マスクを脱いだぁーー!! 三沢となって今、猛然と打っていった!!」
 若林健治アナもマイクに向かって叫んだ。場内は大『三沢コール』である。二代目タイガーマスクのデビュー戦、田園コロシアムの時とは違い、心から歓迎しての『三沢コール』だ。

 この2年前、三沢は結婚する際に正体を明かしており、タイガーマスクがマスクを脱いだからと言ってインパクトがあるわけではなかったのだが、それでもファンは素顔の三沢を受け入れた。三沢が虎の仮面の呪縛から解き放たれた瞬間である。ただ、放送席で「何してんだ」と言っていたカブキは、この後まもなく全日を去り、SWSに移籍したが……。

 同年6月8日、東京・日本武道館。素顔の三沢光晴に戻り、ジャンボ鶴田と対戦する。もちろん予想は、三沢の圧倒的不利だった。
 しかし、三沢は鶴田の猛攻を必死で耐え、思わぬ熱戦となる。そして、鶴田を返し技で丸め込んだ。レフェリーの和田京平がカウント3つ叩く。
 なんと三沢が、鶴田からピンフォールを奪った。武道館は爆発しそうになり、三沢コールの大合唱となる。この一戦は、瀕死の全日本プロレスを救った試合として歴史に残った。

 普通なら「天龍がいなくなったから、無理やり三沢を鶴田のライバルに仕立てたんだろ」と思われる結果である。実際そうなのだが、それでも三沢が凄いのは、この勝利に不自然さを感じさせなかったところだ。実力があったからこそ、鶴田と名勝負を演じることができたのである。
 そして、三沢が同い年の武藤敬司と違う点は、天才でありながら泥臭さがあることだ。武藤はあくまでも天才らしく、どんなレスラーが相手でもカッコよく洗練されたファイトをする。
 冒頭で『三沢は天才さをあまり感じさせない』と書いたのは、そういうところだ。相手より弱く見えて、最後に逆転勝ちしても、ファンを納得させてしまうものを持っている。
 天龍の全日離脱がなければ、虎の仮面を脱ぎ捨てる時期を逸し、単なる好レスラーとしてブレイクしないまま終わっていたかも知れない。

▼三沢光晴と対戦することで、新たな強さを見せつけたジャンボ鶴田
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三沢光晴にはレスラーとして専念してもらいたかった

 その後、多くの全日レスラーがSWSに移籍するも、三沢光晴は川田利明や小橋健太(現:建太)、菊地毅ら若手レスラーと超世代軍を結成、ジャンボ鶴田や田上明らと抗争するようになった。超世代軍のファイトはファンの共感を呼び、全日本プロレスは選手大量離脱があったにもかかわらず、大人気を博すようになる。全日の武道館満員伝説が生まれたのもこの頃だ。
 また、天龍という最大のライバルを失った鶴田も、超世代軍と闘うことで新たな強さを見せ付けるようになった。鶴田人気が却って上昇したぐらいである。

 しかし、1992年に鶴田が内臓疾患により長期離脱してしまう。そこで、三沢は川田とのコンビを解消して小橋とタッグを組み、川田は田上をパートナーにすることによって、この4人による『四天王プロレス』が展開されるようになった。
 この際、ネックとなったのが、三沢の体の大きさである。ジュニアヘビー級時代は大き過ぎた体も、エースとしては小さ過ぎる。
 だが、三沢は鶴田やハンセンらと激しい攻防を繰り広げることによって、重厚な実力も身に付けた。そして四天王プロレスは、他団体では真似できない激しいプロレスとなったのである。

 ところが、1999年にジャイアント馬場が、2000年にはジャンボ鶴田が他界。馬場の死後に三沢は全日の社長に就任するも、馬場夫人だった元子氏との対立で2000年に全日を去り、プロレスリング・ノアを設立した。
 ノアでもエース社長だった三沢だが、四天王プロレスの後遺症が祟り、また社長業に追われ練習不足も相まって体調不良の状態が続き、2009年6月13日にリング禍で死去した。
 社長兼レスラーではなく、経営の安定した団体でレスラーとして専念していたら……、と思うと残念でならないと感じる、11年後の今日であった。


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