[ファイトクラブ]三沢光晴へのレクイエム。二度とリング上での悲劇を起こさないように

[週刊ファイト6月14日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼三沢光晴へのレクイエム。二度とリング上での悲劇を起こさないように
 by 安威川敏樹
・日大アメフト問題で思い出した、三沢光晴の悲劇
・関東遠征から帰阪したときに知った、三沢光晴の訃報
・『受け身の天才』三沢でも、事故は起きた
・コンタクト・スポーツは常に危険と背中合わせ
・三沢、最初の洗礼はルー・テーズのバックドロップ?
・90年代の四天王プロレスで、時限爆弾がセットされた
・統一コミッション、ライセンス制度の実現は可能か?


 5月6日に起きた日本大学アメリカン・フットボール部の選手による悪質タックル問題、1ヵ月も経つというのに、未だに収束しないどころか、思わぬ方向に飛び火した。もはやアメフト部だけの問題ではなくなり、日大の本体そのものの危機に面している。
 先週も筆者はここで日大タックル問題について触れており、今回は詳しくは書かない。

 ただ、悪質タックルが起きた翌日、そのシーンをネット上での動画を見たとき、戦慄が走った。ヘタをすれば被害選手は選手生命を絶たれるし、場合によっては生命そのものも絶たれる、と。それと同時に、一人のプロレスラーのことが頭をよぎった。
 故・三沢光晴のことである。三沢光晴は今から9年前の2009年6月13日22時10分、46歳の若さで息を引き取った。(文中敬称略)

▼[ファイトクラブ]アントニオ猪木失神事件と、日大アメフト部に関するマスコミ報道

[ファイトクラブ]アントニオ猪木失神事件と、日大アメフト部に関するマスコミ報道

関東遠征から帰阪したときに知った、三沢光晴の訃報

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 2009年6月、筆者は大阪から関東へ遠征していた。当時、トラ番記者だった筆者は、交流戦中の阪神タイガースを追って、東京、埼玉、千葉を廻っていたのである。
 6月11日は埼玉の西武ドームで阪神と埼玉西武ライオンズのナイトゲーム、翌12日は休養日だったため昼間は東京の明治神宮球場で全日本大学野球選手権を観戦、夜は高田馬場でラグビー雑誌の編集部の人たちと会っていた。
 そして6月13日、千葉マリンスタジアムでの阪神と千葉ロッテ・マリーンズとのデーゲームが終わった後は、新幹線で帰阪したのである。

 その日の行動を調べてみると、筆者は19時ちょうどの東京発『のぞみ』に乗り込んだ。そして21時半頃に『のぞみ』は新大阪に着いている。したがって、この時点では三沢の死亡は確認されていない。
 新大阪から大阪府南部のド田舎にある自宅に帰ってきたのは23時半頃。つまり、このときには既に三沢は亡くなっていたわけだ。おそらく、筆者が天王寺(大阪阿部野橋)にいた頃に、三沢は亡くなったものと思われる。スマートフォンがまだ発達していなかった当時、帰宅するまで三沢の死亡については全く知らなかった(もっとも、筆者は現在でもガラケーだが)。

 自宅に着いた筆者は、いつものようにパソコンを開いた。そのネット・ニュースが目に飛び込んできたとき、関東遠征のことは一気に吹き飛んでしまった。
 三沢光晴が亡くなった。パソコン画面はそう伝えていた。それでもまだ、筆者には事態が飲み込めてなかったのだ。信じろという方が無理だったのだろう。

▼三沢光晴の訃報を伝える、2009年6月13日の本誌

ノア社長の三沢光晴さんがお亡くなりになられました。謹んで哀悼の意を表します


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コンタクト・スポーツは常に危険と背中合わせ

 当時の三沢はプロレスリング・ノアのレスラー兼社長。当日、三沢は広島県立総合体育館グリーンアリーナで潮崎豪と組んで、齋藤彰俊&バイソン・スミスとのタッグ・マッチを闘っていた。
 試合中、齋藤のバックドロップにより三沢は動けなくなり、その後は広島大学総合病院に搬送されたが、三沢が二度と起き上がることはなかった。

 もちろん、三沢の死は事故である。バックドロップを放った齋藤に責任はない。そこが日大の悪質タックルとは違うことだ。
 日大の場合は監督やコーチの指示によって(本人たちは否定しているが)、選手が明らかな反則タックルを行っている。齋藤の場合は、悪意があって急角度のバックドロップを仕掛けたのではない。しかし、不幸な事故が起こってしまった。

 この事故が起きる数日前、三沢は「もう(レスラーを)辞めたい」と漏らしていた。つまり、三沢の体調は最悪だったと考えられる。全盛期の鍛え上げられた体とは異なり、当時の三沢は『メタボ体型』と呼ばれるほど、ベスト・コンディションとは程遠かった。
 レスラーと社長業との兼務は、想像以上に激務だったのだろう。思うような練習時間も取れない。三沢の体型は徐々に崩れていった。つまり、この事故は起こるべくして起きたのだった。

 三沢が試合中の出来事がキッカケで亡くなったと聞いて、ほとんどのプロレス・ファンは「信じられない」という感想を持ったはずだ。筆者もそうだ。
「あの受け身の上手い三沢が、バックドロップで命を落とすなんて」と。

 しかし、プロレスのリングは常に危険と隣り合わせだ。受け身の天才と言われた三沢だって、練習不足になるとリング上で命を落としてしまう。だが、危険な技の応酬に客やレスラーが慣れてしまうと、その危険性を忘れてしまうのだ。
 他の格闘技はもちろん、今回問題となったアメフトや、あるいはラグビーだって、コンタクト・スポーツはみな危険である。だからこそ、常に細心の注意を払わなければならない。

 それだけに、日大の監督やコーチが「1プレー目で相手クォーターバックを潰せ」と本当に指示したのなら、実に許し難い。相手選手に大ケガを負わせるだけではなく、自軍選手にも心に深い傷を負わせてしまう。
 実際、齋藤彰俊だって、何も非はないのだが、重い十字架を背負うことになった。その後も齋藤がプロレスを続けているのが、せめてもの救いだ。

 かつて、前田日明は長州力の顔面を蹴り、大ケガを負わせたことがキッカケで新日本プロレスを追われたことがある。前田の顔面キックが『プロレス道にもとる行為』とされたためだ。つまり、予告なしに相手が大ケガをする場所を攻撃してはならない、という暗黙のルールを破ったということである。
 しかし前田は、長州の肩に手を置いて『蹴るぞ』の合図をした、と主張した。だが、長州はそれに気付かずに、大惨事となったのである。
 レスラー同士に信頼関係がなければプロレスは成り立たないが、信頼し合っていたとしても大ケガの元はリングに転がっているのだ。

▼三沢光晴の遺影を見上げる齋藤彰俊

90年代の四天王プロレスで、時限爆弾がセットされた

 1981年に全日本プロレスからデビューした三沢光晴は、先輩の越中詩郎と共に『全日プロ前座の星』と呼ばれた。筆者が初めて三沢を見たのは、1983年4月22日に札幌中島スポーツセンターで越中と決勝を争った『ルー・テーズ杯』のテレビ中継である。このときの三沢はまだ細く、越中に回転エビ固めでピンフォール負けした。

 テーズによると、この来日時に日本テレビから『往年のバックドロップを映像に撮らせて欲しい』という要請があり、三沢を相手にバックドロップを仕掛けたところ、三沢はテーズのバックドロップにより失神したそうだ。これがテーズにとって生涯最高のバックドロップだったらしい。
 三沢はテレビ・デビューした頃にテーズのバックドロップにより失神し、最期はバックドロップによって命を落としたというのは何かの因縁か。

▼ルー・テーズ杯決勝、越中詩郎vs.三沢光晴
https://www.youtube.com/watch?v=Ac0l24GtZ00

 その後、三沢は越中と共にメキシコ遠征するが、1984年8月には突然帰国命令を受け、二代目タイガーマスクに変身する。前座から一躍スターの仲間入りとなるが、佐山聡の初代タイガーマスクが既にいたため二番煎じの印象があり、また所詮は仮の姿だったので三沢自身の知名度が上がったわけではなかった。
 しかも、途中でジュニア・ヘビー級からヘビー級へ転向したこともあり、初代タイガーマスクのように連戦連勝とはいかなかったのである。

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