プロレス界のレジェンド、“炎の飛龍”こと藤波辰爾。藤波は日本にジュニア・ヘビー級という概念を持ち込み、ヘビー級に転向してからもアントニオ猪木の後継者としてメイン・エベンターとなり、さらにはライバルの長州力と『名勝負数え歌』を展開してプロレス・ブームの一翼を担った。
ハルク・ホーガンやビッグ・バン・ベイダーら外国人レスラーとも好勝負を繰り広げ、また若手として台頭してきた闘魂三銃士にとって厚い壁として立ちはだかり、常に日本マット界のトップ・レスラーで在り続けたのである。さらに、本場のアメリカでも猪木に次いで日本人として2人目のWWE殿堂入りするなど、その実力は評価されていた。
さて、そんな藤波は今から26年前の1993年、予備校講師として招かれていた。もちろん、講義内容はプロレスについてである。
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26年前は“たった”14団体しかなかったプロレス界
予備校と言っても実はこれ、テレビ番組での話。1990年代前半に関西で放送されていた朝日放送(ABC)の『ハイヒールのどんなんかな予備校』という番組で、毎週ゲストが講師として招かれていた。予備校の校長が今は亡き元大阪府知事の横山ノック、そして番組タイトル通り漫才師のハイヒールなど若手(当時)関西芸人が生徒として参加していたのである。
お笑い番組とはいえ、当時のお笑い芸人はプロレス・ファンが多く、結構マジメなプロレス講義が続く。
しかし、長原成樹などは初代タイガーマスクの話題になったとき「タイガーマスクとザ・グレート・ゼブラがタッグを組んだときが興奮した」などとボケをかましていたが……。それは漫画のタイガーマスクだっての(ちなみにザ・グレート・ゼブラの正体はジャイアント馬場)。
ここで、現在でも熱心なプロレス・ファンとして知られるハイヒール・リンゴが、当時のプロレス界の問題について疑問を呈する。
「昔は猪木さんとこ(新日本プロレス)と馬場さんとこ(全日本プロレス)だけやったのが、いつの間にか凄い数の団体になってますよね?」
このリンゴの指摘について、藤波も説明を始めた。ちなみに、1993年当時のプロレス団体は、以下の通り。
新日本プロレス
全日本プロレス
FMW
ユニバーサル・プロレスリング
Professional Wrestling 藤原組
UWFインターナショナル
リングス
W★WINGプロモーション
WAR
オリエンタル・プロレスリング
NOW
全日本女子プロレス
JWP
LLPW
1983年頃は新日本プロレス、全日本プロレスの男子2団体に、女子の全日本女子プロレスと合わせて男女合計3団体ぐらいしかなかったのだから、それから僅か10年で11団体も増えてしまったのである。
それでも、今から見ると14団体でも少ないと感じるぐらいだ。ハッキリ言って、今はプロレス団体がどれぐらいあるのか把握できない。
ちなみに、2019年3月現在のウィキペディアで確認してみると、男子が58団体、女子が14団体の計72団体となるが(男女混合の団体も有り)、それでもこれが正確な団体数なのかは不明である。
昨日、消滅したプロレス団体があるかも知れないし、今日はプロレス団体が2つ誕生している可能性もある。そもそも、これらの“プロ”レス団体が、本当にプロフェッショナルなのか、誰にも確認のしようがないのだ。
ちゃんと客から入場料を徴収しているのか、入場料はもちろんグッズ販売や広告収入などの利益によって団体が健全に運営されているのか、所属レスラーおよびスタッフにキチンと給料が支払われているのか、それらが一体となって『プロ』と呼ばれる集団となる。だが、これだけのプロレス団体があると、本当に“プロフェッショナル”なのかどうかはわからない。
しかし、1993年当時の藤波は“たった”14団体しかないのに、「僕もほとんどわからない、知らない団体もある」と言っていた。そういえば、力道山が創設した日本プロレスから国際プロレス、新日本プロレス、全日本プロレスと分家して4団体になったとき(女子プロレスを除く)、「狭い日本で4団体もあるのは好ましくない。プロレス団体は一本化すべきだ」と言われていた。
バスケットボールでも、それまでのJBLからプロ化を目指してbjリーグという新しいプロ・リーグが分家したが、その後は国際バスケットボール連盟(FIBA)から「一国にトップのリーグが2つあるのは好ましくない。このままでは、国際舞台から除外する」という勧告を受けて、2016年に両リーグを統一したBリーグが誕生した。
普通、スポーツ団体というのは黎明期こそ多団体あっても、時代を経て成熟していくと共に、自然淘汰され一本化されていくものである。しかし、プロレス界は全く逆の道を歩んだ。
全日本プロレスに敬意を表するも、大仁田厚だけは認められなかった
藤波もやはり、この講義の中で「プロレス界には、日本相撲協会やプロ野球(日本野球機構=NPB)のような組織がない」ということを危惧していた。さらに「結局、それがファンにとって色んなプロレスを観られるということで、いいことなのかも知れない」という悩みも明かす。
当時は、まだ他団体との交流がほとんどなかった。藤波が講義していた頃の新日本プロレスでは、天龍源一郎が率いるWARと交流していたが、やはり盛んとは言えなかったのである。セントラル・リーグとパシフィック・リーグの代表チームで日本シリーズを行うプロ野球との違いを、藤波も痛感していた。
現在でこそ、他団体との交流は盛んになってきたが、それでも他団体と絡む際にはわだかまりもあるだろう。
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▼[ファイトクラブ]記者座談会:レスラーの意識改革によって名勝負が当たり前に
ただ、藤波は色々な団体があるなかでも、プロレスに対するポリシーについて語っていた。特に、これら多くのプロレス団体の中でも新日本プロレスと全日本プロレスは、本来のプロレス道を歩んでいると説明する。この番組は、新日本プロレス中継『ワールドプロレスリング』を関西で放送しているABCの制作だが、藤波はライバルの全日本プロレスに対しても敬意を表していた。
とはいえ、当時はトレンドになっていた『ロープの代わりに有刺鉄線で囲って電流爆破をしたような』デスマッチに関しては、藤波も嫌悪感を示す。間違いなく、全日本プロレス出身である大仁田厚が率いるFMWのことを言っているのだろう。
しかし、後に藤波社長時代の新日本プロレスは、大仁田を自らのリングに上げて、長州力との電流爆破デスマッチを敢行した。これは、興行を司る社長の藤波にとって、大きな利益となる大仁田の参戦は、苦渋の決断だったに違いない。
▼藤波社長には認められなかった大仁田厚も、新日本プロレスのリングに上がった
藤波が入門したとき、馬場と猪木が一緒に麻雀をしていた!?
ここで生徒から、藤波がプロレスラーになったときの、いきさつについての質問が飛ぶ。藤波は、元々は新日本プロレスではなく、力道山が創立した日本プロレスに入門した。と言っても、藤波が入門した当時は既に力道山は亡くなっており、ジャイアント馬場とアントニオ猪木が二大エースだった。藤波は、猪木に憧れて日本プロレスの門を叩いたのである。
そのときの、仰天エピソードがあった。
藤波が日本プロレスの部屋に案内された際、大柄な4人が小さなテーブルを囲い座っていた。そのとき、藤波が最初に見たのは、ジャイアント馬場の大きな背中。その背中があまりにも大きすぎて、1人で座っていたように見えたそうである。
しかし、よく見てみると、そこには4人の男がいた。それがジャイアント馬場を含めてアントニオ猪木、大木金太郎、吉村道明の4人である。だが藤波には、4人が何をやっているのかわからなかった。
すると、ジャラジャラと音が聞こえて来る。なんと、ジャイアント馬場とアントニオ猪木、大木金太郎および吉村道明の4人で麻雀をやっていたというのだ。馬場と猪木が一緒に麻雀を楽しんでいたというのも、今から考えるとスクープ映像である。
「馬場さん、それロンです」
「寛ちゃん、お前また裏技(イカサマ)を使ったんじゃないだろうな?」
なんて言っていたのだろうか?
馬場と猪木が仲良く麻雀をやっていたというのもレアな光景だが、ここで太平かつみが「馬場さんやったらトイメンの手が見えるんとちゃいます?」と、下らなくも興味のある質問をぶつける。藤波は「特注の麻雀台だったんでしょう」と答えた。馬場の麻雀好きは有名だが、猪木と卓を囲っていたとは……。
これは筆者の勝手な想像だが、馬場はメンタンピン系の理詰めな手を志向していたのに対し、猪木はトイトイにドラのアンコを絡めて一発逆転の手作りをしていたような気がする。
▼ジャイアント馬場とアントニオ猪木の麻雀対決も見てみたかった!?
日本プロレスに入門した際、体が小さかった藤波に対して唯一声をかけてくれたのが、憧れていた猪木だったという。それ以来、藤波は5年間も猪木の付き人を務めた。
「猪木さんの付き人を務めていたとき、タバスコを何本ぐらい貰ったんですか?」と訊く長原成樹。猪木と言えば、タバスコというイメージらしい。
「タバスコは貰わなかったけど、猪木さんからは小遣いを貰いましたよ。僕らが日本プロレスに入った頃は現在と違って給料はなくて、先輩から小遣いを貰うシステムでした。住む所も今のような合宿所ではなく、先輩の家に居候させてもらって」
と、当時のプロレス界の新弟子事情を語った。
リングに上がると強いプロレスラーも、私生活では弱い?
話はプロレスラーのギャラにも及ぶ。「プロレスラーはプロ野球選手に比べて、収入はどれぐらいですか?」という質問に対し、藤波は「過激なスポーツなのに、割に合いません」と、レスラーの待遇の悪さを口にする。「昔は試合給だったけど、今ではプロ野球と同じく年俸制です。給料も現金ではなく、銀行振り込みで」と、その頃の新日本プロレスの給料体系についても説明した。
また、年間の試合数についても、その頃は120試合ぐらいだったが、藤波がプロレス界に入った頃は年間200試合ぐらいだった、とも。プロレス全盛期、テレビ朝日の『ワールドプロレスリング』のエンディングでは、今後の試合日程がテロップで流されていたが、ほぼ毎日のように全国各地で試合をしていた。
そして、ハイヒール・リンゴがまた質問をする。「他団体で、プロレスラーになりたての選手がいきなりセミ・ファイナルに出場するケースがありますけど、藤波さんはどう思われますか?」という問いに対して、藤波は「そういう団体のファンもいるので一概には言えないけれど、やっぱりダメでしょうね」と答えた。
ここで、さっきの『プロレス界には統括する組織がなく、団体が多過ぎて、誰でもすぐにプロレスラーになれる』という問題に戻る。「ライセンス制にすればいいんじゃないんですか? そうすれば安全性も保たれるし、ランキング制なんかも導入する方法もあるでしょう」という意見が出た。藤波も、その意見に関しては賛同しており、後にはそういう動きを見せたが、26年経った今でもそれは実現していない。
現実的に言えば、プロレス界でそれを行うのは難しいだろう。仮にライセンス制度やランキング制度を作ったとしても、誰かが勝手に「プロレス団体を作りました。○○認定世界チャンピオンでござい」と名乗れば、それを止める方法はないのだ。
その後は、アンドレ・ザ・ジャイアントなどの超人伝説に話は移る。そして、藤波は「プロレスラーは、リングに上がると本当に強い」と力説した。
しかし、普段の生活の中で、テーブルの角に足の小指を打ち付けてしまうと「痛い!」。声を上げてうずくまりますよ、と藤波は情けないエピソードを語った。
最後に、ハイヒール・リンゴが「以前に藤波さんが言っていたように、全日本プロレスのジャンボ鶴田さんと闘いたいですか?」と質問したが、当時の鶴田は病気療養中。その後、鶴田は亡くなったので、藤波の夢は実現しなかった。
▼プロレスのチャンピオンでも、テーブルの角には弱い!?
『観光プロレス居酒屋リングサイド大阪』で、藤波のトーク・ライブ!
4月5日(金)の19時~21時半、『観光プロレス居酒屋リングサイド大阪』で、藤波辰爾のトーク・ライブが行われる。会費は1万円、先着20名で要予約だが、藤波の生の姿が見られる機会は、そう多くはない。場所は阪神なんば線の千鳥橋駅から徒歩8分の所にある。
昨年は、この店で力道山夫人である田中敬子さんのトーク・ライブが行われた。
もちろん、トーク・ライブが行われない日でも店は営業しているので、プロレス・ファンなら『観光プロレス居酒屋リングサイド大阪』に行くべし!
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▼[ファイトクラブ]力道山夫人が『観光プロレス居酒屋リングサイド大阪』にやって来た!
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