[ファイトクラブ]力道山夫人が『観光プロレス居酒屋リングサイド大阪』にやって来た!

[週刊ファイト4月19日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼力道山夫人が『観光プロレス居酒屋リングサイド大阪』にやって来た!
 by 安威川敏樹
・力道山の貴重なカラー映像(こんなのがあったのか!)
・ほとんどストーカーだった!?力道山(実は計画的アレンジで偶然ではない)
・まさかのサプライズ・ゲストが登場 元祖芸能活動のマッハ文朱さん
・エルビス・プレスリー談義で大盛り上がり~観光プロレス、バンザイ!


 4月6日、大阪市此花区にある『観光プロレス居酒屋リングサイド大阪』で、トーク・イベントが行われた。スペシャル・ゲストは力道山夫人の田中敬子さんである。
『観光プロレス居酒屋リングサイド大阪』は、2017年10月にオープンした新しい居酒屋。店名からもわかるように、プロレス・ファンのための居酒屋だ。

 この日は日本プロレス界の父・力道山の夫人である田中敬子さんによるイベントとあって、大勢の客が詰め掛けた。もちろん我々『週刊ファイト』だけではなく、他のマスコミ関係者も集まっていたのである。

 午後7時、いよいよ田中敬子さんがマイクを持ち、イベントが始まった。まずは力道山の貴重なVTR上映である。

▼力道山夫人の田中敬子さん

力道山の貴重なカラー映像

 力道山は、大相撲からプロレスに転身した男。それ自体は珍しくもないが、その時代の日本にはプロレスというものが存在していないにも等しかったのだ。今の力士がプロレスに転身するのも勇気がいることだろうが、それとは次元が違う。
 日本では全くの未知数であるプロレスに、大相撲の関脇まで上り詰めた力道山が身を投げるのは、どれぐらいの覚悟があったのだろう。力道山にとって、ほとんどバクチにも近いプロレス挑戦だった。

 VTRではプロレス転向前の力道山が映し出されたが、驚くべきことにカラー映像である。筆者は力道山のリアル・タイムは知らないが、モノクロ映像しか見たことがない。
 しかし、プロレス修業のためハワイに降り立った力道山の映像はカラーである。さすがはアメリカ、当時から既にカラー映像があったのか。力道山が亡くなったのは1963年だったが、その頃も日本ではモノクロ映像だった。
 力道山が亡くなった翌年の1964年、東京オリンピックが開催されたが、その開会式が日本で初めてのカラー映像だったのではないか。力道山がプロレス修業を積むため、ハワイへ行ったのは1952年。つまり、東京オリンピックの12年前だったのだ。

▼1952年、ハワイに降り立った羽織袴姿の力道山。貴重なカラー映像だ

ほとんどストーカーだった!?力道山

 映像は力道山の武勇伝が続く。プロレス時代の力道山の映像は何度も再生されているが、大相撲となると実に貴重だ。
 力道山が横綱の羽黒山と対戦したVTRまで流されていた。

▼大相撲時代の力道山

 そしてプロレス転向、その後のことはプロレス・ファンならよく知っているだろう。何よりも知りたいのは、田中敬子さんと力道山との出逢い。田中敬子さんは、そのことも赤裸々に語った。

 日本航空のスチュワーデス(現:キャビン・アテンダント)だった田中敬子さんは、ロサンゼルス行きのファースト・クラスに乗っていた力道山と初遭遇した。当時はファースト・クラスに乗る日本人なんてほとんどいなかったのである。
 そこで田中敬子さんは、力道山から積極的なアプローチをかけられた。しかし、田中敬子さんはプロレスのことなど全然知らす、しかも17歳も年上だった力道山と交際する気は全くなかったという。

 何度もデートの誘いをかける力道山。しかし、そのたびに断る田中敬子さん。
「じゃあ、デートとかではなく、お仕事の仲間と一緒にお食事などどうですか?」
などと力道山は必死に頼み込むが、田中敬子さんは、
「会社の規定で、有名人と接触してはいけないとなっておりますので」
とウソを言って断った。

 ところが、田中敬子さんは日航の上司から、
「今度、力道山から食事を誘われているんだが、一緒に来てくれないか? 私もぜひ、力道山に会いたい」
と言われてしまった。もう『社内の規定により』という口実は使えない。

 そもそも、偶然の出逢いだと思われていた力道山と田中敬子さん、実は力道山から周到に準備されていたのだ。

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