[ファイトクラブ]追悼・ハルク・ホーガン-リングに超えて刻まれた「永遠の存在」

[週刊ファイト8月7日期間 [ファイトクラブ]公開中

▼追悼・ハルク・ホーガン-リングに超えて刻まれた「永遠の存在」
 (C)Mike Lano/2025 WWE, Inc. All Rights Reserved. 編集部編
・世界が涙した一夜―“超人”ハルク・ホーガンへの静かな別れ
・“超人”誕生の幕開け―ハルク・ホーガン、デビューからAWA時代までの軌跡
・WWF黄金時代の象徴-ハルク・ホーガンという現象
・ハリウッド・ホーガン誕生とnWo旋風―WCWを制圧したヒール伝説
・WE復帰からTNA時代、そして伝説へ―終わりなき“ホーガン神話”の進化
・ハルク・ホーガン死去に世界が涙―プロレス界への永遠の遺産


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世界が涙した一夜―“超人”ハルク・ホーガンへの静かな別れ
(c) George Napolitano

 2025年7月24日、世界のプロレス界に激震が走った。WWE殿堂入りスーパースターであるハルク・ホーガンが心臓停止によりこの世を去ったという一報は、アメリカ国内はもとより、日本を含む全世界のプロレスファンに大きな衝撃を与えた。享年71。彼がこれまで築き上げてきた偉業の数々はもとより、リング上外で見せた人間味あふれる振る舞いが、老若男女問わず多くの人々に愛され続けた理由であった。

 訃報を受けて行われたWWEスマックダウン大会の冒頭では、トリプルH、コーディ・ローデス、ランディ・オートンら現役トップスターに加え、テッド・デビアス、ジミー・ハート、ハクソー・ジム・ドゥガンらレジェンドたちがリングに立ち並び、荘厳な10カウントゴングでホーガンの偉業を悼んだ。ファンは立ち上がり「ホーガン!」の大合唱を送る中、彼の歩みをまとめた追悼VTRが流され、過去から現在に至るまでの彼の偉大な足跡を改めて胸に刻む瞬間となった。

 ホーガンは静かにリングを去ったが、その魂はこれからも、世界中のプロレスリングの舞台に生き続けるのである。

“超人”誕生の幕開け―ハルク・ホーガン、デビューからAWA時代までの軌跡

 1979年12月17日、アメリカ・プロレス界に突如現れた新星、それがテリー・ユージーン・ボレア、すなわち後のハルク・ホーガンである。彼はフロリダ州タンパを拠点に活動を開始し、筋骨隆々としたその肉体と、他のレスラーとは一線を画すスター性で一気に注目を集めた。ヒロ・マツダの過酷なトレーニングを経て足を骨折しながらもなお、レスラーとしての道を諦めなかったホーガンの覚悟は尋常ではなかった。覆面レスラー「スーパー・デストロイヤー」としてデビューした彼は、すぐさま南部諸州のリングを席巻し、テリー・ボールダーやスターリング・ゴールデンといったリングネームを用いて、アラバマ、テネシー、ジョージアなどで多くの試合に出場。アラバマでは1979年にオックス・ベーカーからNWAサウスイースタン・ヘビー級王座(南部版)を奪取し、続いてディック・スレーターを破って北部版の王座も手にするなど、瞬く間にトップ戦線に躍り出た。

 この頃からホーガンは、単なるパワーファイターではなく、「観客を魅了するエンターテイナー」としての資質を開花させていく。ロックバンド活動で培ったパフォーマンス力に、プロレスへの情熱と筋肉美が融合し、彼は次第にプロレス界の“異端児”から“象徴”へと変貌していった。その名を全国に知らしめるきっかけとなったのが、1979年12月のWWF(当時)のマディソン・スクエア・ガーデンでの試合である。ビンス・マクマホン・シニアの眼にとまり、リングネームを「ハルク・ホーガン」と改めて登場した彼は、テッド・デビアスを相手に堂々たる勝利を飾る。以後、アンドレ・ザ・ジャイアントをも脅かすヒールレスラーとして、ゴリラ・モンスーンやパット・パターソンらと幾多の戦いを繰り広げ、デビュー直後から20連勝を記録して“MSGの奇跡”とも呼ばれる活躍を見せた。

1983年6月2日蔵前国技館IWGP決勝戦

 だが、彼の存在はアメリカ国内だけにとどまらなかった。1980年には新日本プロレスに参戦し、アントニオ猪木との試合や、スタン・ハンセンとのタッグなどで日本のファンにも強烈な印象を与えることとなる。特に1982年以降は、アックスボンバーという破壊力抜群の技を駆使し、日本での人気を不動のものとした。そして1983年6月、IWGP決勝リーグ戦にて蔵前国技館で猪木をアックスボンバーでKOし、堂々の初代優勝者に輝く。この一戦は日本でも社会的な話題となり、彼の決めポーズである「イチバァーン!」はお茶の間にも浸透するなど、プロレスファンにとどまらない支持を獲得した。

 その間、アメリカではAWAへと主戦場を移し、ベビーフェイスとして爆発的な人気を博す。AWA世界王者ニック・ボックウィンクルに対して幾度も挑戦し、実際には勝利していたにも関わらず、王座を戴冠できなかった“幻の王者”としてのエピソードは今なお語り草である。AWA時代にはジェシー・ベンチュラとの抗争や、ジェリー・ブラックウェルとのボディスラム・マッチといった名勝負を生み出し、さらにボビー・ヒーナン率いる悪の軍団との軍団抗争を通じて、“正義のアイコン”としての立場を確固たるものにしていった。またこの時期に出演した映画『ロッキー3』では、サンダーリップスという役でロッキーと対決するレスラーを演じ、プロレスファン以外にもその名を知らしめた。

 このように、ハルク・ホーガンはデビューからAWA時代までに、全米そして日本でのスターとしての地位を築き上げた。圧倒的な肉体美、わかりやすいヒーロー性、そして何より観客との一体感を生み出すカリスマ性において、彼の右に出る者は皆無だった。この時期の彼は、まさに“時代の寵児”と呼ぶにふさわしい存在であり、プロレスの枠を超えた現象そのものであった。ここから先、彼がWWEのスーパースターへと登り詰め、世界中を巻き込む“ハルカマニア旋風”を巻き起こすのは、もはや必然であったと言えるだろう。

WWF黄金時代の象徴-ハルク・ホーガンという現象

(C)Mike Lano WWEを作ったといっても過言ではないハルク・ホーガン
(C)Mike Lano

 1983年、ハルク・ホーガンはアメリカ最大のプロレス団体であるWWF(現在のWWE)に再登場し、そこからプロレス界全体の歴史を塗り替えるような破格のスターダムを築き上げた。すでに新日本プロレスでの活躍やAWAでの高い人気により、プロレスファンにはその存在が広く知られていたが、このWWFでのブレイクにより、ハルク・ホーガンはもはや単なるレスラーという枠を超えた、全米が知るスーパースターへと変貌を遂げた。彼のリングネーム「ハルク・ホーガン」はこの時期、エンターテインメントとプロレスを象徴する名前として、老若男女を問わず広く浸透することとなる。

 1984年1月23日、ニューヨーク・マディソン・スクエア・ガーデンでの大会において、ホーガンは当時のWWF世界ヘビー級王者アイアン・シークを下し、ついに悲願の初戴冠を果たす。この試合は、WWFの全国的なメディア展開の起爆剤として設計されていたこともあり、団体側がホーガンにかけた期待の大きさがうかがえる。タイトル獲得直後から彼は、ポール・オーンドーフ、ビッグ・ジョン・スタッド、デビッド・シュルツといった屈強な挑戦者を次々に退け、防衛を重ねた。

 シンディ・ローパーやMTVと連携したプロモーション活動も成功し、音楽とプロレスの融合という新たな潮流を作り出す中で、ホーガンの人気はさらに加速した。1985年には初のレッスルマニア大会が開催され、そのメインイベントにおいてホーガンは俳優のミスターTとタッグを組んで出場し、見事勝利を収める。このイベントは全米の注目を集め、以後毎年恒例の一大イベントとして根付き、レッスルマニア=ハルク・ホーガンという図式が確立されていった。ホーガンは単なる勝者というだけでなく、そのカリスマ的な存在感、そして「ハルカマニア」という社会現象を背負う象徴的な存在となった。


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