毒を食らわば皿までも 週プロ誕生秘話「勝てば官軍論」

ターザン山本率いる週プロがマット界の中心軸だった時代のドキュメントと回顧禄がデジタル・リマスター。プロレス史を左右した無敵メディアの全容とベースボール・マガジン社の舞台裏!
 杉山頴男編集長との出会い ?打倒ゴング?と反骨精神 池田恒雄社長 UWFと前田日明、佐山聡の出現 「勝利を信じよ」

<抜粋>
昭和58年(1983年)7月のことである。ベースボール・マガジン社史上、革命が起きたのだ。それをやったのが杉山編集長である。
「失敗したらその時は私が責任をとればいいんだよ…」と杉山編集長のその居直り具合はもう見事というしかなかった。
そういう覚悟がはたしてできるかどうかなのだ。ところでこの下からのビッグプランに対して、池田社長はどういう判断を下すのか?
その方が100倍興味があった。いつもトップダウンしかしてこなかった人がある時、急に部下から会社の土台を揺るがすような賭けに出るプランを示されたのだ。
池田社長はその時、どんな気持ちになっていたのか? その胸の内をきいてみたい。そして社長が出した結論は?やれ?だった。
この瞬間、私は「池田社長は独裁政権でもワンマン社長でもない」と思った。部下や社員のやっていることがじれったいから、あるいは頼りにならないから、また腹立たしいから現実はトップダウンするしかなかったのだ。さすがに傑物である。
私が?しめた!?と思ったのは『月刊プロレス』の前にいた『週刊ファイト』では、すでに週刊紙を作る作業を私自身が経験していたことである。
それは?紙?と?誌?の違いである。タブロイド紙面の週刊紙から雑誌の週刊誌に移行するだけなのだ。
それを現場で体験しているのは編集部の中では私ひとりしかいない。それに週刊誌になると、ニュースが主体になる。
試合もその週にあったものを次の週の発売号には載せていかなければいけない。そうなると『月刊プロレス』時代に比べると、外に出て取材するチャンスは何倍にも増える。
私はどちらかというと取材記者の方が断然、向いていたからだ。自分の活躍の場が広がることは、以前から私が求めていたことでもある。
どんな時でも「果報は寝て待て」である。焦ったらろくなことはない。
(Time is on my side; Yes, it is.)

?花の凡くら記者?から二代目”週プロ編集長”に就任
<抜粋>
 1987年といえば昭和62年。思えば昭和は残りあと2年しかなかったのだ。私が『週刊ファイト』でプロレス記者になったのが昭和52年。ちょうど10年目で私は編集長になったというわけである。
時に私は41歳だった。とんでもないほど遅咲きである。編集長だった9年間で『週刊プロレス』は飛躍的に部数を伸ばし、週刊誌としては大ブレイクした。
?勝てば官軍?とはこのことだ。私はその9年間で想像を絶する?勝てば官軍?人生、生活を送った。もう何もかもムチャクチャだった。
「売れたもんが勝ちだ。何か文句あるか?」。そんなことは一度も口に出して言ったことはないが、心の中ではそういう思いはあった。
それは逆にいうと売れない雑誌では編集者はなんの主張も認められない。そういうことを私は誰よりもわかっていたからだ。
私は完全な現実主義者なのだ。この世の中では力関係にしか真実はない。そう割り切っていた。なぜならそう考えた方が物事はすっきりする。
理屈などいらないのだ。そんな面倒臭いものはどうでもいい。物事をややこしくするだけだ。数字を見ろ。結果を見ろである。
会社はそのルールだけで十分だ。だからみんな社員はガタガタいうなよである。成績をあげてからものを言えである。
これは私が『週刊プロレス』で驚異的な売り上げをあげたから言っているのではない。部下の時から私はそういう考え方をしていたのだ。
インテリジェンスのある人間はそういう考え方をするものなのだ。言い訳はするな。理屈を言うな。それを言ってしまったらもうインテリジェンスがあるとはいえない。
恐ろしいことに『週刊プロレス』の売り上げはベースボール・マガジン社で圧倒的1位になってしまったのだ。
ベースボール・マガジン社の看板だった『週刊ベースボール』も完全に抜いた。その利益率も半端ではなかった。
取次店にベースボール・マガジン社の販売員が行ったところ、担当者の人間が「あなたの会社は?プロレス・マガジン社?に社名を変えた方がいいんじゃないの?」と言った。

活字プロレス熱中時代!全盛期のターザン山本の影響力と功績を讃えよ!
元週刊プロレス編集長・杉山頴男氏インタビュー

毒を食らわば皿までも 週プロ誕生秘話「勝てば官軍論」

商品コード tarzanyama006

価格 840 円

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