6・12新間寿追悼興行へ!藤波辰爾、新崎仁成、ディック東郷、Gサスケ インタビュー

恩人・新間寿氏に捧ぐ鎮魂ファイトを!藤波辰爾インタビュー
「新間さんに『何かやれよ』って言われた時の気持ちを捨てたくない。新間さんに捧げる試合をしたい」
ストロングスタイルプロレス 6・12 後楽園ホール大会

“過激な仕掛人”新間寿追悼興行として行われる6月12日ストロングスタイルプロレス後楽園ホール大会。新間氏の手によりプロレス人生を切り開き、葬儀では弔辞を読んだ藤波辰爾(ドラディション)はスーパー・タイガーとタッグを結成し村上和成&ブラック・タイガー組と対戦する。“炎の飛龍”が恩人に捧ぐ、鎮魂ファイト。

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──“過激な仕掛人”新間寿さん追悼大会が迫ってきました。4月30日の葬儀では「藤波辰爾は新間さん、あなたの作品です」と弔辞を読まれていました。

藤波 新間さんが手掛けたものとして、もちろん猪木さんがモハメド・アリとやった試合もありますけど、新日本プロレス本体を活性化するためという点では僕を作ったのが最初ですよね。それからタイガーマスクや長州の維新軍があって。

――アメリカ修行中の1978年1月にニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでWWWFジュニアヘビー級王座を奪取。これでジュニアの戦いを切り開き、ドラゴンブームを巻き起こしました。

藤波 新間さんはプロレスというかイベントに対する感性が本当に凄くて、お客さんの目線とか選手のモチベーションというのをすごく見ていました。そういうのが後々分かるんですよね、時間が経ってくると。今の僕というのは新間さん抜きには考えられないです。

──弔辞でも言われたように、新間さんの手で作られたところがあったと。

藤波 当時はフロリダのカール・ゴッチさんのところで寝泊まりしながら練習していて、いろんな選手が行きましたけど僕は1年半、一番長いんです。そこでプロレスや格闘技の厳しさ、選手やアスリートとして何が一番大事なのかを教えられました。リングに上がるまでの心得みたいなね。やっぱり一番大事なものは自分自身のコンディション。体の機能を正常に、自分のパフォーマンスができるようにしておかないと、どんなに力があろうが敵わない、そういったイロハを教えられました。

――プロレスラーとしての土台はゴッチさんが築いてくれたと。

藤波 大事なものが3つあるなら、まず1つ目はコンディション。その次は自分の頭で考えること。どうやったら相手を倒せるか、どうやったら相手の一歩先に技を掛けられるか。力は3つ目、一番最後でいいんだと。力は自然につくし、力だけを意識するな、順番が違うみたいな感じでした。

――コンディションを重視したゴッチさんの教えがあるから、今も藤波さんが現役を続けられているよう感じます。

藤波 そうですね。キャリアが長くなっていろんなところに故障はありますけど、やっぱり常に意識としては自分の体調というかコンディションを重視します。今は24時間のジムがうちから歩いて2~3分のところにできて、そこに自分が必要とする器具が全部揃っているので、そこでコンディションの調整ができてます。あと一番いいのはLEONAっていう刺激になる存在がいることです。彼がものすごく体を作っているから、彼を見ると俺もやらなきゃいけないなって、そういうライバルがいるのでそれがいいですよね。

――ご自身の若い時と比べ、LEONA選手の体が似てるいなと思ったりすることはあるのでしょうか。

藤波 背は僕より低いんだけど似てますね。やっぱり彼はプロレスが好きで、それで僕がこういう話をするから、彼もやっぱり体作りやコンディション作りを重視しています。だから今カール・ゴッチがいたらなぁとか、よく思うんです。息子を預けたら、すごくいいレスラーになるだろうなって。

――改めてゴッチさんは藤波さんにとって師匠にあたる存在だったのですね。

藤波 もちろん猪木さんもそうですけど、本当に全く格闘技を知らない人間にゴッチさんは格闘技のイロハを教えてくれました。

――ゴッチさんに鍛えられ、新間さんのプロデュースでドラゴンが世に羽ばたいたと言いますか。

藤波 そうですね。ニューヨークで(カルロス・ホセ・)エストラーダとやって初めてベルトを獲った時も、もうこっちはテンパって目が回って倒れそうなのに、新間さんがリングに上がる前に耳元で「いいか、何かやれよ」って言うんです(苦笑)。“この人はなんて非情なことを言うのか”と思いましたけど、それで出たのがドラゴン・スープレックスです。それまでゴッチさんのところで練習してやり方は分かっていたけど、リングに上がったらもう舞い上がって、新間さんのあの言葉がなかったらあれはやっていなかった。今もあの言葉は耳に焼きついてます。

――同じようにドラゴン・ロケットも新間さんの言葉がきっかけになったそうですね。

藤波 日本に帰って凱旋帰国ってなって、そうしたら新間さんがまた「いいかカンピオン、今日もなんかやれよ」って。ニューヨークでチャンピオンになってから、新間さんはカンピオンと名前をつけてくれて。メキシコではチャンピオンでなくカンピオンというんです。それでメキシコへの遠征に新間さんもよくついて行ってくれていたので。だから新間さんの「何かやれよ」と、ゴッチさんのところで練習したのが結びついて、名前にドラゴンがつく技、ドラゴンスクリューもドラゴン・バックフリーカーも生まれたんです。

――では新間さんの一押しがなかったら、様々なドラゴン殺法は生まれることがなかったかもしれない?

藤波 出てないですね。だから僕がジュニアでやっていた頃は、もう必ずリングサイドで眼鏡の奥から目をギョロっとさせて、もうセコンドよりもっと真剣に試合を見ていました。

――今回はスーパー・タイガーとのタッグで、村上和成&ブラック・タイガー組と対戦ですがそんな新間さんにどんな試合を見せたいですか?

藤波 村上とは久々ですね。またリングで会うことがあると思っていなかったから懐かしく思ってます。僕はどこのリングに立とうが、こうやって現役でリングに上がれる以上は、新間さんに「何かやれよ」って言われた時の気持ちを捨てたくないと思ってます。精一杯頑張って、新間さんに捧げる試合をしたいです。

――若手の時だけでなく、今も新間さんに言われたように何かやろう、やらないといけない、という気持ちがあるのですね。

藤波 我々もただ顔見せでリングに上がっている訳ではないし、リングに上がる以上は今自分ができる限りの体を、ちゃんと手入れをしてリングに上がりたいです。昔、山本小鉄さんが新日本プロレスで鬼軍曹って呼ばれていた頃、小鉄さんが口を酸っぱくして「プロレスラーというのはお金を取ってお客さんに見せているのだから、お金を取れる体を作れ」と言っていました。試合はキャリア積んでくればいろんな技が出てきて、上手くなるのは当たり前だけど、体は自分で作らなければいけないと。それを自分は今も肝に銘じています。

――そこはカール・ゴッチさんと山本小鉄さんで共通するところがあったのですね。藤波さんは1970年6月に日本プロレスへ入門し、今月でちょうど55年となります。

藤波 それから71年5月9日にデビューしたので、来年でデビュー55年です。昭和の半分以上の間をリング、プロレスにこうやって携われて、こんなに幸せなことはないです。僕の場合は脊柱管狭窄症で1回腰にメスを入れて、右足がほとんど動かない状態から何とかもう1回やってきているから、より幸せだと思うところがあるのかもしれない。今後も自分ができる最大限のことをやっていくだけです。

――最後にファンのみなさんへメッセージをお願いします。

藤波 ストロングスタイルプロレスを見に来るファン、それと僕を見に来てくれるファンに、若い時とは違う、今の自分がリングに向かう姿を見て元気になってくれる方がいれば幸いだし、プロレスのよさを楽しんでもらえればと思います。


キャリア33年目のシングル王座初挑戦、新崎人生インタビュー
「人間力の勝負になるのかなという気がしています」
初代タイガーマスク ストロングスタイルプロレス 6・12 後楽園ホール大会

ザ・グレート・サスケとともにみちのくプロレスを支えてきた新崎人生がキャリア33年目にして初のシングル王座挑戦を果たす。6月12日、ストロングスタイルプロレス後楽園ホール大会のメインイベントで船木誠勝の持つレジェンド・チャンピオンシップに挑戦するが、両者のシングルは正真正銘はじめて。歩んできた闘いの道のりは異なれど、唯一無二のキャリアを積んできた船木との闘いを「人間力の勝負」と定めた人生。ストロングスタイルプロレス旗揚げ20周年興行で船木を倒し、団体の象徴を一発戴冠することを誓った。

――ストロングスタイルプロレス旗揚げ20周年興行にして、新間寿会長の追悼興行のメインイベントで船木誠勝選手が持つレジェンド王座に挑戦。人生選手にとっては、キャリア33年目にして初のシングル王座挑戦となります。

人生 33年目にしてやっとシングルベルトの挑戦に値するレスラーだと認めていただけたのかなと。そこは素直にうれしく思いますね。

――人生選手ほどのレスラーがシングル王座初挑戦というのは驚きでした。

人生 自分はデビューが人より遅くて26歳の時だったんです。当時、自分と同世代のレスラーの方たちはすでに最前線で活躍されていて。小橋建太(当時は健太)さん、佐々木健介さん、ウルティモ・ドラゴン校長、すでにベルトを巻いてる人もいました。対して自分は26歳、しかもみちのくプロレスという小さな団体でのデビューだったので、そういった同世代の選手たちに追いつけるように頑張らないといけない。その気持ちで続けていたら、33年が経っていたと、そういう感覚なんです。

――精進の思いはいまも変わらないと?

人生 変わらないですね。感覚的にはずっと追いかけてる立場。まだまだ努力を重ねていくしかないといまも思っています。

――そんななか届いたレジェンド王座挑戦のオファー。ファンは人生さんがベルトを巻く姿を期待していると思います。

人生 そうですね。自分のためというより、自分を応援してくれるであろうみちのくプロレスのファンの期待に応えたいという気持ちはやはり強いですね。

――ただチャンピオンはあの船木誠勝選手です。年齢でいえば人生さんの2歳下(人生は58歳、船木は56歳)ですが、キャリア40周年のレジェンドです。

人生 自分が26歳でデビューした頃には、すでに最前線で活躍されていましたよね?

――人生さんが93年6月デビュー、パンクラスは同年9月の旗揚げ。船木さんはそのメインイベントで闘うなど、まさに最前線で最先端の闘いを見せていました。

人生 パンクラスとみちのくが同じ93年旗揚げですもんね。そういった意味では本当にレジェンド。以前、一度タッグマッチで試合をしていますが、それまで感じたことのない圧力と言いますか、目に見えない力を強烈に感じたのがすごく印象に残っています。

――2023年6・8後楽園で新崎人生&KENSO vs船木誠勝&間下隼人戦が実現しています。

人生 そんなに長い時間闘ったわけじゃなかったんですが、全盛期のままといいますか、自分がデビューした頃に見た船木誠勝が目の前にいた、そんな感覚がありました。

――そんな船木さんと人生さんの初シングルがベルトを懸けて2025年に激突する。誰も想像できなかった世界線のような気がします。

人生 そうですよね。それぐらい違う道を歩んできたということだと思います。

――どんな試合になると思いますか?

人生 わからないですね、イメージがわかないです。

――リングで対峙したその瞬間の勝負になると?

人生 そうだと思います。いま聞かれて想像してみましたが、全くイメージができない。プロレスという同じ業界で生きてきましたが、まったく違う道を歩んできた。だからこそファイトスタイルがどうとかではなく、人対人、人間対人間の戦いになるのかなという気がしています。

――人間対人間。

人生 人間力の勝負と言ってもいいかもしれません。

――そういう意味では船木選手とは異なる、しかし濃すぎるぐらいに濃いプロレス人生を人生さんも歩んできたと思いますし、とんでもない試合になるような気がします。ちなみに闘いの舞台が、初代タイガーマスク率いるストロングスタイルプロレスのリングだということは意識しますか?

人生 そこへの意識はあまりないですね。世界中にいろんなプロレス団体があって、いろんなスタイルのプロレスがありますけど、どこに上がったとしても(新崎人生のスタイルが)変わることはありません。自分のやれることをやるだけ。世界中どこのリングに行っても、それはもう変わらない。変わらないし、変われないですね。

――また今大会は4月21日に亡くなられた新間寿会長の追悼興行として開催されることも決まりました。

人生 自分は直接、新間さんと交流があったわけではないんですが、新間さんの息子さん、新間寿恒さんに声をかけてもらわなければプロレスラー新崎人生のいまはありませんから。そういう意味で何か縁のようなものを感じざるを得ませんし、(新間さんは)やはり“過激な仕掛け人”として新日本プロレスでいろんなアイデアを実行されていたという印象が強いので。自分もそうですけど、プロレス団体を運営する立場の人間としてお手本のような方だったと思いますね。

――病床においてもプロレスを愛し、プロレスのことを考えてる方でした。

人生 タイミングがなくてちゃんとお会いすることはありませんでしたが、勉強させていただきたかった、そんな思いはやはり抱いてしまいますね。

――その新間さんが盛り上げに尽力したストロングスタイルプロレスのベルトに挑戦するというのも何かの縁なのかもしれません。

人生 あと数日かもしれませんが、しっかりとコンディションを高めてベルトを取りに行きたいですね。

――初のシングルベルト戴冠を楽しみにしています!

人生 期待に応えられるよう頑張りたいと思います。

ディック東郷が語る新間寿氏とユニバーサルプロレス
ストロングスタイルプロレス6・12後楽園ホール大会に向けて

「心の中で『帰ってこいよ』を流して
新間さんの追悼試合に臨みます」

新間寿追悼興行として開催されるストロングスタイルプロレス6・12後楽園ホール大会にて、同氏とゆかりあるユニバーサルプロレス出身者であるザ・グレート・サスケ、ディック東郷が参戦しそれぞれ阿部史典、日高郁人をパートナーにタッグマッチで対戦する。当時のユニバーサルを知る東郷は、どのような思いでこの一戦に臨むのか、聞いてみた。(聞き手・鈴木健.txt)

デビュー前の新人の出身地を把握
した上でつけてくれた「巌鉄魁」

――ユニバーサルプロレス時代の新間寿さんを知る選手も、今となっては少なくなりました。
東郷 そうですよね。僕はユニバーサルに入門して息子さんの新間寿恒代表の方が先にお会いしていたんですけど、お父さんの寿さんとは確か試合会場の後楽園ホールで初めてお会いし、ご挨拶させていただいたと記憶しています。やっぱりプロレスファン時代から新日本プロレスでご活躍されていたことは知っていたので「ああ、この方が…」という感じでした。その頃、新間さんはスポーツ平和党の幹事長を務められていたと思うんですけど、息子さんの団体ということでかなりサポートしてくれていたんだと思います。ユニバって、メキシカンの選手を大量に呼んでいたじゃないですか。相当な費用がかかっていたはずなのに、当時の団体の力じゃ賄えきれない。表には出さずとも、そういう面で力を貸してくれていたはずです。
――表に出さないところがダンディズムですよね。
東郷 僕らも当時、新間さん本人からそういう話を聞いたことがなかったですけど、見えないところでサポートしていただいた。それで団体が継続できた部分はあったと思います。個人的に何かを言われるようなことはなかったですけど、とにかく印象に残っているのは体ですよね。「ベンチプレスをやっている」「かなり重い重量を挙げている」というような話は伝わっていたんですが、実際に見ると本当にプロレスラー顔負けなぐらいにゴツくて。ゴルフにいっているからなのか、しっかり焼いていましたからね。あの当時でけっこうなお年だったんですよね?
――90年代前半だと50歳半ばになりますね。
東郷 それであの体は凄いですよね。それほどの方でしたから、ただの新人の自分がフランクに話すようなことはなかったです。何かを言われて今も残っているというようなことはないんですけど、デビュー時のリングネーム「巌鉄魁(がんてつさきがけ)」をつけてくださったのが新間さんでした。
――我々の認識では寿恒代表が考案したものだとばかり思っていたんですが、違うんですね。
東郷 直接言われたのは代表からです。その時「親父がつけたから」と説明されました。
魁っていうのは、僕の地元に「秋田魁新報」という新聞があって、そこから採ったと。なぜか、僕が秋田出身だということを知っていたんです。
――デビュー前の新人の出身地をちゃんと把握していたと。
東郷 はい。ただ「巌鉄」はどこから採ったのかは説明がなかったんですけど。そういうイメージだったんですかね。
――新間さんほどの地位の方が一介の新人のリングネームをそこまで意味を持たせて考えてくれていたとは。
東郷 そうなんですよね。僕、新間さんの家を掃除したことがあるんですよ。代表から「実家の物置き掃除しにいってくれ」と言われて、マンションの2階だったか3階だったかな。その時も新間さんは不在で奥様…代表のお母さんしかいなかったんですけど。
――「ディック東郷は新間寿の自宅を掃除している」というのもなかなかな史実です。
東郷 あとは、スポーツ平和党の事務所の手伝いもやりました。確かサスケ会長、外道さんも一緒だったと思います。ユニバの若手が駆り出されてチラシを折り込んだりしたのかな。事務所にアントニオ猪木さんはいなかったですけど、僕ら若手と新間さんはそういう接点でした。

新間さんとグラン浜田さんの関係が
なければユニバはできていなかった

――ユニバーサルを離れた以後は?
東郷 ほとんどなかったです。来年、僕は35周年になるんですけど、亡くなられたという情報を見た時はその分の空白があったんだと思って。あの頃は自分が若かったからというのもあるでしょうけど、すごく上の年配の方に見えたのに、それからさらに35年近くご健在でいられたことになるんだというのが率直な思いでした。その2ヵ月前にグラン浜田さんも亡くなられて…浜田さんがユニバーサルに参加したのも、幹事長との関係があったからじゃないですか。お二方の関係がなければユニバーサルはできていなかったかもしれない。
――今回、追悼試合として日高郁人選手と組み、ザ・グレート・サスケ&阿部史典と対戦します。やはりというべきか、ここでサスケ選手と絡むのは必然のように思えます。
東郷 思い起こせば、渋谷の宇田川町でユニバの上映会をやるというんでいってみたら、交番の前で三度笠を被って呼び込みをやっていたのがサスケ会長との出逢いですからね。それがここにつながっていると思うと…もう、ユニバ出身の現役選手も限られてきていますからね。
――日高選手とのコンビ結成は2017年3月12日、プロレスリングBASARにおける中津良太&関根龍一以来8年3ヵ月ぶりになります。
東郷 日高とは、彼がZERO1にいって僕がフリーになった以後はしばらく一緒にやる機会がなかったんですけど、みちのくプロレスでやっていたFEC(ファーイーストコネクション)は僕が今までやってきたユニットの中でも特に思い入れがあって。日高とも連係のレパートリーをいくつも考えたりして自分のプロレスを進化させていく上でいいパートナーだったと思います。日高もアイデアマンなんで、組んでいた時は本当に楽しかった。その感覚を今回、蘇らせてやりたいですね。
――ストロングスタイルプロレスのリングへ上がることに関しては?
東郷 前の団体名の時に上がってはいるんですけど、僕もアントニオ猪木さんのことを尊敬しているのでストロングスタイル自体は理解しているつもりです。ただ、そこを目指してはこなくて、自分なりのプロレス観を築いてきた。そんな自分が新しいストロングスタイルのリングに上がることでどんな感覚になれるかですね。会場の雰囲気を見るのも楽しみですし。どれほど時が経って、どんなキャリアを積んできても、やっぱり僕の原点は新間幹事長につけていただいた巌鉄魁なんですよ。だから当日は…『帰ってこいよ』(巌鉄の入場テーマ曲)を心の中で流して入場します。

ストロングスタイルプロレス6・12後楽園ホール大会に向けて
ザ・グレート・サスケが語る「新間寿氏」と「ユニバーサルプロレス」

「ユニバ時代に幹事長からいただいたスーツをまとった感覚で臨みます!」

新間寿追悼興行として開催されるストロングスタイルプロレス6・12後楽園ホール大会にて、同氏とゆかりあるユニバーサルプロレス出身者であるザ・グレート・サスケ、ディック東郷が参戦しそれぞれ阿部史典、日高郁人をパートナーにタッグマッチで対戦する。ユニバーサル出身者の中では特に新間父子との関りがあったサスケにとって、新間氏はどんな存在となるのか。(聞き手・鈴木健.txt)

ユニバの若手と新間さんは同じ「ベンチプレス100kgクラブ」会員

―ユニバーサルプロレス出身の選手たちの中でも、サスケ選手は特に新間父子との関りがあった方です。
サスケ まず何よりも息子さんの寿恒ユニバーサル代表に拾ってもらったということが大きいですよね。まだ旗揚げ戦をする前の新人募集をしていなかった時に、青山の事務所へ直談判しにいったんです。普通ならアポもとらずにやってきた若造なんて門前払いするところですけど、即決で入門させてくださり、デビューできるまで導いていただいて。その旗揚げ戦の日(1990年3月2日)に後楽園ホールでお会いしたのが新間寿さんでした。当時、新間さんはユニバールの顧問として携わっていたんですけど、スポーツ平和党の幹事長も務めていたこともあってユニバーサルの事務所の上にスポーツ平和党の事務所が引っ越してきたんです。その時、私とスペル・デルフィン、ディック東郷、そして邪道と外道の、当時のユニバーサル若手総出で手伝いました。そのあたりから、幹事長にはよく声をかけていただくようになりましたね。

――一介の若手に対し、新間さんはどんな感じだったんでしょう。
サスケ 顔を合わせるたびに「ちゃんとトレーニングしているか?」「飯は食っているか?」って気にかけてくれるんですよ。もちろん新日本プロレス時代にご活躍されていた姿は知っていてどれほどの人物なのかわかっていましたけど、接していると親戚のおじさんみたいな感覚になりました。ただ、その中にも“過激な仕掛人”と言われた方ならではのオーラはありました。内面から出る人間としての迫力…というんですかね。その頃、若手は団体の厚意で事務所近くにあった青山のジムに通わせてもらっていたんです。そこに新間幹事長も来ていてトレーニングをされていたんですけど、そのジムに「ベンチプレス100kgクラブ」というのを作ったんですよ。100kg挙げるとジムの中に名前が飾られるんですけど、すでに幹事長の名がその中にあって。「おまえたちもクラブに入りなさい」って教えてくださいました。

――それでクラブには入会できたんですか。
サスケ ええ、みんなかなり重い重量挙げてましたので。だから我々は幹事長と同じベンチプレス100kgクラブの会員なんです! そのジムは土地柄外国人のファッションモデルの皆さんがトレーニングに来るところだったんですけど、我々の方が異端に見えたでしょうね。あと、ご自宅に呼んでいただいたこともあったんですけど、そのたびに幹事長のお古のスーツをいただいたんです。

――なんと気前のいい!
サスケ というのも、ほかの選手たちはジャージー姿でいくんですけど、私は幹事長からお食事に誘われたりとかご自宅にお邪魔する際はスーツを着ていったんです。それを見て幹事長が「おう、みちのく!(当時のサスケのリングネームはMASAみちのく) スーツを着るんだったら俺のをあげるよ」と言ってくださって。それこそ、親戚の子どもにあげるような感じでしてくださったんです。

――すごくかわいがられたんですね。
サスケ そうなんです。顧問という立場から、直接我々に何かを言うことはなかったんですけど寿恒代表にはあの選手がいいとか、この選手をもっと上に持っていったらどうだとか、そういったアドバイスは常にしていたようです。新日本プロレスとアントニオ猪木さんの全盛期をともにして、あの時代を知っている方が我々のように小さなインディペンデントの団体に対して、何も偏見がなく向き合っていただいたのが今思い返すと凄いと思うんですよね。「あんな素人同然の連中がやっていること」とあしらっても不思議ではない立場におられながら、常にファン目線でモノを考えアドバイスしていただけた。

岩手県議員になってからの方が
政治絡みで頼りにさせていただいた

――ユニバーサルを続ける中で経営状態が苦しくなり、選手として団体と衝突するようになっていった結果、みちのくプロレスを設立することになります。
サスケ そうですね。末期は幹事長とも会わなくなっていきました。あの頃は、喧嘩してでもこっちから出ていってやる!ぐらいの勢いでしたけど、みちのく旗揚げ(1993年3月16日)前にお会いする機会があったんです。「今までお世話になりました。これからはみちのくプロレスというものをやっていきます」というのをちゃんと報告しなければと思って代表を訪ねていったら、幹事長もいらっしゃって。その時に「これからはいろいろ大変だろうが、ご両親には迷惑をかけることなく、頑張れよ」と言ってくださったんです。

――感情がこじれたままの別れではなく、ちゃんと送り出してもらえたのですね。
サスケ 本来ならば雷を落とされても当たり前の状況で、そんな心配までしてくださるのかと、胸が熱くなりましたよねえ。ですから私にとっては、いつの時代でもやさしいおじ様的存在だったんです。それ以後も何度となく同じ場になったこともありましたし、私が岩手県議員時代の方がむしろ多く連絡していました。というのも、政治的な絡みでどうしても新間寿幹事長に相談したい案件があって、私の方から携帯に電話して「久しぶりだな。じゃあ、会おうか」となって相談に乗っていただいたことが何度もあります。そこからは政治的情報交換をするような関係になりました。

――プロレスではなく、政治方面でも新間さんとそこまでの関係を築けたのは猪木さんとサスケ選手ぐらいでしょうね。
サスケ 私の中では、難しい政治的案件を相談できるのは新間幹事長しかいなかったですし、答えてくださることも本当に的確で先人として頼りにさせていただきました。話を聞けば聞くほど、その人脈の凄さに圧倒されましたし。

――最後にお会いしたのは?
サスケ 前回、ストロングスタイルプロレスさんに参戦させていただいた時(2024年6月20日)ですね。顔を合わせるなり「おまえは誰だ?」と言われました。

――???
サスケ 私、黒のコスチュームからオレンジ色に変わっているじゃないですか。それでわからなかったのかもしれないですね。「私、サスケです」「なんだ、サスケかよー!」っていう会話が最後になってしまいました。

――追悼試合では阿部史典選手と組み、ディック東郷&日高郁人と対戦します。
サスケ このカードが決まって東郷と日高のXを見たら、あの二人はFEC(ファーイーストコネクション)だったんだよねえ。

――そうですよ! みちのくのユニットなんだから忘れないでくださいよ。
サスケ いやいや、忘れていはいなかったけどそっかーと思って。まあ、2000年代頭のみちのくプロレスを思い起こして自分を奮い立たせようと思いますし、阿部選手とは1年前にアメリカで一緒だったんです。

――昨年6月のストロングスタイルプロレスではタッグ対戦(サスケ&日高vsアンディ・ウー&阿部)しましたが、コンビを組むのは今回が初めてです。
サスケ バトラーツ的なものを受け継いだ選手ですよね。それがアメリカでも凄い人気でした。なのでチーム名は「日米を股にかけるコンビ」でいきます。

――語呂が悪いですね。阿部選手は石川雄規の遺伝子を受け継いでいますから「令和版チームOVNI」(サスケ&石川が名乗っていたのがチームOVNIだった)の方がいいのでは?
サスケ いいねえ。さすが!

――じゃあ、そのチーム名で…。
サスケ いや、それはあくまでも健ちゃんのアイデアであって、私はあくまでも「日米を股にかけるコンビ」でいきます!

――わかりました。先に東郷選手の話をお聞きしたんですが、当日は入場時に『帰ってこいよ』(ユニバ時代のテーマ曲)を心の中で流すと言っていました。サスケ選手も『みちのくひとり旅』を頭の中で流すのはどうでしょう。
サスケ それは「巌鉄 魁(がんてつ さきがけ)」のリングネームを新間幹事長につけていただいたディック東郷だからこそやれることだと思います。私の当時のリングネームは寿恒代表につけていただいたものですから、そこはやめておきましょう。ただし、新間寿幹事長からいただいたスーツをまとった感覚で試合に臨みます。実際に着ること自体、あまりにもったいなくてはばかれるのですが、精神的には着られますので。当日は新間幹事長とともに入場するつもりです。

対戦カード・大会概要


※月額999円ファイトクラブで読む(クレジットカード、銀行振込対応)
▼追悼〝過激な仕掛け人〟新間寿さん天国へ旅立ち by タダシ☆タナカ

[ファイトクラブ]追悼〝過激な仕掛け人〟新間寿さん天国へ旅立ち by タダシ☆タナカ

▼昭和の太陽・長嶋茂雄と力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木

[ファイトクラブ]昭和の太陽・長嶋茂雄と力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木

▼故I編集長・週刊ファイト最後の3年間にバイトした酒井隆之さんに伺う

[ファイトクラブ]故I編集長・週刊ファイト最後の3年間にバイトした酒井隆之さんに伺う

’25年06月19日期間イノキイズムI編集長 仙女 WWExAAA合同-MITB 長島茂雄 ZERO1火祭り