[週刊ファイト6月19日]期間 [ファイトクラブ]公開中
▼昭和の太陽・長嶋茂雄と力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木
by 安威川敏樹
・王貞治に比べ、プロレスラー的だったミスター
・ミスターのプレーに影響を与えた、ミスター・タイガースと力道山
・ミスターと2年間、チームメイトだったジャイアント馬場
・何から何までソックリなミスターとアントニオ猪木
・ラッシャー木村のマイク・パフォーマンスに匹敵! 爆笑ミスター語録
ミスター・プロ野球こと長嶋茂雄さんが6月3日に亡くなった。享年89歳。以降は長嶋さんのことをミスターと呼ぶが、ミスターの存在は太陽そのもの。現役時代はミスター・ジャイアンツと呼ばれていたが、引退後はミスター・プロ野球というニックネームが定着した。
『ミスター・○○(チーム名)』の異名を持つ選手は多いが、ミスターはプロ野球そのものを象徴する存在だった証明だ。今後はもうミスター・プロ野球と呼ばれる選手は現れないのではないか。(本文中敬称略)
▼追悼・長嶋茂雄:メディアにとっての昭和の終焉~6月アラカルト情報考
王貞治に比べ、プロレスラー的だったミスター
「長嶋さんの現役時代、僕が決勝ホームランを打っても、新聞の一面トップになるのは先制打を放った長嶋さんなんてことが何度もあった。マスコミやファンにとって巨人の長男坊は長嶋さんで、僕はいくら活躍しても次男坊としか見てくれず、随分と悔しい思いをさせられたんだ」
そう語っていたのは、通算756号ホームランを放ってハンク・アーロンの本塁打世界記録を塗り替えた夜の王貞治だ。王といえば現役時代、読売ジャイアンツ(巨人)でミスターとON砲を形成した世界のホームラン王である。
王はなおも言葉を続けた。
「でも、長嶋さんが引退して僕が巨人の長男坊格になり、勝利に関係ないホームランを打っても一面トップになったとき、初めて長嶋さんの苦労が判った。次男坊のときには想像もしなかった責任の重さ。長嶋さんはこんなプレッシャーを跳ねのけてあれだけ活躍していたんだと、改めて尊敬する思いだったよ」
王の通算ホームラン数868本に対し、ミスターは約半分の444本。ミスターのホームラン数も充分に一流だが、プロ野球(NPB)記録で言えば15位(日米通算では松井秀喜に抜かれて16位)で、ミスター・プロ野球と呼ばれるほどの数字とは言い難い。
それでも、その人気はNPB史上最高と言っても過言ではなく、誰よりも愛される人物だった。
よく言われるのが「王は記録に残る選手、長嶋は記憶に残る選手」ということだ。空前絶後の記録を積み上げた王よりも、約半分のホームランしか放っていないミスターの方が印象深いのである。世界一のホームラン王になっても、王が『ミスター』と呼ばれることはなかった。
それは2人のプレー・スタイルにもよく現れているだろう。真面目な王は『ホームランを打ち、そしてチームが勝利することこそがファン・サービス』と考えていたのだ。
それに対し、ミスターは打てなかったとき、負けたときのファン・サービスを考える。ミスターの生涯打率は3割5厘で、巨人9連覇中の勝率は6割程度。
逆に言えば、ミスターは7割も凡退し、巨人がいくら強くても4割は負ける。NPBチームは年間百何十試合も行うが、球場には一生に一度の野球観戦というファンがいるかも知れない。そんな一期一会の客にも楽しんでもらおうと、凡退したり負けたりしたときこそ派手なパフォーマンスで球場に来たファンを喜ばせていた。
これは、プロレスラー的な考え方だ。プロ野球は勝ってナンボと言われるが、プロレスはファンを楽しませてナンボという商売。それをミスターは野球で実践していたのである。
ミスターのプレーに影響を与えた、ミスター・タイガースと力道山
そんなショーマン・シップに秀でたミスターに影響を与えた人物が2人いた。1人目は藤村富美男である。
藤村は『物干し竿』と呼ばれた長いバットを振り回して、大阪(現:阪神)タイガースの四番打者として活躍し、ミスター・タイガースと呼ばれた男。ポジションも長嶋と同じサードである。
当時のプロ野球は、東京六大学野球よりも人気が低かった。そんな中、藤村は真面目なプレーを心掛ける学生野球との差別化を図るべく、派手なプレーを売りにしたのである。
プロは客からカネを取って野球を見せている以上、ファンを楽しませなければならない。ショーマン・シップ溢れる藤村のプレーに、長嶋は魅了された。後にミスター・ジャイアンツと呼ばれる男が、ミスター・タイガースに憧れていたとは面白い。
藤村がお手本としたのは、他の野球選手ではなく『ブギの女王』こと笠置シヅ子。芸能人を参考にした野球選手も珍しい。
笠置シヅ子に触発され、ファン・サービスに徹した藤村のプレーは、ミスターにとって格好の教科書となった。
東京六大学が最も人気を博していたのは、ミスターが立教大学でプレーしていた頃だろう。そんなミスターが巨人に入り、学生野球ファンがプロ野球に流れ、東京六大学とプロ野球の人気が逆転した。
ミスターのプロ野球デビュー戦はよく知られている。当時、プロ野球最高の投手だった国鉄(現:東京ヤクルト)スワローズの金田正一に対して、4打席連続三振。三振しながらも豪快なスイングでファンを魅了したミスターは既にショーマン・スタイルを身に着けていたと言えるが、実力も申し分なく新人の初試合ながらいきなり三番打者だった。ちなみにこの年、ミスターは29本塁打を放ってホームラン王に輝くなど、当時はプロ野球と学生野球の差があまりなかったのだ。
東京六大学からプロ野球のスーパースターになったミスター。そんなミスターに影響を与えたもう1人の人物とは?
それは、他ならぬ力道山である。
当時のプロレスは毎日のように試合を行い、力道山は毎試合ファンを熱狂させていた。いや、ファンではなく日本人全員、と言ってもいい。
この頃の巨人はプロ野球では圧倒的な人気を誇っていたが、当然アンチ巨人もいる。いくら皆に愛されてると言っても、ミスターのことを嫌いな人(特に阪神ファン)も多かっただろう。
しかし、力道山のことが嫌いなプロレス・ファンはほとんどいなかったに違いない。嫌いな人がいたとしても、それはプロレスが嫌いなだけであって、力道山が嫌いで外国人レスラーが好き、という日本人は皆無だったのではないか。
ミスターは、そんな力道山を羨ましく思っていた。そして、プロ野球選手も力道山のようにあるべきだ、と。お客様からお金をいただいて我々の生活が成り立っているのだから、毎試合ファンを楽しませるのがプロ野球選手の仕事だと考えていたのだ。これこそ、まさしくプロ・スポーツの本質である。
ミスターと2年間、チームメイトだったジャイアント馬場
「どうだ、王、まいったろう!?」
「ま、まいりましたッ、長島さん! あんなに高いところからボールが落ちてくるなんて……。初めての経験ですし、球質も重い!」
これは漫画『プロレススーパースター列伝』(原作:梶原一騎、作画:原田久仁信)に描かれている、ミスターと王との会話である。
そして、王が対戦していた『高いところからボールが落ちてくる』相手投手というのが、当時は巨人に在籍していた馬場正平、後のジャイアント馬場だ。
▼ガマ・オテナにウラウナ火山、プロレススーパースター列伝の真実!
馬場は1955年、ミスターは1958年に巨人入団と、プロ野球選手としては馬場の方が3年先輩だが、馬場が高校中退でミスターは大卒のため、年齢ではミスターの方が2歳年上。共に戦前の生まれである。ちなみに王は、ミスターの1年後に巨人入団し、馬場よりも3学年下だ。
馬場はミスターとは2年間、王とは1年間チームメイトだったが、その間に馬場は一軍には上がれなかったため、2人と一緒にプレーしたことはない。
それでも、馬場がプロ野球を辞めてプロレスラーになってからも、2人との親交は続き、何度も雑誌などで対談した。
馬場は巨人を退団後、大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)のキャンプに参加したが、風呂場で転倒して大怪我を負い、プロ野球選手としてのキャリアを終える。巨人時代、一軍での登板は僅か3試合だったが、二軍では3度も最優秀投手に輝いた。
つまり馬場は、投手としてのポテンシャルは備えていたわけで、もし風呂場で転ばなければ大洋の主力投手としてON砲と夢の対決が見られたかも知れない。王ほどの打者が、打撃練習で馬場の球を全く打てなかったのだから、馬場がONキラーになっていた可能性もある。
当然、そうなっていれば不世出の大レスラー、ジャイアント馬場は生まれなかったのであるが。
何から何までソックリなミスターとアントニオ猪木
学校で1クラス40人だとして、クラスの中に同じ誕生日の人たちがいる確率は? という問いを数学の授業で出されたことがある人も多いだろう。
答えはなんと約89%。多くの学級では、同じ誕生日の人が1組はいる可能性が極めて高いのだ。