[ファイトクラブ]追悼〝過激な仕掛け人〟新間寿さん天国へ旅立ち by タダシ☆タナカ

[週刊ファイト5月1日期間 [ファイトクラブ]公開中

▼追悼〝過激な仕掛け人〟新間寿さん天国へ旅立ち
 by タダシ☆タナカ
・知られざる逸話①:世界初の学生プロレス団体DWA設立支援にも関与 
・知られざる逸話②:タイガーマスクとダイナマイト・キッドMSGデビュー
・知られざる逸話③ビンス・マクマホンSRに叱られるドラ息子JRを目撃
・なぜ、WWFと「MSGシリーズ」の新日本プロレス提携はポシャったのか
・最後に訃報に際してスキャンダル御法度と教えられてきたマスコミ鉄則


 4月21日(月)18時47分 かねてより病気療養中だった新間寿さんが亡くなった。
 3月下旬、新型コロナウィルス感染により都内の病院に入院、一時は回復して退院したものの、肺炎を発症してしまった。享年90歳。最後の肩書きは初代タイガーマスク ストロングスタイルプロレス会長、一般社団法人初代タイガーマスク後援会理事長だった。

知られざる逸話①:世界初の学生プロレス団体DWA設立支援にも関与

▼訃報 爆弾小僧 ダイナマイト・キッド逝く…

訃報 爆弾小僧 ダイナマイト・キッド逝く…

 オモテに出てくる略歴紹介だと、第一次UWF創立の仕掛け人だの、長男・寿恒氏が代表ながら、日本初のルチャリブレ団体ユニーバーサルも黒幕であるとか、その他、様々なNPO法人まで、知る人ぞ知るエピソードも数知れず。しかし、世界初の学生プロレス団体DWA(同志社プロレス同盟)設立支援にも関与となってくると、さすがに驚かれるだろう。

京都・日本正武館パーティでの筆者、初代DWA王者エンペラー坪野、A猪木、千政和(敬称略)
▼FC誌の全盛期、世界で最初のやる側・作る側によるシュート活字Wrestling Digest

 アントニオ猪木や藤波辰巳の活躍と刺激がなければ、学生プロレス団体DWAの1978年創立は起こりえない。また、I編集長こと故・井上義啓先生率いるタブロイド紙・週刊ファイトの発展もありえなかった。つまりは「喫茶店トーク」の当初の相手役だった記者による、現在のWEBを軸とした「週刊ファイト!ミルホンネット」も存在しないのだ。

 確かに、社会人プロレスの方が学生プロレスよりも先ではある。1つの年度に1,2名だけ学生のレスラー志望者がいて、マット敷いて試合やったらしいという話こそ聞くが、大学が正式に認可する部活サークルとして、本物のリングを所有して文化祭で大々的に大会を開催したのは、間違いなくDWAが世界初なのだ。
 1つは京都・裏千家の御曹司である故・千政和さんが新日本プロレス、つまりは新間寿さんと交流があり、我々は旧・大阪府立体育会館での新日本プロレスの大会などに出入り出来ていたから、それが”大会”をプロモートすることに繋がる発端となる。

 最初に新間さんと口を聞くようになって、まず驚かれたのは「学生プロレス? レスリング部じゃないのか? プロレスをやるのか?」である。「はい、ボクは全部わかってます。(その当時、抗争していた)藤波辰巳と剛竜馬は、ここはこうでアレで、今日は恐らくこうなります」とかスラスラ答えたもんだから、さらにビックリされて「なんで君はそんなことまで知ってるのか」となるのは自然だろう。

 あとから知ったことだが、世の中には本能的に最初から”作り”を理解しているタイプのファンが、1%以下らしいが存在するというデータがある。記者の小学校の最後の年は、ローラーゲームが超・大ブームであり、毎週全員が見ていたのだが、「事前に全部決めてやっているエンタメ・スポーツ」と、記者は最初から見破っていた。

 なにしろ大阪市内のど真ん中、グラウンドの裏が日経新聞本社、北浜駅の入り口には証券取引所があるヘビーメタル環境の小学校である。芸能人の師弟も多く、例えば奇術師のトリックを、そもそも舞台裏から見ていた。また、中学時代はクラスメイトの女子が、年齢を偽ってローラーゲームの大阪のチームに加入している。

 ほどなくして「かばん持ち」なる表現があるが、実際に荷物を持ったわけではないにせよ、記者は新間さんにくっついてアチコチ回るようになっていた。なにしろ生意気盛りの当時のボクは、「山本小鉄より面白いストーリーやれる」と豪語していた。みなみにあった「アメリカ村」のゴジン・カーンと一緒にタイガーマスクのデビュー企画にも関与したのだが、本稿の主旨はあくまで「追悼・新間寿」である。ただ一時期、新間さんは記者にとって親父の存在だった。
 大会をプロモートするというのはどういうことなのかを直接学べたからこそ、DWAはすべての学生プロレスの元祖となりえたのである。

知られざる逸話②:タイガーマスクとダイナマイト・キッドMSGデビュー
’18年12月20日号KnockOut 原点回帰 ONEターナー 新間寿 Dキッド 小川直也 新日キック

 記者がニューヨークに移住したのは同志社を卒業してスグ、1982年5月からである。タイガーマスクがダイナマイト・キッドとMSGで闘った試合も正規の移住後にリングサイドで撮っているが、なにしろフィルムの時代なので、そのまま週刊ファイトの大阪印刷所にAir mailしたきり。記者の手元にないのが残念なのだが、こんなエピソードもあった。

 試合直前、「チーズケーキ食って下痢になった」と、タイガーがトイレから出てこないのだ。「お前呼んでこい」と新間さんに言われて説得しに行ったのは記者である。つい4,5年前のことだったか、リアルジャパンの会見後に佐山サトル先生と話す機会があり、「呼びに行ったのボクですよ」となって、細かい話を知っているから「そうか、君だったのかぁ」となったことがあった。

 くだんの試合、なにしろプロレスは記録よりも記憶なので、「凄い試合をMSGで披露して伝説になった」と後年は書かれているのだが、最初から全部見ている記者には、ほんのさわりをやっただけの内容だった。佐山先生は、「あれもやっちゃダメ、これもするな」と、技の制約縛りがキツくて「やりたい試合が出来なかった」となるんだが、本当は、緊張の余りトイレに閉じこもってしまったこともあろう。

知られざる逸話③ビンス・マクマホンSRに叱られるドラ息子JRを目撃

 今から45年前の1980年8月9日、WWFシェイ・スタジアム決戦『Showdown at Shea』があった。上記は奇跡的に残っている記者撮影の一塁側ベンチの様子だ。試合を見つめるビンス・マクマホンSR(中央)を囲んで、トニー・アトラス、右上にはペドロ・モラレス。後列左からドン・デヌッチー、グレッグ・ガニア、アントニオ猪木。ブラックジャック・ランザ、アンジェロ・サボルディも映っている。

 あくまでブルーノ・サンマルチノと、師匠を裏切ったラリー・ズビスコの金網決着戦がメインだった。この日、記者は旧・週刊ファイト井上讓二先輩の補佐に過ぎないのだが、ビル・アプター、ジョージ・ナポリターノの二大巨頭と初めて会っている。新間さんの訃報と、2025年の『レッスルマニア』が重なったのは単なる奇遇なのだろうか。

 この時のことは、実は大会前のエピソードの方がはるかに強烈かつ、印象に残っている。

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