[週刊ファイト6月19日]期間 [ファイトクラブ]公開中
▼故I編集長・週刊ファイト最後の3年間にバイトした酒井隆之さんに伺う
by 格闘技I記者 編集部編
・巨星アントニオ猪木さん訃報に各社特集号出たが・・・発掘:ファイト報知
・I編集長「イノキイズムとは何か?」~生きることにリアルも糞もねぇだろ
・1993年、井上義啓先生の退職と酒井隆之氏の報知新聞入社が重なる
・喫茶店トーク’25格闘技I記者による取材開始~元祖の相手役も加わる
・関西大学プロレス研究会 学園祭に藤波辰巳、アントニオ猪木、I編集長
・その後、I編集長から声をかけられ週刊ファイトでアルバイトを開始する
・プロレスの中に格闘技があるのか? 格闘技の中にプロレスなのか?
週刊ファイトに関与したOBとなると、名前の知られたターザン山本先輩や、広義でI編集長に強い影響を受け面接を受けたものの、「ウチは安いから東京のマスコミに行きなさい」と採用を断られて、のちに某誌の編集長になった方もいる。スポーツ報知の編集局、デジタル編集部長となられた酒井隆之氏は、本来の意味からは出世頭ということになろう。
インタビューした日がちょうど、長嶋茂雄さんの訃報の余韻が残っていた先週になる。NHKが6月8日、日曜の夜に放送した1時間の追悼番組でも、真っ先に長嶋茂雄を象徴する写真として画面に取り上げていたのがスポーツ報知の1枚だ。ヘルメットを飛ばして豪快に三振する長嶋茂雄の、世間的にもっとも有名なカットを表紙にした6月4日号を手に来てくれたのが酒井隆之氏である。直接に故I編集長こと井上義啓先生に師事しただけでなく、それがちょうど週刊ファイトでの最後の3年間(92年度まで)でもあった。
巨星アントニオ猪木さん訃報に各社特集号出たが・・・発掘:ファイト報知

巨星アントニオ猪木が亡くなった際、当たり前の話、”猪木新聞”とも揶揄された週刊ファイト以下、各社が特集号を出したのは自然のこと。本誌などは、週刊サイクルの電子書籍ジャーナルを、翌週も、そのまた次もと延々とやり続けた。今でもどこかしかに「猪木」は出てくるものだ。
▼‘22年10月13日号A猪木追悼特集増刊号合冊スターダム5★ AEW暴力沙汰 地下インパクト
スポーツ報知は実質の非売品として、なんと『ファイト報知』名義で「お別れの会準備運営事務局」が8ページのタブロイド新聞を発行。新日本プロレスが両国国技館での葬儀の際に配ったりしていた。この時の編集者が酒井隆之氏なのだ。
I編集長「イノキイズムとは何か?」~生きることにリアルも糞もねぇだろ
編集後記にあるが、I編集長は「イノキイズムとは、感覚的なものであって、いくら理性で秩序だてて理解しようとしても絶対ダメ。ポンと感じた感覚で作り上げていくものである。だから、私のイノキイズムと君のイノキイズムは全く違う」と述べている。
報知ファイトの紙面は、昔の週刊ファイトの写真が使われた”猪木新聞”継承の追悼号であった。

1993年、井上義啓先生の退職と酒井隆之氏の報知新聞入社が重なる
酒井隆之 略歴
1969年4月12日 大阪市生まれ。1988年、関西大学プロレス研究会1年時にI編集長と初の喫茶店トーク、同年11月の学園祭で藤波辰巳講演会、1989年11月の学園祭でアントニオ猪木講演会を開催し、ともにI編集長をゲストで招く。
1990年2月から新大阪新聞社「週刊ファイト」でアルバイト開始。レイアウト、関西圏の取材のほか、I編集長を囲むシンポジウムを開催(90年10月=BI砲30周年、91年9月=新日本vs. FMW、93年3月=I編集長の新大阪新聞退職と自身の大学卒業)。1993年4月に報知新聞社入社。大相撲、プロ野球などを担当。プロレスは95年の北朝鮮平和の祭典などを取材。
▼井上義啓 猪木は死ぬか!Digital Remaster
喫茶店トーク’25格闘技I記者による取材開始~元祖の相手役も加わる
6月某日、JR両国駅。
私は、ここでタブロイド紙の頃に週刊ファイトに関わっていた業界の大先輩に会いに来ていた。
その人の名は、酒井隆之氏
この両国にある、スポーツ報知新聞社で編集局 デジタル編集部の部長まで上り詰めた、ファイトに関わったOBでは出世頭に当たるとタダシ☆タナカさんからは聞いていた。
今回、酒井さんにお話を伺う大きな理由の一つは週刊ファイトのこと。そして敬愛してやまない週刊ファイトの名物編集長であるI編集長こと井上義啓氏の人柄などを伝え知りたいということがあった。
なにしろ、私の“格闘技I記者”は、その名前をもじったペンネームである。
場所はスポーツ報知がある両国、いわずと知れた両国国技館の隣にあるビルだ。よってインタビューの場所は、和牛ステーキ『和邦』となった。
久しぶりの、いきなり!ステーキ名物社長一瀬(邦夫)氏との再会。お元気でなにより。
同じ両国にあることと、過去にこの和邦を運営するいきなり!ステーキは、私のもう一つの顔、UWFのド直系格闘技団体「キングダムエルガイツ」にスポンサードしてもらった経緯のある恩人、名物社長の一瀬邦夫さんが運営している店舗である。
タダシ☆タナカ氏と、店内で待っていると時間ちょうどに酒井さんはやってこられた。
ロマンスグレーの髪に、パリッとしたスーツ姿。なかなかのイケオジの雰囲気が漂う。
名刺交換もそこそこに、和邦自満のステーキランチを食べながらの歓談が始まった。
週刊ファイトの大先輩との会談で、I編集長の新しい発見をした格闘技I記者(手前)だった。
大相撲担当だったこともある酒井さんは、同じ歳の1969年生まれ。私のバックボーンでもある相撲時代の話にも興味があったらしく、若貴や曙と一緒に相撲教習所に通っていたこと。同期には大関になった魁皇関や、のちに格闘家に転向した戦闘竜がいること。新弟子の頃、土俵上からドロップキックを勝った相手にお見舞いしてしまい、スポーツ新聞はおろか、三大新聞の紙面に大々的に登場した過去の黒歴史で盛り上がった。
関西大学プロレス研究会 学園祭に藤波辰巳、アントニオ猪木、I編集長

さて、そこからは、当然ながらI編集長のことに話は移っていった。
I編集長との出逢いは、酒井さんが在籍していた関西大学時代まで遡る。当時同大学のプロレス研究会の1年だった酒井さんは、I編集長の代名詞の一つである喫茶店トークを同氏としたことで大変感銘を受けたらしい。
関大プロ研は、その年の学園祭に新日本プロレスの昇り竜、藤波辰巳選手を登場させる。
時は、まさに“飛龍革命”真っ只中。