名曲『オリンピア』でお馴染みのセルジオ・メンデスさんが9月5日に亡くなった。この曲は1984年夏に開催されたロサンゼルス・オリンピックのテーマ曲だが、プロレス・ファンはそれよりも全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦を連想するだろう。
この曲を聴くと「ああ、今年も1年が終わるんだなあ」と感慨に浸るプロレス・ファンが多いに違いない。
▼セルジオ・メンデス『オリンピア』
そこで、想い出に残る最強タッグの大会を3つ選んでみた。もちろん、これは筆者の独断と偏見によるもので、異論がある方もいらっしゃるだろう。
あなたは、どの最強タッグが印象に残っていますか?
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▼年末は『第九』よりも『オリンピア』!世界最強タッグ決定リーグ戦の歴史
第3位:大巨人コンビが大暴れ! 激戦を制したのは殺人魚雷
1990年の大会は、新団体SWSに全日本プロレスのレスラーが大量移籍したため、盛り上がりに欠けるのではないかと危惧された。ところが、蓋を開けると熱戦続きで、ファンは改めて全日タッグ戦線の底力を実感したのである。
大会の前半は、ジャイアント馬場&アンドレ・ザ・ジャイアントの大巨人コンビが全勝街道を突っ走った。大会序盤にはスカイウォーカー・ナイトロン&ブレイド・ブッチ・マスターズのザ・ランド・オブ・ジャイアンツと対戦する。身長209cmの馬場が最もチビという珍しいタッグ・マッチとなったが、もちろん大巨人コンビの圧勝。
そして、優勝候補筆頭のテリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムスの殺人魚雷コンビまで破った。馬場が必殺のランニング・ネックブリーカー・ドロップでゴディからピンフォールを奪ったのだ。
しかし、ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクのザ・ファンクス戦で、馬場が左足を骨折。以降のリーグ戦は不参加となり、優勝は幻と消えた。
SWS事件の煽りを受け、この年に超世代軍が結成され、三沢光晴&川田利明が出場。ジャンボ鶴田は若手の田上明との鶴明砲で参加したが、残念ながら日本人チームは優勝戦線には残れず。
優勝を争ったのは、前述の殺人魚雷コンビと、スタン・ハンセン&ダニー・スパイビーという、いかにも全日らしい大型パワー・ファイター外国人コンビの激突となった。
ウィリアムスはこの年の2月に新日本プロレスから移籍、ゴディと組んでそのパワーが活かされるようになる。前年、優勝したハンセンはパートナーを、SWSに移籍した天龍源一郎から身長203cmのスパイビーに換え、棄権した大巨人コンビを抜いて首位に立った。
しかし、殺人魚雷コンビとの最終戦では、残り1秒でハンセンがウィリアムスにフォールを奪われ、ハンセンにとって2連覇ならず。殺人魚雷コンビが初参加初優勝となった。
第2位:天龍が遂に馬場越え! 最終戦は史上初の全勝対決
1989年の大会の目玉は、なんと言ってもそれまで敵対していた天龍源一郎とスタン・ハンセンがコンビを組んだ龍艦砲。そのハイライトとなったのは、札幌中島体育センターで行われたジャイアント馬場&ラッシャー木村の義兄弟コンビとの対戦だ。
ゴング前、入場してくる馬場に、天龍がまさかのトペ・スイシーダ(ある意味、ドラゴン・ロケット?)! 馬場を戦闘不能にし、天龍とハンセンが2人がかりで木村を痛めつける。グロッキー状態の木村が、ようやく復活した馬場とタッチ。しかし、今度は木村が既に闘う力を失い、結局この試合で義兄弟コンビがタッチをしたのはこの時の1回だけだった。
馬場は龍艦砲を相手に1人で奮闘するも、やはりこの強力コンビが相手では分が悪く、最後は天龍がパワーボムで馬場を葬る。天龍はジャンボ鶴田に先駆けて、馬場からピンフォールを奪ったのだ。
この日、東京ドームでは第二次UWFによるU-COSMOSが開催されていた。当時、社会現象になるほど大ブームを巻き起こしていたUWFにマスコミが殺到。既にオワコンと思われていた全日本プロレスの最強タッグなど見向きもしなかった。
そんな中での、馬場のフォール負け。馬場は自ら負けることにより、UWFに対して意地を見せたのだ。この時の天龍が発した「この勝ちは東京ドームよりも重い!」は名セリフである。
優勝争いを演じたのは、その龍艦砲とジャンボ鶴田&谷津嘉章の五輪コンビ。全日の象徴だった鶴田&天龍の鶴龍コンビが袂を分かち、それぞれ新日本プロレス育ちのハンセン及び谷津と組んだのが面白い。
最終戦、史上初の全勝対決となった両チームの闘いは、五輪コンビの猛攻にハンセンがフラフラになりながら最後は谷津に必殺のウエスタン・ラリアット! ピンフォールを奪い、龍艦砲は史上初の全勝優勝となった。
▼天龍源一郎は優勝したものの翌年に新団体のSWSに移籍
第1位:スタン・ハンセンが乱入、全日本プロレスに電撃移籍!
第1位はやはりこれだろう。1981年の世界最強タッグ決定リーグ戦、この頃は全日本プロレスと新日本プロレスとの間で引き抜き合戦が激化していた。
(注:この年はまだ『オリンピア』は使われていない)
新日が全日の看板悪役だったアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜けば、全日も新日の絶対的ヒールであるタイガー・ジェット・シンを抜き返す。両団体の仁義なき報復は泥沼化していた。
全日が最強タッグを行っていた同じ時期、新日でもMSGタッグ・リーグ戦を開催。当時の新日で人気№1外国人だったスタン・ハンセンも参加していた。
ところが、MSGタッグの全日程が終了してもハンセンはアメリカに帰国せず、そのまま日本に居座る。この時すでに、ハンセンとジャイアント馬場との間に密約が出来ていた。
最終戦の東京・蔵前国技館。ザ・ファンクスと闘うブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカの野獣コンビのセコンドとして、突如ハンセンが乱入したのだ。
ファンクスと野獣コンビの攻防は一進一退となったが、セコンドのハンセンが遂に師匠格のテリー・ファンクに対して必殺のウエスタン・ラリアット! テリーは完全にグロッキーとなり、以降は戦線に復帰することはなかった。
▼ブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカは後年、新日のIWGPタッグ・リーグ戦にも参加
弟のテリー不在により、孤軍奮闘となった兄のドリー・ファンク・ジュニアは野獣コンビの集中砲火を浴びる。そして、最後はブロディのキングコング・ニー・ドロップに屈した。
優勝を果たし、リング上で喜び合う野獣コンビとハンセン。しかし、ここにジャイアント馬場とジャンボ鶴田が乱入し、大乱闘となった。新日のエース外国人であるハンセンと、全日の総帥・馬場との対決にファンは大興奮。馬場の脳天唐竹割チョップ連打により、ハンセンの額から流血がほとばしった。
乱闘は控室にまで及び、テレビのインタビューに対し馬場は怒りのコメント。自分で引き抜いておいて怒るのもおかしいのだが、この時の馬場は本当に迫力があった。リングに戻った馬場はファンに対し「ハンセンと決着をつける!」と電撃移籍を発表。ファンから大歓声が上がった。
以上が、筆者の選ぶ世界最強タッグ決定リーグ戦のベスト3です。読者の皆様の脳裏にも『オリンピア』のメロディが流れたことでしょう。
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