[ファイトクラブ]年末は『第九』よりも『オリンピア』!世界最強タッグ決定リーグ戦の歴史

[週刊ファイト12月14日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼年末は『第九』よりも『オリンピア』!世界最強タッグ決定リーグ戦の歴史
 by 安威川敏樹
・『最強タッグ』の前身、世界オープン・タッグ選手権
・恐怖!ザ・シークの火炎殺法
・新日本プロレスのスタン・ハンセンが突如乱入
・最初で最後の超獣対決スタン・ハンセンvs.ブルーザー・ブロディ
・2017年の優勝チームは?


 いよいよ師走に入り、2017年も終わりを迎えようとしている。巷ではベートーヴェンの『第九』が流れる季節だ。
 しかし、プロレス・ファンにとって年の瀬の曲は『第九』ではないだろう。この時期にいちばん似合うのは『オリンピア』だ。言うまでもなく全日本プロレスの『世界最強タッグ決定リーグ戦』のテーマ曲である。

▼オリンピア(セルジオ・メンデス)
https://www.youtube.com/watch?v=zPf7E0G_MC0

『オリンピア』は元々、1984年に行われた夏季オリンピック・ロサンゼルス大会のテーマ曲だった。このときはボーカルが入っていたが、全日本プロレスで使われているのはインスト・バージョンである。

 つまり『オリンピア』は元々夏の曲だったのだが、日本のプロレス・ファンにとっては冬の曲、それも年末を実感する曲だ。精神科医の香山リカは『オリンピア』を聴くと「もう今年も終わりね」という気分になるらしく「プロレスを歳時記代わりにするのはやめろよ」と弟(ミュージシャンの中塚圭骸)にバカにされるそうである。
 まあ『第九』だって、年末に演奏する風習があるのは日本だけだそうであるが。

『最強タッグ』の前身、世界オープン・タッグ選手権

『世界最強タッグ決定リーグ戦』の始まりは、1977年に行われた『世界オープン・タッグ選手権』である。当時のプロレス界には「年末のシリーズと、タッグ・リーグ戦は失敗する」というジンクスがあった。

 日本プロレス時代には『NWAタッグ・リーグ戦』という企画があったが、黄金時代を築いていた当時の日本プロレスには珍しく、不人気シリーズだったのである。ジャイアント馬場とアントニオ猪木というBI砲が人気絶頂だったのに、両者はタッグを組まなかったのだ。
 その理由を日本プロレス側は「BI砲が出場すれば優勝は決まったようなものなので、大会を盛り上げるために敢えて両者を分けさせた」と説明した。

 しかし実際は、当時のNETテレビ(現:テレビ朝日)は馬場の試合を放送できなかったため(馬場は日本テレビの専属契約だった)、BI砲がタッグを組むとNETテレビは猪木の試合も放送できないということで、日本プロレスがNETテレビに配慮して馬場と猪木を分けさせたのである。
 だが、大人気のBI砲がタッグを組まなかったので、最強のタッグ・チームを競うリーグ戦ではないと、ファンからはソッポを向かれる結果となった。

 その反省からか、全日本プロレスを興した馬場は「ジンクスを打ち破るために、暮れに有名レスラーを集めてシリーズを行おう。人数が多くてもタッグ・リーグ戦なら、色々なレスラーの組み合わせを楽しめる」と考えた。
 2年前には暮れに『オープン選手権』を開催しており、「強いレスラーを集めれば、暮れだろうがタッグだろうが客は入る」と自信を持っていたのである。

『世界オープン・タッグ選手権』には豪華な外国人レスラーが集まった。また、当時の日本のプロレス界は全日本プロレス、新日本プロレス、国際プロレスの3団体時代だったが、国際プロレスからラッシャー木村&グレート草津のエース・コンビや、高千穂明久(後のザ・グレート・カブキ)と超党派タッグを組んだマイティ井上が参加している。

 この大会のハイライトは、なんと言っても最終戦のザ・ファンクスvsアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークだろう。正義のテキサス・ブロンコvs最凶悪コンビは、まさしくベビーフェイス×ヒールの王道を行くプロレスだった。
 特にブッチャーがテリー・ファンクをフォークで刺すシーンは、当時のプロレス・ファンを戦慄させたのである。

▼テリー・ファンクの右腕にフォークを突き刺すアブドーラ・ザ・ブッチャー

YouTubeキャプチャー画像より https://www.youtube.com/watch?v=rYqGbrqXbSs

 プロレス冬の時代の真っ只中だった2009年、『別冊宝島1559 プロレス下流地帯(宝島社)』で、プロレスを知らない小学生たちに、この試合やアントニオ猪木vsアンドレ・ザ・ジャイアント、タイガーマスク(初代)vsダイナマイト・キッド、棚橋弘至vs中邑真輔の4試合を見せて、どう反応するかという企画があった。
 結果は、このファンクスvs最凶悪コンビが小学生たちにとって、最も反応が良かったそうだ。その次がタイガーマスク戦、そして猪木戦、最も反応が薄かったのが棚橋戦だったようである。

 いずれにしても、馬場の思惑通りこの企画は大ヒット、「暮れのシリーズやタッグ・リーグ戦は成功しない」というジンクスを、メンバーの豪華さと試合内容で吹き飛ばしたのだ。

恐怖!ザ・シークの火炎殺法
『世界オープン・タッグ選手権』の翌年、1978年からいよいよ『世界最強タッグ決定リーグ戦』が始まった。
 この頃の目玉は、前年に引き続きザ・ファンクスとアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シーク(第1回大会は途中でシークからキラー・トーア・カマタに交代)、そしてジャイアント馬場&ジャンボ鶴田の師弟コンビだった。

 第2回の1979年、ザ・ファンクスvsブッチャー&シーク組で、ファンは再び恐怖の光景を目にする。
 ドリー・ファンクJr.を羽交い絞めにするシーク、そしてブッチャーがドリーに凶器攻撃を加えようとした瞬間、ドリーは間一髪で避けた。
 ブッチャーの凶器を喉元に受けたシークはダウン。そのままドリーにピン・フォールされ、ザ・ファンクスが優勝した。

 怒りのシークは、味方のブッチャーに火炎攻撃を仕掛けた。シークから放たれた炎を浴び、のたうち回るブッチャー。最強のヒールだったブッチャーが、これほどもがき苦しむ姿は見たことがなかった。

▼ザ・シークがアブドーラ・ザ・ブッチャーに火炎殺法

YouTubeキャプチャー画像より https://www.youtube.com/watch?v=ZSK0On6990Q

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