週刊ファイト1982年1月5日付け『ローラン・ボック特集号』より
[ファイトクラブ]先行公開 [週刊ファイト8月15-22日号]収録
[Fightドキュメンタリー劇場53] ローラン・ボック自伝を読む④
▼ボックは男好き? 女好き? プライベートショット満載!破産or大富豪
by Favorite Cafe 管理人
・当時のローラン・ボックを知る関係者、口をそろえて「彼はゲイだったよね」
・ボックを最も深く取材したであろう『週刊ファイト』に残る秘蔵写真
・二度の結婚、家族関係は複雑、しかし幸せそうな家族写真
・1981年にボックに連れられて来日した少年は、ボックの愛人(男)か?
・実業家ボック、ゲームセンター、ホテル経営・ディスコ経営で大忙し
・猪木ツアーで莫大な負債、逮捕・収監~それでも再起して成功できたワケ
・青少年育成に尽力。そして事業欲、大失敗もアントニオ猪木とそっくり
・ボックの隠された善行:取材中に市役所・厚生課の役人ボック訪ねて
・二度目の結婚破局~オーストラリア移住計画語るもタイ在住が10年に
ローラン・ボックがプロレスで注目されていた当時、ボックを取材した記者や編集者、ライターの方たちは口をそろえて、「彼はゲイだったよね」と言う。
何度も西ドイツに通ってローラン・ボックを最も深く取材したであろう『週刊ファイト』には、たしかに怪しげな写真がいくつも残されている。今回は、週刊ファイトに残されている写真とインタビュー、自伝の翻訳から、ボックのプライベートを覗いてみたい。
週刊ファイト・井上讓二記者とローラン・ボック(1981年)
ボック自伝には、アマレスの試合は「鍛え上げられたアスリート同士が体を密着させながら、相手の弱点を突き、隙をうかがってフォールを奪いに行く競技である」と表現されている。そのシーンの描写が実に官能的なのだ。
■ ボック自伝より
・・・・・対戦相手と真剣に向き合う時、互いの精神は神の領域まで昇華していく。息づかいと喘ぎ声が交差し、互いの汗の匂いが鼻をつく。唇で相手の塩の味を感じる。その感覚を通して、相手のエネルギーがどれほど残っているのかをはかる。肌と肌を密着させ、体をこすりつけ、滑りやすい上半身の凹凸を捕らえて、床に押さえつけることだけに集中するのだ。防御のために四つん這いの体勢になる。容赦なく後ろから襲いかかる・・・・・
ローラン・ボック自伝(翻訳出版クラファン進行中)
この項では、翻訳の引用をここまでに留めておくが、描写はまだまだエスカレートしていく。翻訳するにあたって、どこまでどう表現するべきなのか悩ましいところだ。
自伝では、ボックは自分自身を「女好き」な男として語っている。アマレスの男と男の戦いを喩えた上記の官能的な表現も、最終的には「まるで愛し合う男と女のように・・・・」という語りに続いていく。
そして自伝にはボックが愛した女性が次々と登場する。ハイスクールで女性教師がボックに寄り添って勉強を教えるシーン、避暑地のプールで出会った女性との一夜、教師時代のサマーキャンプの夜、ファッションモデル、アジア人女性・・・・エピソードはまだまだ続く。
どれだけの方々が期待されているのかは分からないが、男性遍歴の記述はない。自伝にあえて書く必要が無いのか、あるいは女性遍歴の一部を男性に読み替えてみるのも面白いかも知れない。それは読み手の自由である。
▼『週刊ファイト』メモリアル 第6回 A・猪木を葬ったボックは文字通り変なヤツ!?
▼二度の結婚、家族関係は複雑、しかし幸せそうな家族写真
当時の週刊ファイトの誌面には、奥さんのソーニャ夫人との仲の良さそうなショットもたくさん掲載されている。
ソーニャ夫人と愛娘ビアンカちゃん
■ 週刊ファイト(1982年1月5日付け)より
ソーニャ夫人は36歳とは思えぬ若々しさ。美人だからそう見えるのだろうが「主人(ボック)は年寄り老けて見えるでしょう」と笑った。
ファッションモデルをしていただけあって、細っそりとスマート。外見は何から何まで正反対の夫婦だ。
「そこが逆にうまく行っている理由じゃないかな」とボック。
「私はどう見てもかっこよくないし、おしゃれには全く興味は無いが、妻は女だし、いつも身だしなみに気をつけている」
このボックの言葉に夫人が異論を唱えた。「いいえ、主人はわざとおしゃれをしないんです。興味が無いんじゃなくて。おしゃれをするのが照れくさくて面倒くさいんでしょう、きっと」
ボックはギョロリと目をむいた。
実を言うと、ボックは22歳で一度結婚している。すぐ男の子が生まれたが、5年後に訳あって離婚した。その子は現在(1981年)ボックの元夫人の元で育てられている。
ソーニャ夫人、ボック、ビアンカちゃん
現在の妻ソーニャ夫人の父、スタイガー氏は42歳。しかし二人は実の親子ではなく、ソーニャはスタイガー氏の奥さんの連れ子。したがって年齢もボックと義父スタイガー氏は6歳しか違わない。さらにボックとソーニャ夫人の間の長男(16歳)は、ローラン・ボック・ジュニアと名付けられているが、彼はボックの実の息子ではなく、ソーニャ夫人の連れ子だ。
そして長女ビアンカちゃん(2歳)が、ボックとソーニャ夫人の間に生まれた娘である。
このようにボック一家はやや複雑な家庭と言える。しかしボック一家に暗い影は何一つない。愛娘のビアンカちゃんを見やるボック夫妻の目は幸福そのものといった感じだ。
「この頃カタコトで話すようになったので、主人はかわいくて仕方がないようです。ベルリンでの仕事が忙しいので、なおのこと我が家の団らんを大事に、と考えてくれているようです」とソーニャ夫人。ボックはわが意を得たりという顔をした。
左端が、ローラン・ボック・ジュニア
▼ボックに連れられて来日した少年は、ボックの愛人(男)か?
(Favorite Cafe)
ボック一家はこのような複雑な家庭であり、血縁関係がない歳の近い男性3人が同居していることもあって、いろいろな噂の元になっているのかも知れない。1981年の12月にボックに連れられて来日した少年は、「ボックの愛人(男)」とまことしやかに噂された。画像は1981年12月8日の蔵前国技館「猪木&藤波vs.ボック&ハンセン」を観戦するその少年のワンカットが、放送画面にインサートされたものだ。写真の顔立ちを見比べると、どうやらローラン・ボック・ジュニアに間違いないようだ。もしかしてジュニアが愛人?・・・・考えればキリが無い。
ワールドプロレスリング放送画面より
レスラー仲間からは、その性格について酷評される事が多いボックだが、ソーニャ夫人と義父のスタイガー氏は、もちろんボックの事を好意的に語っている。
■ 週刊ファイト(1982年1月5日付け)より
(ソーニャ夫人)「わたしがローランにひかれたのは、彼のやさしさです。あの通り、口に出してちやほやすることは決してありませんが、心の広い人だということで満足しています。ジュニアにしてもローランの本当の子ではないのに、わざわざローラン・ボック・ジュニアと名付け、実の子以上にかわいがってくれています。そんな所がとてもうれしいんです」
(義父・スタイガー氏)「ワシもローランの人柄までは知らなかったが、こうして友達のように付き合っている。ローランは家庭を大切にするいい夫だよ」
ボックと愛娘のビアンカちゃん
ビアンカちゃんはママに似て金髪でお人形さんのような可愛い子。見も知らぬ人が来たとあって妙にはにかんでいたが、いつもはボックが帰ってくると大はしゃぎで家の中を走り回るという。
(ボック)「ベルリンの店の方で寝泊まりすることが多いので、家族にはすまないと思っている。だから、できるだけヒマを見つけては我が家に帰るようにしているんだ。西ドイツもごらんの通りインフレだから、決して楽な生活ではないんだ。だから、プロレスの仕事だけではやっていけない」
(ソーニャ夫人)「最初、国際見本市の中のコーヒーショップで主人を紹介されたときは青年実業家だとばかり思っていました。あとでプロレスラーだと知ったけれど、いまでもなんとなくレスラーとしてより、実業家といった感じの方が強いんです。家に来るお客さんもそのほうのお仕事の人が断然多いですし」
(ボック)「もし家族に危害を加える者がいたら、カーッとなって殺してしまうかも知れない。私にとっては家族が生きている全てなんだ」
▼[Fightドキュメンタリー劇場23]
「シュツットガルトの惨劇」ハッキリ言ってこれは異種格闘技戦ですよ
▼実業家ボック、ホテル経営・ディスコ経営で大忙し
インゴルシュタットにあるボック所有のホテル(1981年当時)
(Favorite Cafe)
インタビューの中で、たびたび「ベルリンでの仕事」というワードが出てくるが、これはプロレスの仕事ではない。この頃ボックはベルリンでディスコ「ホワイ・ノット」を経営、インゴルシュタットではホテルを経営していた。
ボックは、25歳の頃、ハイスクールの教師をしながら、アマレスのブンデスリーガのクラブチームに所属して収入を得ていた。その収入を元手にトゥットリンゲンにステーキハウス「ビッグ・ボーイ」をオープンしていた。
副業が許されず教師は辞職したが、アマレス選手としてスポンサーの後押しもあって、そのステーキハウスが大当たりしたのだ。そこで事業を拡大し、バイヒンゲンでゲームセンターを、インゴルシュタットで小さなホテルを買収して経営に乗り出した。
そして、ベルリンのディスコ「ミュージック・トンネル」を買収。3,500万円をかけて大改装して「ホワイ・ノット」と改名した。そのディスコも大人気となっていた。ボックは、1973年にプロレス入りしているが、同時に実業家としても成功していたのだ。
ボックがプロレスで自分よがりの試合をしがちだったのは、アマレス時代の強豪選手としてのプライドがあり、アマレス界から「サーカスをしているアマレス崩れ」と思われたくなかったという理由からだ。
しかし、もう一つの理由は、実業家として成功しており、何が何でもプロレスで稼いで生きていくという意識がなかったためだろう。
■ボック自伝より
・・・・・・「ビッグ・ボーイ」にはテーブル席70席とさらに、カウンター席10席を用意した。開店初日はジェットコースターのように時間が進んでいった。ホーストが集めたゲストのほかに、ボックに関係のあるレスリングクラブのメンバーやファンが来店した。ボックが出場するアマレスの試合には 3,000 ~ 4,000人の観客が集まることから考えると、ローラン・ボックの名前を出すことで、どれだけの集客が見込めるのか、ある程度予想ができた。
最初にホーストと話した夜に彼が「“ボック”の名前があれば人は集まる」と言ったことが、現実になっていた。多くの人が食事代を支払うときにボックのサインを求めてきたが、しっかり準備ができていたので、可能な限り多くの来客の要求に対応することができた。さらにレスリング関係の来客とは、終わりのないレスリング技術の議論も交わすことができた。1日で400人の来客があった。ボックは売り上げの金額を見て目眩いがした・・・・・・
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(Favorite Cafe)
ここで「ホースト」という名前が出てくるが、ボックの友人の名前。プロレスファンなら、ホースト・ホフマンか?と思われるかも知れないが、ここでは全く関係のない人物である。
ボックは、このステーキハウス「ビッグ・ボーイ」の成功を皮切りに、次々と事業を拡大していく。週刊ファイトが取材した1981年の時点では、ボックが所有するディスコは、「ホワイ・ノット」と買収したホテルに併設されているディスコ「サウンド」の二つとなっている。1982年に日本でアントニオ猪木戦を闘い、その試合を最後にプロレスを引退した後には、ハイルブロン(※)の廃工場を買い取り、約1年間の改装期間を経て、巨大ディスコ「ロック・ファブリック」を開店させている。
(※)「Why Not」の次に新しく建設したディスコ「ロック・ファブリック」の所在地はハイルブロンだが、「ロック・ファブリック・ルートヴィヒスブルク」と呼ばれることもある。ハイルブロン、ルートヴィヒスブルクは、いずれもボックの地元シュツットガルトに近接した街である。
[Fightドキュメンタリー劇場52]
▼ローラン・ボック五輪代表権剥奪 プロのリングでドクトル・ワーグナー戦?
ベルリンにあるボック所有のディスコ「Why Not」(1981年当時)
「ロック・ファブリック」は、ドイツでも有数の巨大ディスコ、ライブハウスとなり、メタリカやクイーン、アイアン・メイデンなどの数々の有名ロック・グループが定期的にライブを行っていた。ボックの作ったこのディスコは、経営者は変わっていったものの30年以上営業を続け、2019年にファンに惜しまれながら閉店した。
ボックがこの「ロック・ファブリック」を立ち上げて経営していた十数年間は、地中海に別荘を購入し、プライベート・ジェットで移動するなど、成功した実業家として我が世を謳歌していた。
ここで疑問が沸いてくるのは、ボックは欧州選手権シリーズ・猪木ツアーの主催で莫大な借金を負っていたはずであったことだ。さらに1982年に日本で猪木戦を闘った後、ドイツに戻って逮捕・収監されているのである。
この状況から、ボックがどうやって再起したのかは、自伝に書かれている。簡単に言えば、スポンサーや支援者がいたこと、そしてボックが獄中にいながらにしてディスコ建設を前向きに進めるバイタリティを持ち合わせていたことで、実業家として再起、成功することができたのだ。
実際、ロック・ファブリックがオープンした時、ボックはまだ収監された状態だった。しかし模範囚だったボックは、外出許可を得て、数時間だけロック・ファブリックの開店に立ち会うことができたという。
▼猪木ツアーで莫大な負債、逮捕・収監。それでも再起・成功したワケ