週刊ファイト1982年1月5日付け『ローラン・ボック特集号』より
[ファイトクラブ]先行公開 [週刊ファイト8月8日号]収録
[Fightドキュメンタリー劇場52] ローラン・ボック自伝を読む③
▼ローラン・ボック 五輪代表権剥奪、プロのリングでドクトル・ワーグナー戦?
by Favorite Cafe 管理人
・ボック、アマレスからプロレスへ転向。ポール・バーガー氏の説得
・スポーツ紙『ビルト』スクープのためのプレゼント攻勢、ボックに“カツラ”
・プロレス転向の真相、ドイツ・アマレス協会との確執・ドーピング疑惑
・お祭りのプロレス・ブースに飛び入り参加、イベント・レスラーを破壊
・1970 年代のメキシコのルチャ雑誌から、新事実を発掘!
・ローラン・ボックは、アカプルコのマットに上がって試合をしていた!
・迎え撃ったのは、ドクトル・ワーグナー。激戦、観客大満足
■ボック自伝より
・・・・・ビルト紙の記者は、私のプロレス転向をスクープとして一面に掲載すると約束した。それが、この記者がボックとマックスを会わせた目的でもあり、大きな話題を独占スクープし、記者としてのステータスを上げたいと考えていたのだ。マックスは記者に向かって「ローラン・ボックを新しいプロレス・チャンピオンに育て上げる。すぐに年間50万マルクを稼げるようにする」と語った。私は年収50万マルク(約5000万円)の金額に驚愕した。
記者は、私が自分の髪が薄くなっていることを気にしていることを知っていて、私のためにカツラのプレゼントを用意していた。私はその時は喜んでみせたが、実際にはカツラをかぶってレスリングはできないのですぐに使うのを止めた。
翌日のビルト紙の見出しには、「アマチュア・レスリング欧州チャンピオン、ローラン・ボック、プロレス転向!」と一面に大きく掲載された・・・・・
ローラン・ボック自伝(翻訳出版クラファン進行中)
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(Favorite Cafe)
このシーンは、ドイツのスポーツ新聞『ビルト』紙の記者が、ローラン・ボックとポール・バーガーを引き合わせた時の描写だ。マックスとは自伝の原書の中で使用されているポール・バーガー氏の仮名、ビルト紙の記者の実名はシュルター記者という。
アマレス時代からローラン・ボックを取材していたシュルター記者が、ボックをプロモーターのポール・バーガー氏と引き合わせたのだ。西ドイツ・アマレス協会とトラブルになっているボックにプロレスラー転向を決意させ、スポーツ紙『ビルト』の大スクープにしようとしたのだ。
そのためのプレゼント攻勢のひとつが、カツラ。ボックは「すぐに使うのを止めた」と語っているが、カツラをかぶってポール・バーガー氏と乾杯している写真が残っている。
映画『ハリケーン・ロージー』(80年公開)でも、ロージーとデートをするときはカツラ、プロレスのコーチをする時はカツラを外している。写真からも分かるように、ボックはカミングアウトした上で、プレゼントされたカツラをかぶることを楽しんでいたようだ。
ローラン・ボック(左)とポール・バーガー(右)
映画『ハリケーン・ロージー』ローラン・ボックのカツラ姿
■ 週刊ファイト(1982年1月5日付け)より
若いころから髪の毛が薄かったボックは、早くも22歳ごろから禿げだしたという。15歳のときからブリッジの練習を行っていたから仕方ないが、それでも禿げない人は禿げない。今でこそ諦めたのか、気にならないというボックだが、若いときはそうでもなかったらしい。
とくに他国で対抗戦を行うときなどは、ボックの試合を見守っている相手側が少しでもボックの冷静さを失わせようと、弱点(?)を突いてくる。
やれ「まぶしい」だの、「頭から光を放射するのは反則」だのとうるさいヤジ攻撃。これが、英語とドイツ語を話すスイス・チームとの試合のときなど、特に禿げ(激)しくなる。
あるとき、目にあまるヤジを飛ばすので、ボックは試合を放り出して相手チームに殴り込みをかけて大暴れをやってのけたこともある。当然、翌日の新聞の格好のネタとなったが、「ローラン・ボックという素質ある若者を追放するわけにはいかない。まして、相手に非があるのだから」との、西ドイツ・アマレス協会長のツルのひと声で除名処分だけは免れた。このエピソードだけでも、ボックが西ドイツのアマレス界にとってどれだけ重要な人物だったかがよく分かる。
ハイスクールの教師時代(左)、若い頃から薄毛だった
(Favorite Cafe)
ローラン・ボックと西ドイツ・アマレス協会のトラブルとは何だったのか。その経緯もボック自伝には詳しく書かれているが、ここでは要約されている週刊ファイトの記事を紹介しよう。
■ 週刊ファイト(1982年1月5日付け)より
ボックが「今でも思い出すたびに頭にくるぜ」と言っているのが、72年の除名事件だ。
この年、自国の西ドイツ・ミュンヘンでオリンピックが開催されるとあって張り切っていたわけだが、国内戦で勝ち進んでいるとき突然、脊髄に激痛が走った。
しかし、ここで休むわけにはいかないボックは、ドクター・シパンボウ氏に頼んで強力な鎮痛剤を打ってもらった。ところが「シパンボウは間違って麻薬の一種を私の腕に打った」(ボック)ため、2日後の検診のとき、麻薬を打っているとの疑惑をかけられてしまった。
西ドイツ・アマレス協会会長ヘルマン・シュインリンディリング氏から呼び出されたボックは「オレは麻薬など打っていない。あのヤブ医者のミステークだ」と言い張ったものの、耳を貸してくれない。あげくの果てに1000マルク(約10万円)の罰金を言い渡されてしまった。
ボックは一本気な性格だ。自分が潔白なだけに怒った。
「今すぐ払え」という協会長に「これでも食らえ」と、パンチを浴びせてノックアウト。これで、これまでの苦労は一貫の終わり。
「黙って罰金を払えばよかったのに、カーッとしてしまって・・・・」とちょっぴり反省しているボックだが、ミュンヘン大会グレコローマン・ヘビー級で金メダルのロシン(ソ連)、銀メダルのトモフ(ブルガリア)、銅メダルのトリプシー(ルーマニア)をそれまでに破った実績があるだけに、「やっぱり、思い出すたびにカーッとしてくる」。
アマレス時代のローラン・ボック(一番手前)
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(Favorite Cafe)
当時の週刊ファイトでは、記事スペースも限られているため、短くまとめられているが、自伝ではミュンヘン五輪の西ドイツ代表から外されることになるまでの経緯とボックの心の動き、最善を尽くそうとした行動も詳細に語られている。一般的には、ドーピング疑惑による代表権剥奪とされているが、ボックにはボックなりの筋の通った正義があったことが読みとれる。しかし様々な出来事が裏目に出て、ボックは結局アマチュア・レスリングを離れることになってしまった。
そして、ビルト紙のシュルター記者の誘いによるポール・バーガー氏との出会いがあり、この項冒頭の「カツラ」のエピソードへと続いていく。
アマチュア・レスリング選手であることに誇りをもっており、プロレスを「猿芝居」と軽蔑していたボックが、プロレス転向を決意した理由とは?。それは是非、ボック自伝で読んでいただきたい。
自伝には、そのボックがアマチュア時代にプロレスのリングを初体験したエピソードが書かれている。ボックはイベントのプロレス・ブースに飛び入りで参加して、プロレスラーと闘ったのだ。そして、お祭りを盛り上げるために来ていたイベント・レスラーを圧倒してしまい、イベント自体をぶち壊してしまった。
■ 自伝「BOCK!」より
・・・・・レフェリーは、私がただの素人ではないことに気が付き、すぐに試合を止めて、私の右手を持ち上げた。そして、「勇気ある挑戦者がポイントを獲得しました」と観客に説明した。私は、「ポイント?」と疑問を持った。どうみても私のKO勝ちだろう。
レフェリーは、ポケットからくしゃくしゃの100マルク札を取り出して私に手渡し、リングから降りるよう促した。私を押し出しながら「早く降りて帰りなさい。そうしないと大変なことになるぞ」とささやいた。
それがこのお祭りのイベントでの「プロレス初体験」だった。その時私は、プロレス・ブースのイベントを台無しにしてしまっていたのだった・・・・・・
▼[Fightドキュメンタリー劇場 50]
ドイツ語自伝『BOCK!』翻訳出版、8月1日クラファン始動!
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(Favorite Cafe)
自伝の記述にあるように、ローラン・ボックはアマチュア時代にプロレスラーと闘った経験があるという。この話が自伝小説の味付けとして創作されたエピソードなのか、実話なのかを確認するすべはないが、この試合でボック自身も負傷したとも書かれている。そして、1964年に東京オリンピックのアマレス・西ドイツ代表選手に内定していたボックがケガによって、出場を断念したのは事実である。
また、週刊ファイトのローラン・ボック特集号には、噂話として次のようなエピソードが掲載されている。
■ 週刊ファイト(1982年1月5日付け)より
「ボック、米で試合 アマ時代、プロを叩きのめす」
意外や意外、ボックはアメリカやメキシコシティ、アカプルコなどでプロレスを行った経験を持つ。もっともアマレス時代の話で、アメリカではアリゾナへアマレスの試合で遠征したとき、フェニックスでカウボーイ・ボブ・エリスと対戦、反則ながらエリスを破っている。
またメキシコシティ、アカプルコではメキシカンレスラーの試合を観戦していて「プロレスなんかインチキだ」とリングに飛び入り。頭にきたレイ・メンドーサ、ドクター・ワーグナーが挑戦を受けて立ったものの、彼らにとってボックは大男。しかもアマレスの強豪だからたまらない。メンドーサは5分足らずで、ワーグナーはわずか50秒で腕を逆に決められてギブアップしてしまったという。
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(Favorite Cafe)
このプロレスラーと闘った逸話については、Gスピリッツ Vol.21の「ローラン・ボック特集」のインタビューで「そんな事実はない」とボック本人がハッキリ否定している。週刊ファイトのコラムの最後の締めも「・・・・ギブアップしてしまったという。」となっており、よく読めば、噂であるというスタンスだ。「ボックが腕を逆に決めた」というフィニッシュも、アマチュア選手が使う決め技としては確かに違和感を覚える。
▼[Fightドキュメンタリー劇場51]
ローラン・ボック1982年MSG前夜祭突如来日 架空の団体名
ところがインターネットを検索していると、なんと1970年代のメキシコの雑誌記事にローラン・ボックがアカプルコのリングに上がっている写真がみつかったのだ。
※画像は、ゲルノート・フライベルガー(Gernot Freiberger) 氏のFacebookより https://www.facebook.com/photo/?fbid=1318990218128975
フライベルガー氏はオーストリア在住のプロレス史家。ウィーンのスポーツ・文化博物館創設に関わり、プロレスイベントの企画なども行ったことがある。オーストリア国内外のプロレス関係者との交友関係も広い人物である。
見つかった画像はスペイン語の記事。画像の記事を翻訳した内容は、以下の通り。