[Fightドキュメンタリー劇場51]ローラン・ボック1978年MSGシリーズ前夜祭突如来日 架空の団体名

週刊ファイト1982年1月5日付け「ローラン・ボック特集号」より
[ファイトクラブ]先行公開 [週刊ファイト8月1日号]収録

[Fightドキュメンタリー劇場51] ローラン・ボック自伝を読む
▼ローラン・ボック1978年MSGシリーズ前夜祭突如来日 架空の団体名
 by Favorite Cafe 管理人
・世界には三つの大きな組織があり、まずはボックと猪木の統一戦
・猪木vs.レフトフック・デイトン、プロレス者からの3つの疑問
・TV番組『ストロンゲストマン』出場経験 ボディビルダーは右利きだった
・首が強いデモンストレーション男にヘッドバット39発ブチ込む猪木とは
・本誌「血まみれデイトンにタオル投入!」親指やられたので首絞め不発
・I編集長 マスコミがちゃんと取材をして伝えなくちゃならない箇所とは?
・ジョージ土門が持ち込んだ異種格闘技戦裏と猪木アリ再戦への想い!


 先週号に引き続きローラン・ボック自伝から、ボックが第1回MSGシリーズの前夜祭に突如乗り込んできたエピソードを紹介してみたい。

■ 自伝「BOCK!」より
 私たちが東京に到着してからわずか数時間後、プラザホテルでの記者会見に出席することになった。記者会見では新日本プロレスが開催する次期ツアーMSGシリーズの参加レスラーが発表されていた。会見場にはマイクとテレビカメラを持ったテレビクルーに加えて、約40人のジャーナリストが待ち構えていた。ローマン(ハーバード・ヴォシユニツォク氏:仮名)は日本のプロレスの記者会見の風景に驚いていた。マックス(ポール・バーガー氏:仮名)は困惑しながらも、それが当たり前かのように振る舞っていた。

 会見場に現れたアメリカのプロレスラーは全員スーツ姿で、美しい女性から花束が贈呈されるセレモニーがあった。記者会見の最後には、私たちがステージに呼び込まれた。新間氏が、秋のヨーロッパツアーの計画を説明し、私がインタビューを受けた。そして最後に私と猪木が握手する瞬間には、無数のカメラ・フラッシュがたかれた。
 記者会見のあと、ビュッフェスタイルのパーティーに接待された。振る舞われた料理は、生魚の薄い切り身(刺身)、焼き鳥、海苔巻き、イカが入った団子、その他、名前が何なのかもわからない日本の名物料理が揃っていた。最後に、我々に新日本プロレスのロゴが入った時計がプレゼントされた。猪木は私を「ドイツの有名なプロレスラーです」とパーティーの参加者に紹介した。そして、ローマン氏をドイツ・プロレス協会会長として紹介し・・・・・

ローラン・ボック自伝『BOCK!』

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(Favorite Café)
 さて、ローラン・ボックが初来日した頃の専門誌の報道を振り返ってみよう。ボックが来日したのは、1978年4月20日。第1回MSGシリーズの前夜祭で猪木と握手をするボックの写真が、週刊ファイトに掲載されている。その週刊ファイトの記事に、ボックが一緒に来日したのは、ポール・バーガー氏とハーバード・ウォシュニゾック氏と書かれている。

 自伝に登場するマックス・クルーガー氏は、ポール・バーガー氏の仮名だと考えれば、辻褄が合う。また、ローマン・バーンスタイン氏=ハーバード・ウォシュニゾック氏だ。ちなみに、ウォシュニゾック氏はボックの会社の経理と契約担当スタッフ。自伝では彼をドイツ・プロレス協会会長に仕立て上げて紹介したと書かれている。またGスピリッツvol.22には、多少ニュアンスは違うが「ウォシュニゾック氏は、グスタル・カイザーの代理人と紹介されていた」とあり、いずれにしろ組織の代表として紹介したことには間違いはない。

■ 週刊ファイト(1982年1月5日付け)より
「ボック来日を仲介したのはカール・ゴッチ」

 お膳立てをしたのは、カール・ゴッチだったのである。
 1978年4月初旬、ゴッチはヨーロッパへ飛んで話をまとめた。ゴッチは4月17日、娘ムコのミスター空中氏とともに日本へやってきたが、スーツケースの中にはカイザー氏がボックのプロモートを了承したので猪木のヨーロッパ遠征はOKとのお土産を入れていたわけだ。

 こうしてボックは初めて日本の土を踏んだ。白のTシャツ姿のボックが鋭い眼光で京王プラザでのレセプションにバーガー氏、ウォシュニゾック氏と姿を見せた裏には、これだけの大騒動が隠されていたわけだ。そしてこの年11月、西ドイツ、オーストリア、スイス、ベルギーを結ぶ大がかりなサーキットが実現する。

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(Favorite Café)
 ファイト紙の報道では、カール・ゴッチが仲介し、ドイツの有力プロモーター、グスタル・カイザー氏がプロモートを了承した、となっている。しかし結果的に1978年のヨーロッパ猪木ツアーにはカイザー氏は関与していない。それどころか、のちの情報では、ボックの計画したツアーを快く思っておらず、さらにゴッチもカイザー氏との関係悪化を懸念して、猪木のヨーロッパ選手兼シリーズ参加に反対していたと伝えられている。

 ボックは日本の各紙のインタビューでも、たびたびグスタル・カイザーの名前を出しているが、有力者の名前を利用していた可能性が高い。ボックとカイザー氏は1974年10月のミュンヘンのトーナメントを最後に疎遠になっており、猪木のヨーロッパ遠征にカイザー氏は絡んでいない。カイザーは、全く同時期にドイツ国内で別の長期トーナメントを開催していたというデータも残っている。

 また、新間氏はドイツでの猪木vs.ボック戦実現の前提として、ボックがプロレスのヨーロッパ選手兼王者であることを要求していた。ボックはその約束を守るため、4月の来日前にルネ・ラサルテスと王座決定戦を行って、タイトルを獲得している。そのタイトルも、カイザー派ではなく、ポール・バーガーのグループが創設して認定しているWWU世界ヘビー級チャンピオンだった。

 さて、その世界ヘビー級チャンピオンについても、欧州選手権シリーズ・猪木ツアーでは大きな謎がある。この大会プログラムの冒頭には、「世界のプロレス組織を統一する。その第一歩である」と書かれている。そして、「世界には三つの大きな組織があり、まずはローラン・ボックの世界タイトルと猪木の持つ世界タイトル、その二つの世界タイトルを統一する」とされている。この理念は、IWGP構想に通ずるものがある。しかし・・・・

 大会プログラムの小冊子には、世界の三つの大きな組織とそのチャンピオンについて、

①世界レスリング連合 – W.W.U. 拠点:イギリス 統括地域: ヨーロッパ、アフリカ
 チャンピオン:ローラン・ボック
②世界レスリング評議会 – W.W.C. 拠点:アメリカ 統括地域: アメリカ全土
 チャンピオン:ブルーノ・サンマルチノ
③世界レスリング協会 – W.W.A. 拠点:日本 統括地域: アジア、オセアニア、オーストラリア
 チャンピオン:アントニオ猪木

 と書かれている。

本文には、「ボック、猪木、サンマルチノがチャンピオン」とある

 そして「今回の欧州猪木ツアーでは、ローラン・ボックとアントニオ猪木が闘い、今後、その勝利者がWWC世界王者であるブルーノ・サンマルチノと闘うことで、世界三大組織の全てが認める統一世界チャンピオンが誕生することになる」ということだ。まさにドイツ版IWGP。このチャンピオンたちのうち、W.W.U.は、ポール・バーガー派のタイトルなので、ボックがどう扱おうが問題は無い。しかし、「②世界レスリング評議会 – W.W.C.」、「③世界レスリング協会 – W.W.A.」は、完全に架空の団体・タイトルである。

 この記述からすると、11月25日シュツットガルトのローラン・ボックvs.アントニオ猪木の試合は、アントニオ猪木のWWA世界選手権とローラン・ボックのWWU世界選手権の統一戦だったということになる。そして勝者はローラン・ボックだった。

 そもそも、アントニオ猪木のWWA世界選手権とは、試合の当事者であった猪木本人でさえあずかり知らぬ話であり、その後ローラン・ボックの2団体統一世界タイトルがどのように扱われたのかも、全く情報は伝わってきていない。

 プロレスの情報が少なかったドイツで、ましてや今のように外国の情報がすぐに伝わる時代でも無い。ローラン・ボックとポール・バーガーが、観客に興味を持ってもらい、ツアーを盛り上げようとしたのだ。多かれ少なかれ、日本マットでも使われていた手法である。40年以上経過して、そういったストーリーが創作されていたことを知ることも、楽しみの一つだろう。

 自伝の記述の中に、ローラン・ボックが頻繁にグスタル・カイザーの名前を出したことや、WWU世界チャンピオンを獲得した経緯が分かる記述があるので、その一部を紹介しておこう。

■ ボック自伝より
(ボック来日時の新間氏との交渉のシーンより)・・・・新間は、私が現在世界タイトルの肩書きを持っているのかどうか確認してきた。私はこのとき世界チャンピオンを名乗っていなかったが、「それは私が何とかします。ルネ・ラサルテスが現在ドイツの世界チャンピオンです。2か月後にトーナメントを開催して、タイトルを獲得します」と約束した。

 さらに新間は、ドイツには私が所属する組織や協会があるのかと聞いてきた。私はプロレスを始めた初期の頃にはマックスが役員を務めるドイツ・プロレス協会の所属の扱いだったが、今は独立してプロレスの興行を主催している立場だった。

 「私はずっと独自で興行をしています。すべては自分自身の責任で選手を集め、イベントを主催しています」と正直に答えた。新間は驚いた表情で、
 「それが出来るあなたは勇敢ですね。日本では大きな組織に所属しなければ、大会開催は不可能です」と言った。

 私は、ドイツのプロレス協会についても話し、彼らとの関係も説明した。新間の反応を見て、ドイツ・プロレス協会を活用した方が、新日本プロレスとの交渉がうまく行くだろうということに気付いた。新日本プロレスはドイツ・プロレス協会との仕事にビジネスチャンスを感じてくれる可能性があったからだ。新間はボックのアイディアを気に入り、ヨーロッパのプロレス・マーケットに益々興味を持ったようだった・・・・・・

(Favorite Café)
 自伝を読み解くと、実際には無関係だったカイザーの名前を利用したこと、ボック自身が世界チャンピオンを名乗ることになった経緯などを知ることが出来る。

[Fightドキュメンタリー劇場51] 井上義啓の喫茶店トーク
猪木vs.レフトフック・デイトン、プロレス者からの3つの疑問
 by Favorite Cafe 管理人

 デイトンは必殺の“レフトフック”を使わなかった。またデイトンは「私を締め落とせたら1万ドルの賞金を出す」と豪語したが、猪木はスリーパーホールドを繰り出していない。そして首の強い男になぜヘッドバットを打ち込んだのか、この試合の3つの疑問をI編集長が考察する。

■ 闘いのワンダーランド #069(1997.03.11放送)「I編集長の喫茶店トーク」より

ビル・カズマイヤー(左)、クリス・ドールマン(右)

(I編集長・井上義啓)1979年(昭和54年)に行われました猪木の異種格闘技戦は2つありました。一つは2月6日、大阪府立体育館のミスターXとの試合、もう一つが今日お話します、4月3日に福岡スポーツセンターで行われました、格闘家レフトフック・デイトンとの異種格闘技戦です。

(I編集長)アントニオ猪木に挑戦してきた格闘家、レフトフック・デイトンの経歴ですが、この男は1977年にミスター・アメリカとして脚光を浴びた選手なんです。元々、空手とかカンフーとかも身につけていた男です。デイトンはそれまでにボディビルダーのコンテストで何回も入賞して、ミスター・アメリカと呼ばれる様になったわけですけど、それだけで有名になったわけでは無くて、きっかけは1977年に放送されたテレビ番組に出演したことなんです。

 アメリカのテレビ局CBCが、毎年「ストロンゲストマン・コンテスト」という大会をやって放送をしていました。巨大な石を持ち上げて運んだり、大きな丸太をのこぎりで切り落とす速さを競ったり、いろんな種目をやっていちばん強い男を決める大会です。この番組は何度か日本でも放送されていましたので、ご覧になったことがある方もいらっしゃると思います。

 まあ、デイトンが出場した回が、日本で流れたかどうかは定かでは無いですけどね。この大会で1977年に上位入賞したのが、レフトフック・デイトンですよ。リングスでドールマンと闘ったビル・カズマイヤーなんかも、この大会の常連で何度も優勝しています。デイトンもこのテレビ番組で一躍有名になったんですね。それで、今申し上げましたように、格闘技のおぼえもある男ですから、猪木と闘ったモンスターマンを通じて新日本プロレスに話が持ち込まれたわけです。

ビル・カズマイヤー(左)、クリス・ドールマン(右)

(I編集長)新日本プロレスとしてはこの話が舞い込んできたときにはですね、この男がいくらミスター・アメリカと言われる格闘家だとしても、どちらかというとボディビルで筋肉美を見せるとかね、ストロンゲストマン・コンテストのように怪力を自慢する、そういった男なんだから、格闘技で闘わせたらたいしたことは無いだろうと、そういう見方をしておったんです。異種格闘技戦の相手として、もの凄く強そうで見栄えがして、話題性もあり、それで試合をして猪木が勝てれば言うこと無いですから。だから新日本プロレスも、この話に乗ったんですね。

(I編集長)そしてついに対戦が決まって、この男が日本にやってきました。その時にいろんなパフォーマンスをやりましたね。一つは両手にかけられた鉄の鎖の手錠を引きちぎって見せたんです。もう一つは太いロープを自分の首にかけて自分で首を吊ったんですよ。そのまま、3分、4分、5分と平気でぶら下がるのには驚きましたね。

 普通の人間がやったら、いっぺんに首が絞まって息が出来なくなるか、首の骨が折れてしまうかで死んでしまいますよ。猪木もアゴには自信がありますからね。猪木は「俺だってやれるんじゃないかと思って、鉄棒にアゴを引っかけて手を放してみたけど、とても出来なかった」と笑いながら言いましたよ。だからデイトンの首の強さは本物だと猪木も認めていましたね。

(I編集長)デイトンも「猪木が俺の首を絞めて落としたり、首にダメージを与えて勝ったら、一万ドルの賞金を出す」と豪語したんです。それほどの自信があったんですね。しかし、マスコミも新日本プロレスの見立てと同じく、デイトンの体はヤッパリ見せるための筋肉だろうし、コンテストのための力自慢だから、試合で猪木に勝つことはないだろうと半分バカにしておったんです。

自分に1万ドルの賞金をかける!

(I編集長)新日本の道場では例によって藤原がスパーリングの相手をつとめたんですね。そしたら藤原が「これは本物だ」と言ったんです。藤原は「素人や駆け出しのレスラー、格闘家だと、首締めの形に入れば3秒で締め落とせる。しかしデイトンは、どんなに締め上げてもケロっとした顔だ。猪木さんも甘く見ていてはダメだ」とマスコミに話してくれました。

モンスターマンより強いと言われている

(I編集長)そういった話もあったんですが、それでも2ラウンドか3ラウンドで簡単に決着がつくだろうと、私は思っておったんです。ところが現実はそうじゃなかったんですね。レフトフック・デイトンは非常に良い試合をするんですよ。最終的には6ラウンドに猪木がバックドロップ3連発でTKO勝ちしたんですけどもね。

 しかし、この試合を見ながら疑問が沸いてきたんです。デイトンは「レフトフック」と名乗るぐらいですからね、左のパンチ、フックを繰り出さないとおかしいですよね。猪木も「デイトンは左利きだということだから、左からの攻撃には警戒する必要がある。ちょうど今右足を痛めていて、相手の左からの攻撃に体がもたないかも知れない。コレについては、なんとか対策をしないといけない」と言っていました。だから猪木もそうだし、ファンだってマスコミだって誰だってデイトンは左から攻撃を仕掛けてくると思いますよね。

 ただ、藤原の感想は違いました。「スパーリングでは、確かにボクシングのようなパンチやカンフーの技を見せるんだけれども、全部右からの攻撃だった。デイトンは右利きかもしれない」と漏らしていたんです。しかしマスコミとしては「そんなことはないだろう。“レフトフック”なんだから。きっと関係者の前でのスパーリングでは、右からの技だけを出しておいて、本番では左から攻めてくるに違いない」と言っていたんです。

TV番組『ストロンゲストマン』出場経験 ボディビルダーは右利きだった

(I編集長)ところが、本番の試合でもデイトンの攻撃は右からの攻撃ばかりでしたね。左からは全く出さなかったんですよ。だから右足を痛めていた猪木は、そちら側からの攻撃を受けなかったですからね、ラッキーだったということです。試合後には「左からキックでもくらっていたら、もたなかったかも知れない」と言ってましたよ。そういった思いもかけない幸運もあった試合なんです。

(I編集長)だから私は、試合後にホップスとか言うマネージャーに「おかしいじゃないか。レフトフックが一発もでなかったじゃないか」と質問しましたよ。そしたらそのマネージャーは「誰もデイトンが左利きだとは言っていない。ある試合で、たまたま左フックで相手を倒したことがあって、右利きなのに珍しかったから、仲間内でレフトフックというあだ名が付いたんだ」と言うんですね。得意でも何でも無い左フックで勝ったから、仲間が面白がって付けたあだ名だったんです。

▼[Fightドキュメンタリー劇場30]井上義啓の喫茶店トーク
 ザ・モンスターマン“恐怖の男”アリの用心棒

[Fightドキュメンタリー劇場 30]ザ・モンスターマン “恐怖の男” アリの用心棒


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