[Fightドキュメンタリー劇場 50]ドイツ語自伝『BOCK!』翻訳出版、8月1日クラウドファンディング始動!

ローラン・ボック自伝『BOCK!』表紙
[ファイトクラブ]先行公開 [週刊ファイト7月25日号]収録

▼ドイツ語自伝『BOCK!』翻訳出版、8月1日クラウドファンディング始動!
 by Favorite Cafe 管理人
・出版予定の日本語版翻訳本を事前予約してもらう形で支援クラファン募集
・[Fightドキュメンタリー劇場 50] 井上義啓の喫茶店トーク
 1979年ローラン・ボック戦の行方 ウガンダ大統領アミン戦の企画元は
・映画『ハリケーン・ロージー』(80年公開)トレーナーはまり役ボック演じる
・試合中、何度も相手を潰したい衝動。破壊して完勝、名声を得たい誘惑
・京王プラザホテル”黒い殺人鬼”戦会見 猪木「死ぬ覚悟は出来ている」
・自伝『虚人魁人』叩き文句”康芳夫さん何でそんなことするんですか?”


 1978年11月25日、「シュツットガルトの惨劇」として語り継がれる試合で、アントニオ猪木を徹底的に痛めつけて勝利したローラン・ボック。この男の少年時代から、アマレス選手時代、プロレス、そして実業家となって現在に至るまでの劇的な人生が描かれているドイツ語の自伝である。この本の日本語翻訳出版の企画が動き出した。
 この自伝はジャーナリスト、スポーツライターのアンドレアス・マトレ氏がローラン・ボックを長期取材してまとめ上げたものだ。2021年5月ドイツでこの本、ローラン・ボック自伝『BOCK!』が発行された。日本でもプロレスファンを中心に翻訳出版を望む声が上がったが、出版不況といわれる今、読者のターゲットがアントニオ猪木ファン、昭和プロレスファンに限定され、売り上げ部数面でリスキーなこの本を翻訳出版しようとする出版社は現れなかった。

 本紙「週刊ファイト」で「I編集長・喫茶店トーク」を不定期連載しているFavorite Cafeが、ドイツ・アマゾンから直接購入し、個人ホームページでこの自伝『BOCK!』の内容の一部を翻訳して紹介していたところ、ファン有志の後押しもあり、クラウドファンディングという形で日本語翻訳の出版をする準備が整った。
 具体的には、出版予定の日本語版翻訳本を事前予約してもらう形で支援を募集し、目標額の資金が集まれば日本語版『BOCK!』が出版される。事前予約なので、支援者の方々には、返礼品として完成した翻訳本が送り届けられることになる。
クラウドファンディングは、8月1日スタート予定だ。

 詳細は出版社(サウザンブックス)の告知ページをご覧いただきたい。

 1978年11月25日、ドイツでアントニオ猪木を迎え撃った男、ローラン・ボック。それは「シュツットガルトの惨劇」と語り継がれるプロレスの枠を越えた死闘だった。自伝『BOCK!』の中から、ボック自身の言葉の一部を日本語に翻訳して紹介しよう。

 ……私が捻る角度をほんの少し変えるだけで、猪木の足は破壊される。猪木を潰して、モハメド・アリと闘った男に完勝したという称号を手にしたい衝動にかられた。しかし、ルールを守れない男として軽蔑され、プロレスの世界から追放されるリスクも十分にある。
その時、私の目の前には、あの忌まわしい「墓掘り人」の姿が現れた。この男なら必ず猪木の足をへし折っているはずだ……

 日本では「地獄の墓掘り人」の異名を持つ欧州最強レスラー、ローラン・ボックが見た本当の「墓掘り人」の姿とは何か。その答えはローラン・ボックが生まれ育ったシュツットガルトでの、少年期の体験にまでさかのぼる。
 第二次世界大戦後のドイツにおける児童虐待、オリンピック出場、プロレス転向、映画俳優、有罪判決と服役、女性遍歴、起業家としての成功、王のような生活と愚かな判断による挫折。80歳を迎えてもなお立ち止まることがないローラン・ボック、自分自身に正直にそして貪欲に生きた人生の記録。
 プロレスファンで無くとも、彼の激しい生きざまに引き込まれていく、ローラン・ボックの長編バイオグラフィーだ。

[Fightドキュメンタリー劇場 50] 井上義啓の喫茶店トーク
 1979年ローラン・ボック戦の行方 ウガンダ大統領アミン戦の企画元は
 by Favorite Cafe 管理人

アントニオ猪木vs.ローラン・ボック戦のポスター(1979年)

 1979年の新日本プロレスではローラン・ボック戦、アミン大統領戦、ウィリー・ウィリアムス戦と夢のようなカードが次々とブチ上げられた。残念ながら実現しなかったアミン大統領戦、結果的に延期となったローラン・ボック戦、その動きを追う。

■ 闘いのワンダーランド #068(1997.03.10放送)「I編集長の喫茶店トーク」より
 1979.08.02 品川プリンスホテル・ゴールドホール
 アントニオ猪木 vs. タイガー・ジェット・シン

テレビ朝日「ワールドプロレスリング」1979年8月10日放送画面から引用

~テレビ朝日「ワールドプロレスリング」実況音声から採録~
古舘アナ)
 さて、サマーファイトシリーズ最終戦、当初予定されておりましたアントニオ猪木vs.ローラン・ボックの一戦ですが、既にニュースをキャッチされている方もいらっしゃると思うんですが、ローラン・ボックが7月23日、西ドイツで交通事故に遭いました。レスラー生命はおろか、現在は容態が非常に危ぶまれている、そんな状態のようです。右の腕、そして肋骨、また両膝あたりを骨折いたしまして非常に危険な状態にあると言うことなんです。
桜井さん、思いもよらなかったことで、ファンとしても関係者としても一様にショックは隠しきれないようですね。

桜井康雄)
 そうですね。ま、プロレスラーというのは車で長距離を転戦しますからね。交通事故の危険が、いつもついて回っているわけですよね。ローラン・ボックがその交通事故で来日できなくなるとは、夢にも思いませんでしたね。

古舘アナ)
 再びレスラーとしてマットに上がることがあるかどうか、非常に難しいと思いますが、もし一縷の望みがあるとすれば、私どもとしても復活を祈りたいと思います。
 山本さん、そのボックに代わりましてですね、今日の闘い、急遽タイガー・ジェット・シンが挑戦してきた訳なんですがね、その辺の経緯をご説明いただきたいのですが。

山本小鉄)
 プロレスラーというのはですね、全世界でどういう事があった、誰が勝った、猪木が勝った負けた、逐一情報が入りますからね。タイガー・シンもバンクーバーでその情報を得て、すぐテレックスを打ってきましてね。ローラン・ボックがダメだったら、俺に挑戦させろと。新日本プロレスとしても会議をしましてね、確かにタイガー・シンはローラン・ボックと違うタイプですけど、実績がありますしね。それで急遽タイガー・シンにOKを出したんですよ。

古舘アナ)
 あっ、今、画面が、クマ殺しのウィリー・ウィリアムスをとらえました。
 山本さん、ウィリーですね、これは。

山本小鉄)
 はいそうです。私も初めて見るんですけど。そうだと思います。ウィリーです。

古舘アナ)
 クマ殺しのウィリー・ウィリアムス、アントニオ猪木との闘い。噂されておりましたが、今初めてリングに上りました。山本さん、ウィリーが初めて姿を現して、正式に挑戦をアピールしましたね。

山本小鉄)そうですね。新日本のマットに上がるのは初めてですね。

古舘アナ)桜井さん、今日の闘いの前にですね、またしても強敵が現れたと言えますね。

桜井康雄)これはね、格闘技においても世界制覇を目指す猪木にとってはね、その実力を実証する格好の相手ですね。近年にない強敵と言えますね。

週刊ファイト1979年7月31日号より

 今回の「闘いのワンダーランド」の放送では冒頭にローラン・ボック来日中止の話が出てきました。昨年、ローラン・ボック自伝『BOCK!』を入手したので、この来日中止の経緯がどういう事だったのか、ボックがどう書いているのかに注目してみました。
 シュツットガルトでの猪木との対戦以来、新日本プロレスからは「早く日本に来てくれ」と、再三オファーがあったと書かれています。しかし、この年の交通事故と日本への遠征中止について、期待していたような記述はありませんでした。日本遠征については1981年、1982年の来日について書かれており、木村健吾戦、スタン・ハンセンとのタッグ、アントニオ猪木戦、また新間氏との交渉などについてボックの目線で語られています。

ローラン・ボック自伝『BOCK!』、ドイツのAmazonで購入

映画『ハリケーン・ロージー』(80年公開)トレーナーはまり役ボック演じる
 この自伝『BOCK!』によると、1979年のローラン・ボックは、前年(1978年)にボック自身が主催した「ヨーロッパ選手権・猪木ツアー」の赤字精算に追われていました。それでも少しでも負債を返済しようと、ボックが信頼するプロモーター、ポール・バーガーの紹介で映画出演のオファーを受け、映画俳優の仕事を行っていたようです。映画の題名は『ハリケーン・ロージー』(1980年公開)。ボックは女子プロレスラー、ロージーのトレーナーで、自身のプロモーター人生を地で行くような役を演じています。なかなかのはまり役だったようで、自伝には次のように書かれています。

(ボック)「私の容姿は、映画が求めるプロレスコーチ像にぴったりだった。監督はイタリア映画界では著名な脚本家兼監督のマリオ・モニチェリだ。私はカメラの前で監督の指示通り、完璧に演じることができた。マリオ監督はスタジオでワンカット撮影する度に興奮したように、“OK、最高だ!”と、60代とは思えないほどの迫力のある声で叫んだ。関係者は私がカメラの前で演技をするのは初めての経験だと聞いて、驚きを隠せなかった。
 私は関係者から続編映画への出演もオファーされ、契約書を手渡された。その映画は、7月にクランクインの予定だった。私は次の映画撮影までの間、シュツットガルトで、再び儲けにならないプロレス・トーナメントを主催する日常に戻っていった」

映画『ハリケーン・ロージー』のひとコマ

 時系列を追って読むと、映画撮影のあと7月23日に交通事故に遭って8月の来日が不可能になったことになります。しかしこの年の12月には、アンドレ・ザ・ジャイアントをドイツに招聘して全6戦の短期ツアーを主催しているので、1979年の年末にはプロレスが出来るほど回復していたことになります。このアンドレ・ザ・ジャイアント戦についても自伝『BOCK!』には詳細な記述がありますので、少しだけ紹介しておきます。

(ボック)「私が巨大なアンドレをリングの上で扱うことは簡単ではなかった。試合中にアンドレの全体重が私の足にかかってしまい、危うく負傷するところだった。それでも私はなんとかスープレックスの体勢に入り、アンドレを後方に投げ飛ばすことに成功した。私とアンドレはそのままリング下に転がり落ち、場外で乱闘になった。ローマン・バーンスタインがマイク越しに場外カウントを数えたが、アンドレは10カウント以内にリング内に戻ることができなかった」

現地で試合ビデオを入手して詳細にレポートされた週刊ファイトの記事

 ここで述懐されているシーンは、ボックが後に血栓症を発症する原因になった場面だと思われます。ボックが映画俳優をしていた頃や、アンドレ・ザ・ジャイアントとの対戦については、週刊ファイト1982年1月5日の新春特集号に詳細な記事が掲載されています。

▼[Fightドキュメンタリー劇場23]「シュツットガルトの惨劇」
ハッキリ言ってこれは異種格闘技戦ですよ

[Fightドキュメンタリー劇場23]「シュツットガルトの惨劇」ハッキリ言ってこれは異種格闘技戦ですよ


記事の全文を表示するにはファイトクラブ会員登録が必要です。
会費は月払999円、年払だと2ヶ月分お得な10,000円です。
すでに会員の方はログインして続きをご覧ください。

ログイン