[ファイトクラブ]新日本プロレス★旗揚げから発展期への東京と大阪のカード格差考察

昭和47年5月11日、第2弾オープニングシリーズ大阪大会パンフレットと半券
[週刊ファイト9月21日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼新日本プロレス★旗揚げから発展期への東京と大阪のカード格差考察
 by 藤井敏之 w/編集部編
・1972年新日プロ旗揚げ、第2弾で関西遠征も「猪木&柴田勝久組」から
・久々のアントニオ猪木登場に沸く大阪のファンと創業者のファイト
・東京&大阪「猪木vs.Kゴッチ」世界選手権試合東京12チャンネル放送
・坂口征二が新団体「日本プロレス興行KK」(仮称)24選手で発足報道
・せっかくジョニー・バレンタイン来日もシングル戦なくセスナ機事故勃発
・1973年猪木 ジョニー・パワーズNWF世界王座挑戦も東京が最優先に
・全日NWA3王者集結1974年新日マクガイヤー兄弟新春黄金シリーズ
・猛虎襲来タイガー・ジエット・シンも大阪最終戦、キラー猪木腕折り勃発
・猪木&新日飛躍期に北米タッグ選手権の常設体育館となって行く大阪


 昭和46年12月13日、正式に日本プロレスより「アントニオ猪木の日本プロレス追放」が発表されその動向が注目されたアントニオ猪木。日本のプロレス界から去りアメリカで活躍するのか、国際プロレスに入団するのかもしくは第三勢力旗揚げかと推理されたが、翌年の1月26日に新宿の京王プラザホテルにおいて約60人の報道陣を前にプロレス新団体(新日本プロレス=新日本プロレス興行株式会社)の設立を発表、ファンは一安心したがその航海は厳しいものだった。

1972年新日プロ旗揚げ、第2弾で関西遠征も「猪木&柴田勝久組」から
 2月21日にオープニングマッチの全貌が明らかになり、東京・大田区体育館での第一戦を皮切りに関東方面を回る全14戦。外人はプロレスの神様カール・ゴッチを筆頭にジムとジョンのドランゴ兄弟、イワン・カマロフ、エル・フリオーソ、インカ・ペルアーノ、ザ・ブルックリン・キッドの7人である。いやぁ~、外人はネームバリューが無いし関西地方には来ないんだと落胆したものだ。

 旗上げのカードは日本プロレスのマット上でもなかなか見られなかった(昭和44年の台湾遠征時、猪木はゴッチとエキシビションの20分1本勝負で時間切れ引き分け)アントニオ猪木対カール・ゴッチのシングル・スペシャルマッチとして行われ、猪木はリバーススープレックスホールドで敗れはしたが、その試合内容はファンに絶賛された。

新日本プロレスの大阪大会はアントニオ猪木&柴田勝久組でスタートしたのだ。

久々のアントニオ猪木登場に沸く大阪のファンと創業者のファイト

 何故かアントニオ猪木が遠い存在に感じられた頃、第2次オープニングシリーズが発表され関西において2大会が入っているのに喜んだものだ。今後の関西の地固めの為か、5月11日(大阪府立体育会館)と5月13日大阪府・堺市金岡体育館の連続興行である。交通公社に努めている叔父から大阪府立体育会館の招待券(広瀬側)を頂き、久しぶりの猪木のファイトを観にいった。 
 この時期、ファンも対戦相手の外人の実力に関してはあまり期待していなかったが、日本プロレス黄金時代を見て来たファンにとって、アントニオ猪木&柴田勝久対ジョーン・ハイドマン&ボブ・ボイヤーのカードは、かつて何か月も前からチケットを枕元において楽しみにしていた頃のような魅力は無かったが、ただ猪木のファイトを見て今後の活躍に期待したものだ。
 翌日の堺大会は「アントニオ猪木&山本小鉄対ティンガー・トッド&ボブ・ボイヤー組」で、オープニングマッチのカール・ゴッチ戦のようなスペシャル感は無かった。

▼新日本プロレス夜明け前~初の大阪大会を振り返って1972

[ファイトクラブ]新日本プロレス夜明け前~初の大阪大会を振り返って1972

 第3弾オープニングシリーズにおいては、かろうじて奈良のドリームランド特設リングで大会が開催されたが、やはり実力があっても客を呼べる選手がおらず、メインは「アントニオ猪木&豊登対エディ・サリバン&ジェシー・ジェームス」が組まれるも、東京・大田区体育館のカード、「アントニオ猪木&柴田勝久対エディ・サリバン&リップ・タイラー」とそんなに遜色もなく、徐々に大阪も重視されてきた感がある。最終戦の姫路市体育館では、「アントニオ猪木対エディ・サリバン」(2-1でアントニオ猪木勝利)のシングルマッチも行われた。

 ニュー・サマー・シリーズにおいては開幕戦がなんと大阪府・豊中市千里特設リングで、アントニオ猪木&柴田勝久が、ボビー・キャッシュ&アーニー・ラスターと対戦。初めて北海道を転戦して8月10日には京都長岡天神いずみやショッピングセンター、11日は大阪府・泉佐野末広野球場、17日には大阪府いずみや枚方ショッピングセンターと、4会場も近畿圏での試合が組まれ、よりアントニオ猪木が身近に感じられるようになりつつあった。

 如何せん、やはりネームバリューがある外人が来日しなく苦戦している折、日本プロレスからジャイアント馬場の独立宣言もあり、老舗日本プロレスも観客が落ち込み、また国際プロレスも飛躍のチャンスであったが低迷が続く中、まさに日本のプロレス界は暗黒時代に入りこんでいた。
 秋に入り新日本プロレスは唯一の頼りであるカール・ゴッチを再び呼び、東京と大阪で世界選手権を敢行、さらにレフェリーに大物ルー・テーズをも招く。いよいよ大阪も東京と同等のカードが提供され、しかも世界選手権である事に嬉しさが隠せなかった。

東京&大阪「猪木vs.Kゴッチ」世界選手権試合東京12チャンネル放送
 両大会とも久々に東京12チャンネルで放送され、高視聴率を稼ぎ猪木ファンは溜飲を下げた。同時期ジャイアント馬場が立ち上げた全日本プロレスは日本テレビで定期放送され始めた時期ゆえ、アントニオ猪木に馬場に対する意地の抵抗だったように思えた。

世界選手権試合の記念ポスターとその試合結果を伝える新聞

 ニュー・ダイヤモンド・シリーズは年度末シリーズゆえ、本来は大会場を抑え豪華外人を呼びタイトルマッチを行うのが普通であったが、前シリーズで今持っている力を振り出した新日本にはその余力もなかった。逆に対抗団体である日本プロレスは(ボボ・ブラジル、ジン・キニスキー、キラー・カール・コックス他)、国際プロレス(デイック・ザ・ブルーザー、クラッシャー・リソワスキー他)、全日本プロレス(ザ・デストロイヤー、アブドーラ・ザ・ブッチャー他)らを呼び集める。華々しく激戦を行っているのを横目に、アントニオ猪木は悔しさを胸にシリーズを淡々とこなしていったのだ。

 このシリーズにおいても12月2日は東大阪市中央体育館で山本小鉄と組み、フランク・モレル&ロナルド・パールと対戦。翌日は大阪・堺市金岡体育館で柴田勝久と組みジョニー・ロンドス&ロナルド・パールと対戦。正直もう観戦に行く魅力も失せていた。
 思い返せば3年前の12月2日は、万余の観衆の前で世界最強のNWA王座に臨んでいた現実からは程遠い状況にまで落ち込んでしまっている現実。今からレスラーとして絶頂期を訪れるにもかかわらず、弱体外人と戦う猪木を見て悔しかった。ただ、シリーズに関西大会を入れてくれていることは感謝していた。他団体のエース外人一人でも新日本に来てくれたら大会場を一杯にできるのにと、悔しい思いが一杯で他団体の大会も興味が湧くことなく、雑誌で試合結果を見て満足するような時期に突入していた。もう日本のプロレス団体の将来に暗雲が込めていることは、多くのファンも察していた。

坂口征二が新団体「日本プロレス興行KK」(仮称)24選手で発足報道
 年は明けて1973年、バッファロー・シリーズが開幕。残念ながらこのシリーズにおいて関西地区の大会は無かったのだが・・・。ただ、突然明るいニュースが飛び込んできたのだ、なんと2月8日、新宿の京王プラザホテルで猪木、坂口征二が新団体「日本プロレス興行KK」(仮称)を24選手で4月1日発足するとのことである。プロレス界に光明がみえてきた。最終的には日本プロレス選手会は新日本プロレスとの合流について大木金太郎派が残留、坂口ら4人が合流して4月からNETの放送も決まる。
 何となくであるが、もう一度プロレスにのめり込もうと思った瞬間である。

 4月20日、東京・蔵前国技館でアントニオ猪木と坂口征二の黄金コンビが復活。ロベルト・ソト&ジャン・ウイルキンス組を破り幸先良いスタートを切る。ただ2日前の大阪では黄金コンビの復活は温存され、アントニオ猪木とジャン・ウイルキンスのシングルマッチが行われ猪木が卍固めで勝利するが、やはりシリーズのテーマ的決着戦はどうしても東京の感が大きい時代であった。
 ここで新日本プロレス躍動の主役であるタイガー・ジエット・シンがゴールデン・ファイト・シリーズに乱入してくる。シリーズ初戦の川崎市体育館(TV中継)にターバン姿のインド人が突如乱入したのだ。
 シリーズ途中から参加したシンは、狂乱ファイトで悪の限りを尽くし日本勢を痛め、岐阜市民センターではエース猪木が逆上して反則負け。そして最終戦の大阪府立体育会館で決着戦を行い、猪木はサーベルで首を絞められ反則勝ちを拾う。このシリーズは珍しく東京の大試合会場が無く、大阪が少し陽の目を見た。

 前シリーズタイガー・ジエット・シンの乱入で一躍盛り上がった新日本プロレスだったが、サマー・ビッグ・シリーズにおいては一休みの感が漂う。東京や大阪の大会場での試合もなく話題性もなく終わったようなシリーズであった。但しロスとの提携が強化され、ムーンドック・ロニー・メインやロスのプロモーターであるマイク・ラーベルの弟であるジーン・ラーべルがレフェリーとして参加するという基盤確立のシリーズではあった。

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 そしていよいよ新日本プロレスが躍進する記念シリーズがスタートする。そう、アントニオ猪木と因縁の”2人のジョニー”の参加が発表されたのだ。“金髪の妖気”ジョニー・バレンタインと“死神”ジョニー・パワーズである。しかもシリーズ中に、最終戦の東京においてルー・テーズ&カール・ゴッチと猪木・坂口の黄金コンビとの間で、世界最強タッグ戦が行われる事が発表された。

ジョニー・バレンタインが参戦した大阪のチケット

世界最強タッグ戦のスペシャルパンフ

せっかくジョニー・バレンタイン来日もシングル戦なくセスナ機事故勃発
 あえて、東京でのスペシャルタッグ戦があるのなら9月25日の大阪では、当然それに匹敵するぐらいのシングルマッチが提供されるものと期待する。東京プロレスからの因縁のライバルであるジョニー・バレンタインは9月17日から29日までの特別参加ゆえ、大阪はもうバレンタインとのシングル戦だと一人決めてしまうほど嬉しかったものである。
 ただこの時期足首の不調だった猪木の状態を加味したのか、大阪では「アントニオ猪木&坂口征二対アール・メイナード&ビクター・リベラ」というカードが当てられガックリ感満載に。
 既に世界最強タッグ戦の話題が連日紙面を飾り、バレンタインの来日はあって無かったかのような印象がある。やはりそこは怪我をしていても、熊本か広島において坂口ではなく猪木が行って欲しかった。

世界最強タッグ戦の記念パンフレットとポスター

 その2年後の1975年、ジョニー・バレンタインはセスナ機事故によりこのシリーズ参戦が、最後の来日となってしまった。新日本の大会場でアントニオ猪木が、ジョニー・バレンタインとのNWF戦を見たかったものだ。

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 ~アントニオ猪木と恋人ジョニー・バレンタイン:その出会いと別れ

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 翌、闘魂シリーズ第2弾では因縁のインドの狂虎タイガー・ジエット・シンが再来日。11月5日新宿・伊勢丹デパート前で買い物中の猪木を襲うという暴挙にでる。それがきっかけでシリーズの札幌での決着戦はまたしてもサーベルでの血染めの大乱闘、最終戦での広島ではランバージャックデスマッチの末、猪木がシンを破り国外追放とする。このシリーズは東京、大阪とも大きな会場での試合は無かった。

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