[ファイトクラブ]アントニオ猪木と恋人ジョニー・バレンタイン:その出会いと別れ

[週刊ファイト8月5日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼秘蔵写真で綴る浪速のアントニオ猪木#15(1966年 天王寺公園内音楽堂)
 ~アントニオ猪木と恋人ジョニー・バレンタイン:その出会いと別れ
 by 藤井 敏之
・1966年11月7日、天王寺音楽堂での猪木vs.ジョニー・バレンタイン
・東京プロレス国際プロレス合同興行にジョニー・バレンタイン参加
・猪木は単独で日本プロレスに復帰するも・・・
・猪木の本命の恋人ジョニー・バレンタインの参加が決定
・当日大阪府立入りするバレンタインの姿など貴重写真掲載
・吉村道明引退シリーズにも参加!近大控室のでのショット
・75年10月、セスナの事故でバレンタインは大怪我、実質現役引退
・猪木デビュー30周年記念横浜アリーナ大会にバレンタイン招聘
・2001年米ラスベガスで行われたCACで猪木バレンタイン再会のはずが・・・
・毒針殺法よ永遠なれ!レトロ愛好家失神の大量写真をついに蔵出し!


 今回掲載する写真は1966年10月12日に蔵前国技館で行われた今や幻となっている伝説のアントニオ猪木対ジョニー・バレンタインの試合から38日後に大阪で行われた猪木対バレンタインの試合である。

旗揚げ戦のパンフ・半券・サイン 東京プロレス後援会募集

当日の貴重なポスター

 試合会場は会場後方に当時の大阪のシンボルである通天閣のネオンが輝く新世界に隣接していた天王寺音楽堂である。古びた野外ステージから当時の観客は試合を見ていたであろう、その痕跡を訪ね天王寺公園に先般、足を運んだが今は動物園内のコアラ館が建つ場所にその会場があったと聞く。
 小学校の頃、よく公園内の私立美術館を訪ねた時に、その高台から見下ろせる確か左前方に石で造形された等身大のプロントザウルス像があり、その前方にすり鉢状の観客席のある風景を小さい頃、目にしていたのを思いだした。そうかこの場所でかつて新しい時代のプロレスをやろうと熱く燃えていたアントニオ猪木がファイトしていたのかとノスタルジーに浸ってきた。


         大観衆で埋まる天王寺音楽堂の同夜の模様

1966年11月7日 大阪市 天王寺公園内音楽堂 時間無制限1本勝負
 アントニオ猪木 対 ジョニー・バレンタイン

猪木(両者リングアウト 48分40秒)バレンタイン

※約50分も戦われているのに驚きです。前日は現在私の家の近くの甲子園大プールで戦っていたのには再び驚きである。今回は猪木とバレンタインの戦いの歴史を記していた。

 すでに力道山死後、確固たる地位を確保したジャイアント馬場をエースとして擁立する日本プロレスに晴れ晴れしく海外遠征から帰国して参加するのを猪木は拒否。かつて何かと世話になり師と仰ぐ豊登の説得を帰国途中のハワイで受け、その趣旨に賛同し新しいプロレス団体である東京プロレスの社長兼エースとして凱旋帰国する道を選んだのである。
 猪木はその船出の対戦相手を自ら探しにNWAの総本山であるセントルイスに飛び、実際その目で実力を探り、既に全米でも大物中の大物であった、“金髪のジェット機”ことジョニー・バレンタインとの交渉を成功させる。
 運命的な出会い、同じような体格、二人のレスリングに対するポリシーも似通っており、その痛さを観客に伝えるファイトスタイルも共有する二人。東京・蔵前国技館での旗揚げマッチはまさに新時代のストロングプロレスを披露し、フルハウスの観客を熱くさせ大成功に終わった。そして猪木にとっては初めて理想のプロレスができる宿命のライバルともいえる選手との出会いがあったことも己の大収穫となる。

 このシリーズにおいて、二人のシングルマッチが、東京(蔵前国技館・大田区体育館)・仙台・大阪(天王寺音楽堂、大阪球場)という大会場のメインにおいてデスマッチ無制限1本勝負、もしくはUSヘビー級選手権試合として5試合も行われ、猪木の3勝2引き分けという記録が残る。
 互いのパンチ、キック、エルボーの一発一発の破壊力が館内に轟く、その迫力に観客も圧倒された新しいプロレス。後年、猪木が立ち上げた新日本プロレスのスローガンであるストロングスタイル、その前夜的なプロローグであったかもしれない。


リングシューズを履く準備をするアントニオ猪木     猪木と豊登

 だが東京プロレスは収支面の悪化、板橋暴動事件、猪木と豊登との告訴合戦などがあり早々ピンチを向かえた。翌年早々、東京プロレスは国際プロレスとの合同興行に最後の望みを託す。ここでも恋人であるジョニー・バレンタインが参戦したが、互いの団体のエース同士である猪木(東京プロレス)とヒロ・マツダ(国際プロレス)が保持するNWA世界タッグ選手権試合が主体となったシリーズであった。

 猪木とバレンタインとのシングルマッチも広島(ノンタイトル)、横浜(USヘビー級選手権試合)、仙台(ノンタイトル戦)で行われ、猪木が3勝している。そして遂に東京プロレスの崩壊とともに猪木とバレンタインの名勝負数え歌は一旦終止符を打つ。この項で特筆したいのは後に猪木と新日本プロレスのリング上において血で血を争う戦いを行ったもう一人の宿敵“インドの狂虎”ことタイガー・ジェット・シンもこの頃、トロントにおいてジョニー・バレンタインと抗争していたこと。1967年6月にはバレンタインを破りトロント地区のUS王座になっている。

 今思えばこの3人の関係は奇しくも運命的に感じてならない。タイガー自身も「バレンタイン戦はプロレス人生のターニングポイント的な試合であり、凄くタフで強い選手であった」と述懐している。


写真からもオーラを感じるバレンタインの雄姿 笑顔で写真に写る猪木 同夜の勝利者トロフィー

  
以下、写真からも伝わる二人の激しいファイトぶり


▼1966年のアントニオ猪木 君は東プロ時代の猪木を見たか!! We Rememberシリーズ第一弾

1966年のアントニオ猪木 君は東プロ時代の猪木を見たか!! We Rememberシリーズ第一弾






 その春、日本プロレスの計らいで川島正次郎コニショナー承認の元、猪木は単独で日本プロレスに復帰することになる。
 新しいプロレスである東京プロレスの戦いを生で見たごくわずかなプロレスファンにとって、この猪木対バレンタイン戦はインパクトがあり過ぎ。早く猪木が日本の団体で復帰することを望んでいたファンにとっては朗報であり、もう一度、日本プロレスのマットで二人の再戦が見たいという夢が大きく膨らんだのだ。

 67年の春にアントニオ猪木は古巣に復帰したが、馬場体制が続く中、猪木は黙々とプロレスに取り組みながら模索していた。どうしても超えられない馬場という大きな壁、各シリーズにおいても馬場のライバルが来日、最後は馬場のインター選手権試合において防衛記録を伸ばしハッピーエンドで収まる体制に我慢できなかった。
 恋人であるバレンタインが来日すれば馬場以上の試合をみせられるという自信もあったが。バレンタインが東京プロレスという新団体に来日したという事実が、ペナルティ的なものもあり、なかなかその来日は実現しなかったのである。

 1969年猪木は第11回ワールド大リーグ戦に優勝、その年の年末、技を駆使する新スタイルのヌーベルバーク的なレスラーであるドリーファンクJr(NWA世界チャンピオン)が来日。2日連続で猪木と馬場がNWA王座に挑んだが、両雄とも引き分け王座奪取こそ叶わなかったが、馬場対ドリー戦より猪木のほうがドリーと素晴らしい試合をしたと認められるまでになり、ようやく馬場の背中も見え、追いつき追い越せの時代を迎えていた。しかし、待てど暮らせどやはりかっての恋人であるジョニーは日本にやって来ないのである。遠距離恋愛も3年も経過するとその情熱が徐々に覚めてくるものか。

 70年万博の年になると、BI砲の実力と人気は並び始めた状況になる。第12回ワールド大リーグ戦では馬場が巻き返しドン・レオ・ジョナサンを破り優勝。猪木も負けるものかと秋に開催されたNWAタッグ・リーグ戦にて星野勘太郎をパートナーとしてAWAの強豪タッグ(ニック・ボックウィンクル&“ビッグ”ジョン・クイン組)を破り優勝する。

 そんな中、年末のビッグ・シリーズの参加外人が発表された。元NWA世界王者”ジン・キニスキーと遂に、猪木の本命の恋人ジョニー・バレンタインの参加が決定したのだ。


インター・シリーズを伝えるポスター       ジョニー・バレンタインのサイン

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