[ファイトクラブ]新春夢想話~日本プロレス史実に基づく考察 若獅子・アントニオ猪木の日本プロレス改革があと一年遅ければ・・・

[週刊ファイト12月29日-2023新春号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼新春夢想話~日本プロレス史実に基づく考察
 若獅子・アントニオ猪木の日本プロレス改革があと一年遅ければ・・・
 by 藤井敏之
・猪木注目の契機だった昭和43年暮れ『NWAチャンピオン・シリーズ』
・年末に思い出す猪木が日本プロを追放された事件からの1年3ヶ月
・なんという宝の持ち腐れかWWWF王者”魔豹”ペドロ・モラレス戦叶わず
・日プロ末期を紐解くと「猪木潰しの一貫」だったJバレンタイン招聘
・先輩の吉村道明引退試合&セレモニーに立ち会うことができたのだが
・新春にアントニオ猪木の夢想に酔って・・・


 昭和プロレス界のアイコンであった“燃える闘魂”アントニオ猪木LOSSのショックは年が明けても、猪木信者にとってはまだまだ尾を引くであろう。2023年3月7日には“お別れの会”が東京・両国国技館で行われると“マネジメント事務所IGF(猪木元気工場)と新日本プロレスが発表した。今後も、各地で”猪木を語る会“が頻繁に行われ猪木を追悼するのは間違いない。その影響力はお亡くなりになられた今でも絶大である。

 そのアントニオ猪木のプロレスラーとしての活躍が、プロレスファンに注目され始めたのは間違いなく、昭和43年暮れのNWA世界王者ジン・キニスキーや“野獣”ブルート・バーナードが参戦した『NWAチャンピオン・シリーズ』であると断言できる。

 無敵のBI砲として、そしてライバルであるジャイアント馬場は、このシリーズ初戦の後楽園ホール大会(1968年11月8日)だけ参戦した後、キニスキー戦に備えてハワイ特訓に行くという異例の行動をとった為、事態は急転する。その留守を任されたNo.2の猪木は絶好のチャンスとばかり11月15日の夜、開幕戦での因縁により後楽園ホールでブルート・バーナードとメインで一騎打ちを行った。
 テレビ中継された猪木の激しいファイトにファンは熱狂。さらにその勢いでジャイアント馬場、ジン・キニスキーとのインターナショナル選手権試合の前に、猪木はジン・キニスキーとの一騎打ちを日本プロレスフロントに直訴、猪木の馬場へのライバル心が表面に現れ始め、猪木ファンは色めきたった。

 室蘭でのキニスキーとの一騎打ちは十八番技であるコブラツイストで追い込むもキニスキーのバックドロップで沈むが、その“若獅子”猪木のファイトは当時のファンを納得させるだけの好ファイトであり、ファンは猪木の台頭に期待を大きく持ち始めた。猪木自身もこの試合を生前、ベストバウトの一つとして上げている。

 馬場はキニスキーとのタイトル防衛戦の決勝ラウンド、セコンドに付いた猪木のアドバイスに応じコブラツイストで締めあげると、キニスキーは苦しさのあまりレフェリーに暴行を加えるという暴挙に出て、馬場は反則勝ちながら完勝する。
 ここは猪木のタッグ・パートナーである馬場への友情的アドバイスには見えたが、その頃猪木は密かにコブラツイスト以上の見栄えする強烈な技を渋谷(エンパイヤ・ジム)において、カール・ゴッチのコーチにより自らの象徴となるべき技である卍固めを完成させていた余裕からの行動だったように思える。そして猪木は新技開発と共に、1969年の大飛躍を密かに目論んでいた。

NWA王者ジン・キニスキーとバーナード   アントニオ猪木は果敢にキニスキーを追い込む

 “若獅子”アントニオ猪木のプロレスの神髄を観戦できた期間は、躍動するこの1968年末から1971年の猪木がクーデターにより日本プロレスを追放されるまでの3年間だと断言できる。その序章としては、猪木の激しいプロレスが開花した東京プロレス時代のジョニー・バレンタイン戦を礎とし、この若獅子奮闘時代、そして新日本プロレスを立ち上げ“燃える闘魂”と称されるようになった第2期黄金時代。そうジョニー・パワーズから奪取したNWF世界チャンピオンを手にストロング小林戦、同門の坂口征二戦、大木金太郎戦から伝説のビル・ロビンソン戦までの3年間だ。

 毎年、年末のこの時期になると、いつも猪木が日本プロレスを追放された事件を思い出す。新日本プロレスを立ち上げてから坂口征二との合体によりテレビ放送が付くまでの1年3ヶ月はまさしく、猪木はプロレスラーとして全盛期の域に入りかけていた実力を満天下のファンに披露する事も出来なく、ファイトが空回りしていた。まさに猪木にとっても、日本のプロレス界にとっても大きな損失でもあり、多くの昭和世代のファンが去っていった“暗黒の時代”なのである。

 私も猪木が去った翌年の日本プロレスの大阪大会、既に猪木は居なく魅力なき団体であったが、ミル・マスカラスの弟であるサイコデリコの初来日に興味が湧き見に行ったものの、かつて館内に溢れるほど観客が埋まっていた状態を見てきた私にとって、まさに国際プロレスに来たような感覚で、恐らく5割に満たない寂しい観客の入りだった。
 さらに不甲斐ないサイコデリコのファイト。おまけにメインであるジャイアント馬場対ボボ・ブラジルのインターナショナル選手権試合において、リングサイド席の強面の方々をすり抜け、たまたま篠原リングアナウンサーの横まで潜りこんでいた中学生の私は、篠原氏が机上において紙で飛行機を作成し、リングに投げ飛ばす姿を見てしまったのである。リング上ではすぐに勝負が決まり篠原氏がゴングを乱打する光景にショックを覚えてしまう。
 もうアントニオ猪木の新団体に賭けるしかない、猪木について行こうと決心した瞬間でした。

 しかし、新団体である新日本プロレス(1972年3月6日旗揚げ)には外人ルートもカール・ゴッチしか頼れる人がいなく、日々、弱体外人しか相手にできない猪木は全力でのリング上パフォーマンスが出来なく、どんどんストレスが溜まっているのがファン目線からもわかる状態が続く。
 新日本プロレス旗揚げの年の年度末の雑誌を見ても、老舗の日本プロレスはかつては馬場のインターベルトを奪った“黒い魔人”ボボ・ブラジルと“荒法師”ジン・キニスキー、国際プロレスは極道コンビである生傷男デイック・ザ・ブルーザーと粉砕者クラッシャー・リソワスキーを、そしてライバルであるジャイアント馬場率いる全日本プロレスは“覆面の魔王”ザ・デストロイヤーと“黒い呪術師”アブドーラ・ザ・ブッチャーを呼び派手に興行を行っていたが、弱体外人しか呼べない新日本プロレスは低迷が続く。

 当時の雑誌においては“試合内容で3団体に臨む猪木、売り物はあくまで猪木”、“来るべき大勝負に賭ける猪木“、”シリーズ全勝、被フォールゼロの公約は達成できるか“など、試合自体の話題性は無く、紙面数も白黒で少なく一歩も二歩も下がった感じであった。あれほどNWA王者ドリーをも追い込んだファイト、次期王者と名高いジャック・ブリスコを圧勝した猪木の実力を示す場所が無いのである。

キニスキー  ブラジル  ブルーザー リスワスキー      

ブッチャー      デストロイヤー      ドリー・ファンク・ジュニア

 昨今、猪木が亡くなりかつての名勝負が発刊される幾多の追悼誌に多く表記されているが、もしこの1年3か月という期間において対戦相手に恵まれていたら、もっともっと名勝負を猪木は作り出していたと思うと残念でならない。この気持ちが膨らみ、標題の夢(もし猪木があと1年、会社改革を延ばしてくれていたら・・・)を、新春のおとそ気分で史実に基づき夢想したので、是非とも付き合ってもらいたい。

 もし猪木が会社を良くしようと起こした俗に言われる1971年末のクーデター事件について、同じ年の春近し3月、会社の後押しもありユナイテッド・ナショナル選手権という初シングルを獲得、11月には倍賞美津子さんとの結婚と、人生を謳歌していた猪木にとって、会社に対する不満も蓄積されストレスも多かったと思うが、何とかもう1年だけ、そう結婚式の資金も日本プロレスに完払してもらい、対戦相手に恵まれた環境に甘んじ、会社改革を伸ばしてくれていたら、素晴らしい数多くのUNシングルの防衛戦が実現していたかと思うと非常に残念である。

 では史実とともに具体的にその想像される歴戦の記録を夢見てゆこう。

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