NHK京都ラジオKBS京都放送にて体感した日本プロレス逸話語られる

NHK京都での収録「関西ラジオワイド」

KBS京都での収録「蛤御門のヘン」の模様     

 6月の2日から19日まで京都はホホホ座浄土寺店で開催した“日本プロレス・ポスター展”においては昭和プロレスを愛する多くの方々にお越し頂き感謝しかありません。
 開催期間におきましては京都新聞社や読売新聞社京都総局の取材も受け、京都市民にも少しは昭和のプロレスを懐かしんで頂けたと喜んでいる。

 開催終了後も、地元のNHK京都放送局やKBS京都ラジオからの出演オファーも頂き、週刊ファイト誌で書き留めてる昭和プロレス、BI砲(ジャイアント馬場とアントニオ猪木がタッグを組んでいた黄金時代)から日本プロレスの終焉などを実際お話することにより、昔のプロレスファンの方々に共感して頂き、久々にノスタルジックな気分に浸ってくださればと思い出演した。

 NHK京都放送局においては7月4日(火曜日)のお昼に事前録音を行い夕刻の5時頃に放送された。『関西ラジオワイド』で 澗隨操司アナウンサーにフォロー頂き、10分間という枠の中で、日本プロレスのルーツ、日本プロレスポスターのデザイン性、その製作者のルーツ、47枚の日本プロレスのポスターの収集方法、を説明。後半からはアントニオ猪木が生前、自らが戦ってきた約5000試合の中でも最も印象深く、ベストバウトだったという昭和44年12月2日の大阪府立体育館で行われたNWA世界選手権試合を、その時生観戦した感性の記憶を思い出しながらその素晴らしさを説明した。
 あっという間であったが、自ら何十年も思い蓄めてきたお話を、NHKという公共放送を通じて皆様にお伝え出来たことに満足感一杯である。

ホホホ座で開催された日本プロレス・ポスター展の様子

▼懐かしき昭和40年代日プロ 京都ホホホ座ポスター展&トーク満員御礼

懐かしき昭和40年代日プロ 京都ホホホ座ポスター展&トーク満員御礼

 続いて13日(木曜日)にはKBS京都の『蛤御門のヘン』の録音に出演、MC角田龍平さんを前に好きに90分間、日本プロレスの思い出をしゃべっても良いとういうことで感激。
 同放送には前回出演されたビリー・ライレージム京都の松並代表も同席した。

 スタートは日本プロレス・ポスター展を振り返ってのトーク、本題①はBI砲についての思い出トークである。

 1967年5月12日、東京プロレスから戻った猪木は日本プロレスの大黒柱であるジャイアント馬場と岐阜市民体育館にて初タッグを組み、テッド・デビアスのお父さんであるマイク・デビアス&ワルド・フォン・エリック組をストレートで破る。試合ではジャイアン馬場が余裕でアントニオ猪木の引き立て役に回っていたと聞く。そして同年10月31日、大阪府立体育会館でターザン・タイラー&ビル・ワット組から25日ぶりにインター・タッグ王座を奪還、名実ともにBI砲として活躍してゆくことになる。

BI砲と呼ばれた馬場と猪木のショット        
ビル・ワット&ターザン・タイラー組

 野球界のON砲に対抗して徳光アナウンサーに命名されたというBI砲の快進撃はテレビ視聴率も30%を維持した中、日本中に知らない者はいない程のプロレスのアイコンになっていた。
 その逸話として、当時の学校において、授業中先生「猪木ピンチ!」というとトイレに行けたという、そう当時のNTVアナウンサーである清水一郎さんがリング上で猪木がピンチになると、「おっと馬場でてきそう」、「馬場ようやくでてきました」とアナウンスしていたのをもじり、当時の小学生や中学性の中で流行っていた。

 特にBI砲で印象深い試合は昭和44年11月1日、蔵前国技館において覆面の魔王ザ・デストロイヤーと狂犬キラー・バディ・オースチンが挑戦してきたインター・タッグ戦だ。ゴングが鳴るや速攻で外人チームに襲い掛かるBI砲、わずか58秒で猪木がデストロイヤーをコブラツイストで破る。2本目は猪木がデストロイヤーに破れるが、3本目は馬場がハッスルしてオースチンを破り王座防衛すると約300枚ほどの座布団がリングに向け投げ入れられた。そうあの第1回G1クライマックスで蝶野が武藤を破った時の光景が何十年前に日本プロレスのリング上で既に行われていた事実。
 さらには1970年1月5日の大阪府立体育会館において“黒い魔人”ボボ・ブラジルが異母弟かといわれたハンク・ジェームスを従え挑戦。当然みるからに弱そうなジェームスに照準を合わせ2本ともあっさり日本組が取り、BI砲がタイトルを防衛した。その後、控室前に行くといつもと違う様子を感じる。中から大きな音が聞こえハンク・ジェームスがドアまで吹っ飛んできた。そう不甲斐ない弟をブラジルが控室で制裁したのである。子供心にその光景はトラウマのように今でもラッシュバックする。

 タッグ王座の防衛を重なる中、常に馬場の後塵を配する猪木は1969年大きく飛躍する。
 昭和44年3月5日、ジャイアント馬場とザ・デストロイヤーのインター戦、引き分けたが時間切れ前にがっちり決まった四の字固めに馬場はギブアップしたじゃないか、まして3本目は試合放棄でデストロイヤーの勝利だとネルソン・ロイヤルやポール・ジョーンズらがリングに上がりクレーム、其れを見かねた一人の若者がリングに駆け上がりかっこよくジャケットを脱ぎ捨て、馬場を援護する姿に一目ぼれ、そう若獅子アントニオ猪木である。

デストロイヤー&オースチン組   
ネルソン・ロイヤル&ポール・ジョーンズの牧童コンビ

 それ以来、猪木ファンになってしまう。第11回ワールド大リーグ戦では見事初優勝、翌シリーズではジャーマン・スープレックスを初披露とその人気はとどまらない凄い勢いだった1969年。

 そして本題➁、ドリー・ファンク・ジュニア対アントニオ猪木のNWA世界戦!
生前アントニオ猪木自身が数多い試合の中でも最も思い出深く、ベストバウトといえる試合がこの昭和44年12月2日のNWA王者ドリーに挑戦した試合である。
 カウント2.9の応酬はこれまでの一発必殺の試合ではなく、2人のレスリングスタイルがスイングしたスリリングな試合。そう近代プロレスへ移行するエポックメイキング的な歴史的試合であった。

▼名勝負は永遠に アントニオ猪木vsドリー・ファンク・ジュニア

名勝負は永遠に アントニオ猪木vsドリー・ファンク・ジュニア


アントニオ猪木、究極のベストバウトと言われる大阪(昭和44年12月2日)の戦い

 いみじくも、この試合を実況された舟橋さんが「初対決の超一流の二人のアスリートが阿吽の呼吸で技を紡ぎあった60分フルタイムのプロレス最高芸術だ」と。まさにこの言葉がこの試合を象徴しているのである。

 翌年福岡でさらに進化した二人が再戦、またしても60分引き分けに終わるが大阪以上との評価が高い、そして運命の3度目の対決。猪木もUNを賭けNWA王座ドリーに臨むはずが、日本プロレス会社の改革、そして追放となり実現せず。

 ③本目はその後この二人の対決の実現に向け泣き笑いする30年を話した。
 猪木の引退まで試合は実現しなかったが、アントニオ猪木が興したUFOのリングでレフリーとして来日したドリーと猪木のリング上での再会シーンでドラマのエンディングを迎える。

 とにかく90分3本勝負のトークであったが、話したいことがいっぱいであーっという間に終えた。楽しく貴重な時間を提供してくださった角田MCとスポンサーに感謝しかない。

 尚、11月には松並代表がビリーライレー活躍の頃の英国プロレスと実際、イギリスでロイウッドさんから学んだ技の実戦セミナーも行われる予定。さらに来年春には松並&藤井コンビで“インドの狂虎”タイガー・ジエット・シンさんのポスター展とその逸話を語るイベントが行われる旨の発表もあった。


☆タイガー・ジェット・シンは週刊ファイトの十八番です!
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