[週刊ファイト10月13日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼[Fightドキュメンタリー劇場番外編 猪木追悼⑨] 井上義啓の喫茶店トーク
1997年の井上義啓が語る「猪木とは何か?」
by Favorite Cafe 管理人
・アントニオ猪木の格好良さ
・新日本プロレス旗揚げと倍賞美津子
・はぐれ者の詩”タイガー・ジェット・シンとの大河ドラマ
・猪木は、やせ我慢をする
・試合にテーマを持って臨む
・負けて光る猪木
・異種格闘技戦の落し前の付け方
・プロレスの「間(ま)」を無視するスタン・ハンセンを生かす
・“凄い猪木”が見たい
・猪木から学ぶべきこと
なぜ猪木は格好いいのか、なぜ猪木は凄いのか。1997年に放送されたサムライTV「闘いのワンダーランド」の井上義啓の喫茶店トークから「猪木とは何か?」を探る。猪木追悼番外編にしてI編集長の金言集は、あらたな平成のプロレスファンにも必読だぁ~!
【アントニオ猪木の格好良さ】
(I編集長) 猪木がリングに登場して来ますよね、猪木はガウンを着ています。そして、リングアナが「アントニオーー」とコールしますわね。その時にコールに合わせてガウンの紐を「サッ」とほどく。そして「イノーーキー!」とコールされた瞬間にガウンをはねのける。そして「クルクルッ」と丸めて、後ろのセコンドに「ポーン」と投げる。首には赤いバスタオルを巻いている、長いやつを。それを「ビシ、ビシーッ」としごきますよね。そして「パーン」と勢い良く下にはねつける、一連の決まった動作です。このリングネームをコールされる時の猪木の動作はレスラーの中でも随一の美しさなんですね。
コールされる所作がカッコいい
(I編集長) 猪木のこの所作はですね、自然に出来上がったもんじゃないですよ、これは。何年間も毎日毎日やっているから、なんか自然に出来上がった仕草だと皆さんはお考えでしょうけど、これはもうね、猪木が考えて考えて、やり直してやりなおして、こうでもない、ああでもないと、繰り返しやって出来上がったもんなんですよ。
(I編集長) 当時の奥さんだった美津子夫人が言っていました。「アントンが夜の夜中にいなくなる。どこに行ったのかと思って探すと、鏡の前で試合用のガウンを着ている」と言うんです。美津子さんは女優だから、家には大きな鏡があるんですね。その大きな鏡の前で猪木がガウンを着たり脱いだりしている。そして傍らには、ポータブル・レコーダーがあって、そこから「アントニオー、イノーキー」っていうコールの声が流れているんです。猪木はそれに合わせて、いろんな仕草をやっていたらしいんですよね。ああでもない、こうでもない、こうやって脱いだら格好いいだろうか、タオルをしごくのにはどうしたらいいか、目線はどこに置くか、手はどこにもって行くのか、と試しているんですね。試合が終わった後も「ダーッ」と、こんなことをやりますけども、それについても、ああやった方が良いのか、こうやった方が良いのか、色々とやってるんですよ。その中から出来上がったのが、あの猪木の非常に格好いい動作なんです。
アントニオ猪木と倍賞美津子さん
【新日本プロレス旗揚げと倍賞美津子】
(I編集長) 猪木は新日本プロレスを旗揚げしたときに、まず道場を作りましたよ。上野毛の自分の家と庭をぶっ壊して道場を作ったんです。みんなが「事務所はどこですか?」と聞いたら、猪木は「プロレスラーには事務所なんていらない。我々の命は道場だ」と言って、まず最初に道場を作ったんですね。土地が無かったから自分の家をつぶしたんです。今の新日プロ道場は、猪木邸の庭だったんですよ。山本小鉄さんも「テレビが付くようになるまで、自分と猪木さんの二人は一銭のギャラも貰っていない」と言っています。他の連中にはギャラを出しましたけどね。猪木はそんなことを平気な顔をしてやっていたんですよ。
(I編集長) 藤波あたりもそういう猪木をちゃんと知っているから、猪木について行くんです。最初に猪木について行ったのは、なんぼも居ないんですよね。山本小鉄、藤波、木戸、そして魁、柴田。藤波は非常に嬉しそうな顔をして猪木のそばにおりましたね。あの嬉しそうな顔の藤波を私は忘れられないですよ。
(I編集長) 猪木vs.ゴッチ、3・6大田区体育館の旗揚げ戦でやった試合ですね。記念すべき旗揚げ第一戦ですから当時の常識としては、猪木が勝たなくちゃいけない。こんな言い方をするとおかしいけども、猪木が勝つ試合ですよ。旗揚げ戦だし、テレビも回っておるし、猪木が強い勝ち方で勝って当たり前の試合ですからね。そこで猪木は負けたんです。私はそれを見て、「猪木というレスラー、新日本プロレスという団体、これは凄い団体だ。自分は猪木を中心に筆をとる」と決めたんです。ハッキリ言えば、八百長をやってでも勝たなきゃいけない試合ですよ。そういった試合でですね、まともにぶつかって勝ち負けを競った、しかも猪木とゴッチが展開したプロレスの内容が素晴らしい。
1972年3月6日 大田区体育館
(I編集長) 猪木は全力を尽くして闘ったんです。しかしこの時の猪木は、コンディションが本当に良くなかったんですね。猪木はどんなに調子が悪くても、みんなに聞かれたときには、「コンディションはいいですよ」と答えるんです。一般の記者とかそういった連中の前では、必ずそう言いますよ。しかし、旗揚げ戦の時に私の前では本音を言ってくれました。二人になった時に「猪木さん、どうなんですか?」と聞いたら「調子が悪いですよ」と言うんです。
(I編集長) 猪木は「昨日まで浅草とかで切符を売り歩いていた。“明日、大田区体育館でやります。私の試合を見てください”と、オレだけじゃない、女房もやってくれた」と話してくれました。美津子夫人ですね。あの大女優がですよ、恥も外聞もなく「これが明日の猪木の試合です。旗揚げ戦です。みなさん来てください」と入場券を売って歩いたと言うんです。その他にも旗揚げの準備がいろいろあって、「とにかくもう、寝る暇もなくて、昨日は一睡もしていない」と言っていましたよ。そんな調子が悪いときに闘う相手がゴッチなんだもん。極端に言うと、負けて当たり前ですよ、これ。だから負けて当たり前だった旗揚げ第一戦を猪木はキッチリ負け試合にして見せたんです。
2002年5月2日 新日本プロレス「闘魂記念日」、倍賞美津子さんがサプライズで登場
週刊ファイト 2002年5月16日号より
【はぐれ者の詩”タイガー・ジェット・シンとの大河ドラマ】
(I編集長) 猪木は「この男は光り輝くものがある」と思ったらとことん入れあげるんですよ。そういった目を猪木は持ってますからね。そして“はぐれ者の詩”だったタイガー・ジェット・シンは、それに応えたということでしょ。
(I編集長) シンの腕を折った時の猪木の凄まじさはね、さすがに“クレイジー”シンも震え上がったんじゃないですか? 「猪木は怖い」って。やる時はやるんだというね。だからそれはね、猪木が移民でブラジルに行った時の経験ですよ。朝起きてみたら射殺された農夫がころがっておったという言うもんね。当時のコーヒー園の労働に農夫が耐えかねて逃げ出すんですよ。それを私兵が銃で撃って、撃ち殺したんでしょうな。だからそんな転がった死体をね、15歳や16歳の猪木少年は見ている訳ですよ。そういった状況を猪木はくぐり抜けて来てるんですよ。「死」と向き合った体験をした男というのはね、やっぱり死神を背中に闘っておるんです。
▼昭和プロレス偉人伝TJシン宅カリフラワーアレイクラブ藤波辰爾40周年
(I編集長) しかも猪木とシンのこの腕折りの試合というのは、ハッキリ言って猪木が「プッツン」した試合ですよ。それまで色んな事があって、シンを追放してもまたやって来るしね。そんなもん、もう限界だというね。だからあの腕折り事件は、猪木が演出で起こしてみせたんじゃないんですよ。そしてシンも凄いのは、狂気がメッキじゃないということですよ。オレは悪役レスラーだから、ここでは猪木であっても観客であっても、サーベルでどつき倒してみせる、という演出でやってるのとは違うんですよ。ホンマモンの狂気なんですよ。
【猪木は、やせ我慢をする】
▼猪木vs.大木 「業界の掟を破った猪木。そこが凄いところですよ」
(I編集長) いつだったかな、控室で猪木と話をしておった時に若手レスラーが近寄って、「大木さんが来てます」ってね、「コソコソッ」と猪木に言ったんですよ。そしたら猪木の顔が変わったですからね。サーッと青くなったからね。だから猪木がいかに“喧嘩屋”大木金太郎を恐れておったかということですよ。猪木の顔色が、真っ青に変わったのを見たのは、天にも地にもあれがいっぺんキリですよ。