[Fightドキュメンタリー劇場⑨]猪木vs.大木 「業界の掟を破った猪木。そこが凄いところですよ」

伊ケ崎光雄 オフ・ザ・リング「ザ・レスラー その光と影」より(1982年)
[週刊ファイト09月16日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼[Fightドキュメンタリー劇場⑨] 井上義啓の喫茶店トーク
 猪木vs.大木 「業界の掟を破った猪木。そこが凄いところですよ」
 by Favorite Cafe 管理人

 1974年10月10日、蔵前国技館 猪木vs.大木戦。ストロング小林に勝利して「実力日本一」を宣言した猪木に、大木金太郎は「俺に勝たずして何が日本一か!」と挑戦状を叩きつけた。この一戦は日本プロレス時代からの因縁浅からぬ闘いだった。事実、大木金太郎は猪木のデビュー戦で勝利して以来、この日の対戦まで猪木には負けたことが無かったのだ。
 しかし、対戦が決定した時点では立場が完全に逆転していた。猪木はNWF世界チャンピオン、大木は日本プロレス崩壊後の闘いの場を求めて、馬場、猪木に「挑戦状」を送る立場だった。
 I編集長は、「力道山の門下生対決」と「受けの凄み」の視点からこの名勝負を語る。

闘いのワンダーランド #009(1996.12.12放送)「I編集長の喫茶店トーク」
1974.10.10 蔵前国技館
NWF世界ヘビー級選手権試合 アントニオ猪木 vs. 大木金太郎

(I編集長) 大木金太郎がまだまだ力を残しておった時代の試合ですからね、これ。僕はまあ、名勝負の中に入れてますけどね。ハッキリ言って猪木は、当時の大木さんの力(ちから)はここまで、というふうに見ておったところはあるようですよ。その当時は言わなかったけどね。
 やっぱり大木金太郎っていうのはヘッドバットしか無かったし、だからあの、一本足頭突きをかいくぐったら、もう後はオレの勝ちだと言う自信が猪木にはあったと思うね。ただ、大木っていうのは喧嘩屋でもあるんでね、ハッキリ言ったら、試合でも強かったけど、実際に喧嘩となるとコレほど怖い男はおりませんでしたからね。

▼秘蔵写真で綴る浪速のアントニオ猪木#18

 バーナードに角材で耳をそがれた怪我が完治せず、ヘッドギアーで戦う大木金太郎
 https://miruhon.net/182515

(I編集長) だからあの、いつだったかな、控室で猪木と話をしておった時に若手レスラーが近寄って、「大木さんが来てます」ってね、「コソコソッ」と猪木に言ったんですよ。そしたら猪木の顔が変わったですからね。サーッと青くなったからね。だから猪木がいかに“喧嘩屋”大木金太郎というのを恐れておったかということですよ。猪木の顔色が、真っ青に、真っ青じゃないけども変わったのを見たというのは、天にも地にもあれがいっぺんキリですよ。

「なに? 大木さん?」 

(I編集長) 僕はあんまりしょっちゅう猪木のそばに居ったわけでは無いと思うけども、でも、もしかしたら、なんだぁかんだぁと言って居った方ですかね。他の人に聞いても猪木ってのはね、「タンキモの如し」(胆斗の如し・・・“たんとのごとし”をわざと言い換えている)ですからあの人は。ちょっとやそっとじゃ顔色を変えませんよ。
 ただあの時、大木金太郎が来たというのはね、アポイント無しで来てるんですからね。アポなしで。これはね、猪木にしてみれば「何だ?」ということになりますよ。そういった意識もね、この試合の迫力を増した一因でしょうね。だから、喧嘩腰でやりあった試合ですよ、やっぱり。

▼『最強の称号』昭和時代のベルトにまつわるエトセトラ
インター王座は大木金太郎。だが日プロ崩壊し、王座は『家なき子のタイトル』となった。

[ファイトクラブ]『最強の称号』昭和時代のベルトにまつわるエトセトラ


 

(I編集長) 猪木っていうのはね、テーズと対戦した時はバックドロップを仕掛けるし、大木金太郎とやった時にはヘッドバットを仕掛けるというね、相手の技をこっちも使ってやるぞというね。それと相手のその技じゃ効かねえぞというね、お前の十八番技は他のレスラーには効いてもオレには効かねえんだというね、そういったところが猪木にはあるんですよ。
 だから藤波との試合でもそうだったし、藤原との試合でもそうだったし、「折ってみろ!」というね。いくらやったって、他のレスラーの足だったら折れるかもしれないけどオレの足は折れないというね。確かにそういった自信はあったでしょうね。

アントニオ猪木vs.藤波辰巳(1985年9月19日 東京体育館)

アントニオ猪木vs.藤原喜明(1986年2月6日 両国国技館)
 
(I編集長) このことは、バレンタインとの試合の時でもそうだったですよね。バレンタインはコレ(エルボー)しか無いですからね。それを平然と受けたですよ、あの猪木が胸を張って受けたでしょ。それが、あの名勝負になったんですよ。単純な試合だったけどね、僕は「プロレスの試合っていうのはコレなんだな」と思ったんですよ。コレがプロレスの試合だとすると、「これからのオレ(井上編集長)の追いかけるプロレスの方向性っていうのは猪木だな」と、こう思った瞬間ですよね。そう言うストロングスタイルのプロレスだったですよね。

ジョニー・バレンタインとの対戦(1966年)

▼妖鬼ジョニー・バレンタインと闘う1966年のアントニオ猪木
 1966年のアントニオ猪木、君は東プロ時代の猪木を見たか!! We Rememberシリーズ第一弾

We Remember 1966年のアントニオ猪木 君は東プロ時代の猪木を見たか!!


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