[ファイトクラブ]『最強の称号』昭和時代のベルトにまつわるエトセトラ

[週刊ファイト12月19日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼『最強の称号』昭和時代のベルトにまつわるエトセトラ

 by 安威川敏樹
・昭和時代、ヘビー級シングル王座は『最強の称号』だった
・1960~80年代前半、世界三大王座だったNWA、AWA、WWF
・力道山が巻いたインターナショナルとWWAのベルト
・『プロレス界の伏魔殿』WWAが起こした大事件
・全日本プロレスでPWF、インター、UNを統一、三冠ヘビー級王座に
・新日本プロレスにあったNWFって、どんなタイトル?
・世界統一を目指した新日本プロレスのIWGP
・昭和時代には、多過ぎるベルトを統一する気概があった


 先々週の本誌記者座談会で「現在のプロレス界にはチャンピオン・ベルトが多過ぎる」と苦言を呈した。チャンピオンが多いということは、それだけ権威が下がるというわけだ。
 プロレスよりも組織がしっかりしていると言われるプロボクシング界でも、筆者が以前に書いた通り、現在ではチャンピオンが多過ぎて価値が暴落した、と言われている。かつては世界タイトルを認定していたのはWBAの1団体のみで、体重別8階級だったため世界チャンピオンは8人しかいなかったのだが、今ではメジャー団体が4団体、ウェートも細分化されて17階級になったので、単純計算だと4×17で延べ68人もの世界チャンピオンがいるのだ。
 それでもボクシングの場合、世界チャンピオンを含めた各団体の上位ボクサーを集めて、WBSSというトーナメントを開催している。だが残念ながらプロレス界の場合は、無秩序状態と言わざるを得ない。まあ、ボクシングとプロレスでは性質が全く違うので、比較はできないのだが……。

 もっとも、プロレスのチャンピオンが多過ぎるというのは、今に始まったことではない。昔から『チャンピオンが何人もいるのはおかしい』と言われ続けていたのだ。それでは、昭和時代は『最強の称号』と言われたヘビー級シングル王座は、どのような歴史を歩んだのだろうか。

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1960~80年代前半、世界三大王座だったNWA、AWA、WWF

 1960年代から80年代前半にかけて、世界最大のプロレス団体と言われたのがNWAだ。略さずに言うとNational Wrestling Alliance、和訳すれば全米レスリング同盟である。
 正確に言えば、NWAはプロレス『団体』ではない。allianceとは同盟とか縁組という意味があり、いわばNWAは各地区プロモーターの集合体だ。悪い言い方をすれば『談合組織』である。

 NWA本部はアメリカ合衆国ミズーリ州セントルイスにあったが、運営方法としてはテリトリー制を敷いており、アメリカの各州で地元プロモーターが興行を行い、州のチャンピオンがいた。NWA世界ヘビー級チャンピオンは各州を廻り、その州のチャンピオンと防衛戦を行っていたのである。
 日本もテリトリーに入っており、NWAに加盟していたのは日本プロレスで、日プロが崩壊してからは全日本プロレスが加盟し、後に新日本プロレスも加盟が認められている。ただし、新日のレスラーはNWA世界ヘビー級王座への挑戦は認められておらず(NWAが衰退した90年代以降は、新日でもNWA世界ヘビー級タイトル戦が行われた)、全日ではジャイアント馬場が日本人初のNWA世界ヘビー級チャンピオンに輝き、合計3度も同王座に就いた。とはいえ、戴冠したのは3度とも日本においてであり、前王者の日本滞在中にリターン・マッチでベルトを奪われ、馬場はアメリカではNWA王者としての防衛戦を行っていないのである。

 NWA世界ヘビー級王者は決して楽な商売ではなく、全米を飛び回って州チャンピオンの挑戦を受ける必要があり、ときには日本を含む海外へ遠征しなければならない。そのせいか、長期間にわたって自宅を空けることが多いNWA世界ヘビー級王者には、離婚経験者が多数いるのだ。
 NWA世界ヘビー級王者はただ強いだけではダメで、相手の州チャンピオンを光らせる技術が要求される。そのためNWA世界ヘビー級王者は、味わいのあるレスリングをするレスラーが多かった。

▼かつては世界中のプロレスラーが憧れたNWA世界ヘビー級チャンピオン・ベルト
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 NWAとライバル関係にあったのがAWAだ。American Wrestling Associationの略で、associationとは協会、即ち和訳するとアメリカ・レスリング協会ということになる。
 AWAは1960年にNWAから脱退して設立、アメリカ合衆国ミネソタ州ミネアポリスを本拠地とし、アメリカ北部やカナダをテリトリーとしていた。NWAほど広範囲ではなかったが、NWAに次ぐ権威と伝統があったのである。
 日本との関係では、日本プロレスにNWAルートを押さえられていた国際プロレスと提携、国プロとの提携解消後は全日本プロレスと交流した。全日ではジャンボ鶴田がニック・ボックウィンクルを破り、日本人初のAWA世界王者となっている。しかも、馬場のNWA戴冠は3度とも一週間天下で終わりベルトは海外流出となったが、鶴田はアメリカでAWA王者として防衛戦を行った。
 NWAとAWAの関係は、ボクシングでのWBAとWBCに似ており、協会的な要素が強かったのだ。

 NWAおよびAWAと並び称されたWWFは、元々はNWAに加盟しており、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨークを拠点としてアメリカ東部を担当していた。最初の名称はWWWF即ちWorld Wide Wrestling Federation、後にWWFつまりWorld Wrestling Federationと改称する。federationは連盟という意味、要するにWWFとは世界レスリング連盟というわけである。
 日本では新日本プロレスと提携、アントニオ猪木がボブ・バックランドを破り、日本人初のWWFヘビー級王者となった。ただし、アメリカでは猪木への王座移動はカウントされていない。

 1984年、WWFが豊富な資金力をバックにして全米に侵攻し始めると、テリトリー制は崩れNWAとAWAは一気に衰退していった。もはやWWFの『F』(federation=連盟)というのは名ばかりで、単なる一つのプロレス団体となっていく。
 2002年には同名団体のWWF(世界自然保護基金)から提訴され敗訴したためにWWEと改称した。World Wrestling Entertainment、即ちWWEの『E』はentertainment=娯楽で、連盟や協会といった意味合いは全くない。また日本のプロレス団体のレスラーはWWE王座に挑戦することはできず、WWEに所属する必要がある。
 つまり現在のプロレス界には、ボクシングにおけるWBAやWBCのような組織はないわけだ。

▼WWWF世界ヘビー級チャンピオンだったブルーノ・サンマルチノ

力道山が巻いたインターナショナルとWWAのベルト

 日本でも当然、昭和の頃はNWAがターゲットだった。日本プロレスを創設した力道山が、常に目標としていたのはNWA世界ヘビー級王者だった『20世紀最強の鉄人』ルー・テーズである。

 1958年8月27日、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルスで力道山がルー・テーズを破り、遂にNWA世界ヘビー級チャンピオンに輝いた、……と日本では思われたが、AP通信およびUPI通信社はノン・タイトル戦だったと報じた。しかも日本に帰国した力道山は、肝心のチャンピオン・ベルトを持参していない。
「ワシがルー・テーズを破ったのは紛れもない事実。ただ試合直前で世界タイトル・マッチとはならなかったので、勝ったワシはNWAからインターナショナル王者に認定された。NWA本部には『ベルトは自分で作れ』と言われたが、こんなことはアメリカのプロレス界では常識だ」
 と力道山は記者団に向かって、判ったような判らないような説明をした。『ベルトは自分で作れ』とは、まさしくプロレスの常識は世間の非常識である。ボクシングで言えば、アメリカでWBA王者に勝ったものの、WBAが日本へのベルト流出を嫌がって『日本用のベルトを自分で作れ』と言ってるようなものだ。そもそも、この時点でテーズは既にNWA世界ヘビー級王者ではなかった。
 ただ、力道山がテーズを破り第2代インターナショナル王者になったことで(テーズが初代王者とされた)、低迷していたプロレス人気が回復したのも事実である。やはり、NWAという権威のある組織が認定したチャンピオン、しかも本場アメリカでの戴冠ということで箔が付いたのだ。

 しかし、インターナショナル王者は『国際チャンピオン』であって『世界チャンピオン』ではない。1962年3月28日、力道山はロサンゼルスでフレッド・ブラッシーを破り、WWA世界ヘビー級チャンピオンとなった。こちらは正真正銘『世界』が付いたタイトルである。
 WWAはNWAに対抗してロサンゼルスに設立され、アメリカ西海岸に展開していた新興団体だ。WWAはWorld Wrestling Association即ち世界レスリング協会の略称で、1960年代はNWA、AWA、WWWFと並ぶ世界4大タイトルの一つだった。
 普通、アメリカを拠点とする団体の看板チャンピオン・ベルトは日本に持ち帰れないが、力道山は王者のまま帰国、日本でも防衛戦を行った稀有な例だ。たとえば馬場や猪木は、日本でNWAあるいはWWFのタイトルを奪取したが、元のチャンピオンがアメリカに帰国する際にはちゃんとベルトを返している(馬場は防衛失敗、猪木は王座返上)。WWAは日本をかなり重要なマーケットと認識していたのだろう。

▼インターナショナル・ヘビー級とWWA世界ヘビー級の二冠王となった力道山

 力道山の死後、日プロのエースとなった豊登道春が1964年12月4日、東京体育館でザ・デストロイヤーを破り、WWA世界ヘビー級王者となった。しかし、3本勝負で行われたこのタイトル戦、2-1で豊登が勝ったものの、1本は反則勝ちだった。当時のタイトル戦では、王座移動は3本勝負の場合2フォールが必要で、挑戦者の反則勝ちが絡んだ場合は王座防衛になるのが常識だったのである。それを日プロが、勝手にルールを変えて豊登への王座移動としてしまった。
 翌65年5月25日、大阪府立体育会館で豊登はデストロイヤーに1-2で敗れたが、反則負けが絡んでいたので王座防衛となった。デストロイヤーが王者だったときは豊登の反則勝ちが絡んでいても王座移動を認め、豊登が王者になったらデストロイヤーの反則勝ちが絡んでいたという理由で王座移動ならず。このご都合主義が大事件を起こす。

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