1972年10月4日 蔵前国技館(新日本プロレス パンフレットより)
[週刊ファイト8月4日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
※今週はカール・ゴッチ命日 (1924年8月3日 – 2007年7月28日)
▼[Fightドキュメンタリー劇場34] 井上義啓の喫茶店トーク
新日本旗揚げ、猪木プロレスに未来を見た、ゴッチ戦!(I編集長)
by Favorite Cafe 管理人
I編集長は「プロレス記者として筆を折ること無く、猪木を中心に書く」と決意した。一時はプロレス記者を辞めたいと考えていたが、初期の新日本プロレスの一連の「猪木vs.ゴッチ」戦に、新日本プロレスと猪木のストロングスタイルプロレスの“未来”を見たからだった。
■ 闘いのワンダーランド #042(1997.01.31放送)「I編集長の喫茶店トーク」
1976.02.05 札幌中島体育センター
アントニオ猪木 vs. ジェリー・ブラウン
坂口征二&ストロング小林 vs. タイガー・ジェット・シン&ブルータス・ムルンバ
(I編集長) 今日は放送された試合を離れて、新日本プロレスが旗揚げしてからテレビ放送が始まるまでの出来事、あれやこれやのお話です。まず昭和47年3月6日の大田区体育館での旗揚げ戦、これは非常にユニークな試合でしたね。旗揚げ戦でカメラが回っておったし、当時の常識としては、記念すべき旗揚げ第一戦ですから、絶対に猪木が勝たなくちゃいけない試合だったんです。それも強い勝ち方、格好いい勝ち方、それが要求される試合ですよ。この試合で、なーんと猪木は負けたんですね。当時はそんな馬鹿な、常識を破るようなことは起きないだろうと思われていたんですが、現実に猪木はカール・ゴッチに負けてしまったんですよね。
1972年3月6日 大田区体育館
(I編集長) そして昭和47年10月10日の大阪府立体育館のビッグマッチでも、またもや猪木はカール・ゴッチに負けています。その一週間前には蔵前国技館で、ゴッチに勝って世界ヘビー級ベルトを奪ってるんです。それは「実力世界一ベルト」とか、いろいろ言われていましたけども、そのベルトを大阪府立では奪い返されてしまいました。しかしあのベルトはタイトルじゃ無いんです。実はあのベルトは、カール・ゴッチが伝説のチャンピオン、フランク・ゴッチから受け継いだ「実力世界一」という称号が与えられる由緒あるベルトなんです。このベルトを持っておる者が真の実力者であるという証なんです。
そのベルトがカール・ゴッチからアントニオ猪木に渡ったということは、カール・ゴッチから「アントニオ猪木よ、お前が実力世界一だ。これがのそのお墨付きだ」と認められたということであって、タイトルでも何でも無いんですよ。当時はタイトルマッチとか言いましたけど、それは新日本プロレスが営業戦略で苦し紛れに言っただけのことであって、あの試合は新日本プロレスの公式のタイトル記録には載ってはいませんよ。タイトルマッチの項をいくら調べたって出てきませんよ。
フランク・ゴッチvs.ジョー・ロジャース/ vs.ジョージ・ハッケンシュミット
(出典「A PICTORICAL HISTORY OF WRESTLING」より)
▼WWE殿堂2017 レガシー部門!
(I編集長) だからあのベルトは、獲ったり獲り返されたりするベルトじゃ無いんですよ。猪木が貰ったベルトなんですよね、これ。だから試合に勝とうが負けようがですね、手放す必要が無いベルトなんです。当時、口さがない連中(人のことをあれこれ批判したり、無責任な発言をする人たち)は、「ほら見ろ、実力世界一ベルトと言ったって、ハク付けのために一旦巻いただけで返したじゃないか」と言ったんですね。だからあの試合の後、ゴッチがベルトを持って帰ったのかというと、そうじゃないんですよ。そのあとも猪木が持っていて、新日本プロレスの金庫の中に保管されていましたよ。
フランク・ゴッチ(週刊ファイト1967年10月1日号より)
(I編集長) この由緒あるベルトは古舘伊知郎さんがワールドプロレスリングの実況を辞めるときに、猪木から餞別というか、お礼に贈呈されたんですね。だからあのベルトは今、古舘さんが持っている筈ですよ。ホントを言うとあのベルトは、どんなことがあっても猪木が手放しちゃいけないベルトなんですよね。こういうことを言っちゃ古舘さんには悪いんだけれどもね。私だけじゃ無くて、猪木ファンの心の象徴と言いますか、古色蒼然(こしょくそうぜん)としたベルト、フランク・ゴッチが締めておったベルト、そしてそれをカール・クラウザー(カール・ゴッチ)が受け継いだ「真のベルト」なんですよ。単なるタイトルでも無ければ、チャンピオンシップでも無いんです。ゴッチに言わせれば、その後のテーズの世界ベルトなんてのは、後付けで作られた別物なんです。だからあの「実力世界一ベルト」はどんなことがあっても、猪木さんに持っておって欲しかったですね。10月10日の大阪府立のゴッチ戦は、そういった貴重なベルトを象徴にして闘われた試合なんです。その試合でまたもや猪木は負けるんですね。しかも、テレビカメラも回っていた試合ですよ。だから猪木は何を考えているんだろうと仰天しましたよ。訳のわからん連中は、「やっぱりベルトを返したんだな」と笑ってましたけどね。私はそこに、新日本プロレス、猪木のストロングスタイルのプロレスの未来を見たんですよ。さすが猪木だと。
1988年8月8日 古舘アナ、ワールドプロレス実況引退(TV放送画面より)
(I編集長) かつて私はプロレス記者を辞めようと思ったことがあるんです。日本プロレスから取材拒否を食らいましてね、取材拒否の第一号ですよ。詳しい話は以前このコーナーで話しましたけども、私は頑として日プロに謝りに行かなかったんですよ。殺されても謝らないという態度をしておったので、「お前、ブスッとやられるぞ」なんて言われたもんですよ。力道山が死んで2年目、まだまだヤバイ時代ですよ。ただし今の団体の名誉のために言いますけど、今だったらそういうことは絶対に無いですよ。でもあの当時は、ハッキリ言って危なかったんですよ。
▼[Fightドキュメンタリー劇場⑯] 井上義啓の喫茶店トーク
ハッキリ言えば取材拒否をくらった第一号は私(井上義啓)ですよ。
(I編集長) もうプロレス記者を辞めてしまおうと思っておった時に、豊登と猪木とが組んで東京プロレスを旗揚げしたんですよね。そして猪木は、ジョニー・バレンタインとホントの意味での壮絶なストロングスタイルの試合をやりました。ジョニー・バレンタインはエルボーしか出来ない選手で、ハッキリ言って木偶の坊ですよ。カール・ゴッチと同じようにプロモーターから嫌われていましたよ。しかし猪木がそれを見事に受け止めて、東京と大阪で凄い試合をやったんですよね。それを見ていた観客は「猪木、これなら大丈夫だぞ!」と応援しましたよ。
(I編集長)バレンタインとの試合には、それほど心筋を振るわされる新しい格闘技の風景があったんです。猪木がこういう試合を続けるのなら、これはプロレス記者を辞めるどころの騒ぎじゃ無いぞと思いましたね。それで私は懐に入れておった辞表の提出を思いとどまったんです。それが今日、ここに座ってこんな話をすることが出来ている私の源流ですよ。
あの試合が無かったら私はハッキリ言って辞めていましたよ。こんなことは言いたくないけども、そこまでしてプロレスを書く気はもう無かったですから。しかし東京プロレスは結局、大丈夫じゃ無くて倒産してしまったんですけどね。
(I編集長) そして時を経て昭和47年3月6日、大田区体育館での旗揚げ第一戦、そこで猪木がゴッチに負けてしまったんですよね。こーりゃ、ビックリしましたよ。ビックリしましたけども、ヤッパリ猪木だなと思いましたよ。この時私はあらためて「よしわかった、じゃあ、これから俺は猪木のプロレスを中心に筆を折ること無く、迷わずプロレス記者を続けよう」と決めたんです。
1972年3月6日 大田区体育館
▼ゴッチは、なんとあのジャイアント馬場さんと非常に密接な時期も
(I編集長) なぜ私が、旗揚げ当時の一連の猪木vs.ゴッチ戦とを良しとするのか。闘った二人は技術的にも凄かった、体力的にも凄かった。あの当時のゴッチは46歳とか47歳でしょ。それでも節制に節制を重ねた体は「ビシーッ」としていましたね。知らない人が見たら、32、3歳だと思いますよ。大袈裟じゃ無くてね。もうバリバリの現役だったんです。そのゴッチとの試合でエースの猪木が負けた二つの試合は、ホントの意味で掟破りでしょ。猪木がプロレス業界の掟を「バーン」と破って見せたんですよ。「俺のプロレスはこうなんだ、俺のストロングスタイルとは、こういう方向なんだ」とハッキリ示した試合だったんです。