[Fightドキュメンタリー劇場21]「インター王者・大木vs.挑戦者・猪木」 I編集長の韓国取材記

[週刊ファイト12月9日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

[Fightドキュメンタリー劇場21] 井上義啓の喫茶店トーク
▼「インター王者・大木vs.挑戦者・猪木」 I編集長の韓国取材記
 by Favorite Cafe 管理人



 今回のテーマは映像には残されていない「アントニオ猪木 vs. パク・ソンナン」の壮絶なセメントまがいの試合。パク・ソンナンの師匠は大木金太郎だったが、当時は両者は対立関係にあった。それが猪木vs.ソンナンが壮絶喧嘩マッチとなった遠因だったのだ。
 そして喫茶店トークは、I編集長が奮闘した猪木の韓国遠征取材記へと広がる。この韓国遠征・ソウル大会の試合は、インターナショナル・ヘビー級王者・大木金太郎、挑戦者・アントニオ猪木という構図だった。日本プロレス崩壊後の大木と猪木の確執と友情、二人は力道山の兄弟弟子であり、二人にしかわからない深い人間関係で結ばれていたのだった。

■ 闘いのワンダーランド#028(1997.01.13放送)「I編集長の喫茶店トーク」
1976.10.10 韓国奨忠体育館
アントニオ猪木vs.パク・ソンナン

(I編集長) 昭和51年の10月10日、ソウルの奨忠体育館というビッグな会場でおこなわれました猪木vs.パク・ソンナンのNWF世界ヘビー級に関連しました話をちょっと時間が長くなりますけど、お話させていただきたいと思います。

(I編集長) 猪木はこの試合の三日前、10月7日に蔵前国技館でアンドレ・ザ・ジャイアントとの格闘技決戦をやってるんですよ。だからソウルでのNWF世界戦、その日から三日しか経っていないんですね。それも調印式も何も無しに、いきなりのNWF世界戦だったので、ファンの方は「あれ?どういうことなんだ?」となったんです。NWF世界戦をやるという記事も流れてないし、「これは、全くエエかげんじゃないか!」と新日本プロレスにはお叱りの電話が入ったと思いますよ。ファイト編集部にも「どうなんだ、あれは」と苦情が舞い込みましたからね。まず、これについてお話をしなくちゃいけない。

1976.10.7蔵前国技館 アントニオ猪木vs.アンドレ・ザ・ジャイアント

(I編集長) そもそも最初にソウルでの試合を契約した時はノンタイトルだったんですよ。そりゃあ、そうでしょう、10月7日にハッキリ言えば「生きるか死ぬか」の大勝負をやったあとですからね。猪木はここで(アンドレ・ザ・ジャイアント戦で)どんな怪我をするかもわからないし、この三日後の試合は「受けることができない」と返事をしたらしいんです。しかし、パク・ソンナン側が「その時はその時でいい、一応仮契約だけしてください」という事で、決まったんですね。さらに前日の9日に「大邱(たいきゅう=テグ)体育館」というところで前夜祭を行うと。それで、翌10日に向けて盛り上げて、10日の試合に突入していくことになっていたんです。

(I編集長) 急な話でしたからね、我々マスコミも、飛行機のチケットを手に入れようと東奔西走したんです。結局チケットが手に入らなくて、私ども(週刊ファイト)は取材に行けませんでした。東スポさんは行ったようですね。だから東スポぐらいなもんでして、他は殆ど行っていないはずですよ。そういうことですから、猪木も10月9日に東京からのチケットが取れなかったんですよね。仕方ないから福岡経由の釜山行きの飛行機に乗って、列車で「ブスッ」とした顔で大邱に向かったというような経緯があったんです。

ソウル、大邱、釜山
列車で移動(イメージです)

(I編集長) それでも10月7日にはアンドレ戦が無事終了したことでもありますしね、まあ前夜祭なので、のんびり行こうと思っていたらしいですよ。ところが到着して驚いたのが、「今日は前夜祭じゃなくて特別試合でやってくれ」といきなり申し込まれたんですよ。猪木サイドは「話が違う。明日が試合の本番だ。今日は前夜祭と聞いているから、やっても軽い試合(エキシビション)だ」と言ったんですね。しかしそれでも、パク・ソンナン側は引き下がらなかったんです。「今日試合をしてもらわなくては困る」と。さらに「明日の試合はタイトルマッチにしてくれ」と言うんです。猪木は怒りましたよ。そりゃ、怒りますよ。そんなのね。

(I編集長) 契約した時はノンタイトルの試合で、それも「10月7日の試合結果の成り行きで、やるか、やらんかわかりませんよ」と、そういうことで受けた試合なんですよね。それが前日も試合をやってくれ、本番はタイトルマッチに変更してくれと、もうテレビ局が生中継で録る段取りになってるからと言ってきたんです。みなさんもお分かりだと思いますが、タイトルマッチとノンタイトルというのは、全く違うんですよ。猪木にすればNWF防衛戦であれば、当然タイトルマッチの覚悟で望みますし、ファイトマネーも違うんですね。

(I編集長) おまけに関係者の人達や、パク・ソンナンの後援者の人たちが控え室に押し寄せまして、そして事もあろうに「ここはパク・ソンナンの地元だから、猪木、負けてやってくれ」と持ちかけたんです。今だから話せることなんですけどもね。当然猪木は怒りましたわな。猪木は「そんなことは出来ない」と言って突っぱねたんですよ。タイトルマッチでもない試合をタイトルマッチにしろと言って、しかも負けろという訳ですからね。しかもテレビが、韓国のテレビが生中継でそれを映す、こんな馬鹿な話があるかということで、「カンカン」になって怒った訳ですよ。それで双方がやり合った結果、「じゃあ、ノールールマッチでやろう」となったんです。喧嘩プロレスですよね、そういう凄まじい話になってしまった訳ですよ。

▼『「ワールドプロレスリング」を創った男・第4章』書評の頁08.7.1kuriyama4.jpg
“大邸の悲劇”パク・ソンナンとのセメントまがいの闘いにも言及

『「ワールドプロレスリング」を創った男・第4章』書評の頁

(I編集長) だから初日の9日の試合から喧嘩腰ですよ。試合経過を調べてみますと、ゴングが鳴ると同時に猪木が「バーン」と飛び出していって、いきなり左で張り手を食らわしていますね。それ一発でパク・ソンナンが「ガクッ」と崩れ落ちてしまってるんですよ。ホントを言うと、それでもう勝負はついていたんですね。しかしそのあと、引き起こして色んな技で叩きつけましてですね、そしてストンピングの雨あられですよ。喧嘩プロレスですからね。それからナックルパートを何発も、叩き込んでおる。パク・ソンナンは、コリアン・アサシンと名乗って、アメリカで闘っておったレスラーなんですね。ですから、やっぱりアメリカンプロレスに慣れきっているレスラーなんですよ。喧嘩プロレスには非常に弱い。だから猪木のナックルパート、ストンピングなんかで、あっという間にやられてしまった訳ですよ。さらに、猪木はソンナンを引き起こしてバックドロップ二連発ですよ。「ガンガーン」と。そしてリング下に蹴落としてしまったんです。これが、大邱での凄まじいセメントマッチなんですよ。

パク・ソンナン戦は、二戦目のみ放送、DVD化もされた

(I編集長) 次の日はソウルへ移動しての二戦目ですよ。この日はテレビカメラが生中継で回っとるのに、メインイベントが始まっても、肝心のパク・ソンナンが出てこないんですよね。パク・ソンナン本人は「もう猪木とは試合なんか出来ない、あんな恐ろしい試合はゴメンだ」と試合放棄しようとしたんですね。これには関係者が困りましたよ。テレビ局はカメラを回してるし、NWF世界戦だと宣伝してるし、だから周囲はパク・ソンナンをさんざん説得したんです。どうしようも無いので、前日の大邱で猪木に「負けてやってくれ」と頼んだ連中が、もう一度猪木のところに来て「猪木さん、お願いだから昨日のような試合はしないでください」と頼んだんですね。そしたら猪木が「オレは好き好んでああいった試合をしたわけじゃない。行きがかり上そうなっただけだ。今日はスポーツライクに試合をやるよ」と返事をしたんです。それをパク・ソンナンに伝えて、説得してなだめすかして、やっと出てきて試合をやった、それがテレビで放送されたソウル奨忠体育館での試合なんですね。

ワールドプロレスリング放送録画より

(I編集長) 何でこうも「バタバタバタッ」と決まって、契約外のタイトルマッチなんかを申し込んだのか、これには理由がございます。当時の韓国プロレス界というのは、二つに分かれておりまして、片一方は大木金太郎、キム・イルソン、これが主流だったんです。それからもう一つ「大韓プロレス協会」というのがあったんですね。これが、パク・ソンナン派なんですよ。パク・ソンナンを仕立てて、大木を蹴落として韓国プロレス界を牛耳ろうとしたのが、大韓プロレス協会だったわけですね。しかしパク・ソンナンというのは、大木金太郎の弟子なんです。アメリカでコリアン・アサシンとして闘っておった時は、大木金太郎がプロモーターに働きかけて仕事を増やしてやったり、マッチメイクの便宜を図ったり、いろいろしてやってるんですよ。

(I編集長) それなのにパク・ソンナンがアメリカから韓国に帰って来た時には大木に挨拶も何も無い。大木金太郎にしてみれば「どうも有り難うございました」と挨拶するのが当たり前だろうという気持ちですね。ところが挨拶もしないどころか、アメリカでは大木の悪口ばっかし言って回っていたと伝わってきたんです。大木は人をけなしたりする人じゃないんですよ。それでも「パク・ソンナンは礼儀知らず、恩知らずだ」と罵ったのには、相当な怒りがあったんですよね、これ。

(I編集長) 1976年の10月5日、もし間違っていたら勘弁願いますが、10月5日は天龍が入団発表した日です。その次の日に大木金太郎が馬場のところに来て、キム・ドクとのタッグチームでインタータッグに挑戦させてくれと強引にねじ込んだんですよ。猪木vs.パク・ソンナンが急に決まりましたからね、それも猪木から勝ち星をもぎ取ろうとしているらしい。それを知った大木があわてて馬場にインタータッグの件を申し込んだといういきさつがあるんですよね。

(I編集長) 大木にとっては恩知らずの弟子であるパク・ソンナンが、よりによって猪木相手に勝ったという実績を作ろうとしている、それが分かった時点で大木も行動を起こしたんですね。ですから大木とパク・ソンナンの間はその時、もう完全に決裂してしまっていた訳ですよ。

(I編集長) 前年の1975年3月27日、ソウル奨忠体育館で大木のインターヘビー級選手権、大木金太郎に猪木が挑戦して引き分けた試合がありました。パク・ソンナンとしては、大木が引き分けた猪木に勝った実績を作りたかったんですね。それが本当の狙いだったんですよ。

日プロ崩壊後、インターナショナル・ヘビー級ベルトは大木に引き継がれた

(I編集長) ここからはアントニオ猪木と大木金太郎の話になりますが、私にすれば奨忠体育館となると、その「大木vs.猪木」のインターナショナル・ヘビー級戦が非常に印象深いんですね。これは私が取材に行きました。これ、取材に行きましたどころの騒ぎじゃないですよ。当時の取材費の関係、いろいろありまして、私がカメラをかついで、編集長自らですね、記者とカメラマン、編集長の一人三役で行ったんですよね。記事にできるちゃんとした写真を撮らなくちゃいけないから「これは弱ったなー」と思いましたね。試合前の控え室でも「ああ弱った、弱った」と思っておったんです。それでもまあ記者席に着きまして、メモ取りながら「どうでもいいや、写っていれば」と言う気持ちで、記者席からロープ越しにシャッターを押しましたよ。

(I編集長) ところが韓国の会場では、お客が何かやたらと物を投げるんですよ。で、べたーっと頬に何かひっつくんですよ。何だろうと思ってこうやって(手にとって)見ると、これ、キムチなんですよ。恐ろしいことに現地ではキムチを投げるんですよね。それがもう記者席に「ドワーッ」っと飛んで来ますからね。だからカメラマンも記者もキムチを払いながら、どう言ったかおわかりですか。「キムチわるい!」と言ったんですよね、これ。(笑い)みんな異口同音に言いましたよ、「キムチわるい」。

▼『最強の称号』昭和時代のベルトにまつわるエトセトラ

インター王座は大木金太郎。日プロは73年に崩壊、王座は『家なき子のタイトル』となった。

[ファイトクラブ]『最強の称号』昭和時代のベルトにまつわるエトセトラ

時には一人三役で海外取材に出かけたI編集長、カメラマンもやることに

(I編集長) しかし私はそれどころじゃなかったんですよね、これ。写真を写さなくちゃイケないから必死でしたよ。そして試合の流れで二人が足4の字の体制に入ったんですよ。その瞬間、私はこれは「ゴロゴロッ」と回転しながら、「ドーン」と(リング下に)落ちると、そして「両者リングアウトになる」と読んだんですね。

(I編集長) 38年の12月に大阪府立体育館で力道山とデストロイヤーとが壮絶な試合をやっとります。その時に足4の字をかけたまま「ドーン」と落ちてますわな。力道山の足がこんなに腫れ上がって、それで力道山は控え室に戻ってから、「どうだ、こんなに足が腫れ上がった」と記者に見せようとしたんですけども、腫れ上がっているのでタイツが脱げない。それで当時付き人だった猪木に「おい、ハサミを持って来い」と言って持って来させて、タイツを切って足を見せたんですよ。「これだけ腫れ上がっている。どうだ、凄いだろう。あいつの足4の字は伊達や酔狂じゃない、これだけ凄いんだ、どうだ見たか!」って言って非常に嬉しそうな顔をしてましたよ。力道山にはそういうところがありましたね。痛めつけられて「ああ痛い」ということよりも、プロレスがいかに凄いか、いかにデストロイヤーの足4の字が効くか、とにかく記者達に見せたかったんですよね。

(I編集長) それを思い出して、これは「ゴロゴロ」回転しながらリング下に落ちると思ったんです。どこに落ちるか。「あそこだ」と目安を付けたんですよ。それでカメラを持って記者席から「ドーッ」と飛び出して行って、キムチが投げられてくるのもなんのそのですよ、そのキムチの雨の中を走って行って、「ここだな」と思う位置に「バーン」とポジションを取りまして、逆光とかいろいろありますから、一生懸命ピントとか露出を合わせておったんですよね。みんな驚いたと思いますよ。何か知らんけど「バーン」と出てきたと思ったら、リング上の試合は全然写さずに、リング下のマットばかりを写しておるわけですね。「あいつはバカだとは知っておったけども、今度は何なんだ?」と、みんなそう思ったらしいですよ。普通はそう思いますわな。

力道山vs.ザ・デストロイヤー

で、こうやってピントも露出も決めて、逆光は大丈夫だなと待ったおったところが、案の定「グルグルッ」と回転しながら二人が「ドーン」と落ちてきたわけですよ。だからこうなってくるとカメラが下手くそなのも何も関係無いですね。ただシャッターを切ったらいいんですよ。しかも一番良い位置におるんですからね。どんぴしゃりの写真ですよ。

(I編集長) 帰ってからその写真が当然週刊ファイトに載りましたけども、もうみんなが「編集長、カメラは下手だと言ってましたけど、これ凄い写真じゃないですか」って褒めてくれましたよ。これにはそういった事情があったんですね。

「殺し – kamipro books」より

(I編集長) この試合でね、大木金太郎は本当言うと猪木に負けて欲しかったと思うんですよ。そんな八百長めいた話をね、正月早々からするのはどうかとも思いますけども。大木戦でソウルに遠征した時のことを猪木が言ってました。ホテルはもの凄い最高級の部屋だったらしいですね。そこにみんなが来てお土産もくれるし、いろんな話をしてきたらしいです。みんなの話を聞いておると、どうも口には出さないけども、これ、なんか花を持たせてやってくれと言うことじゃないかなぁ、と猪木はそう思ったらしいですね。

(I編集長) 当時は今と違いまして、ソウルの市内を歩いてみても日本人なんて皆目いないんですよね。耳に入ってくるのはもうみんな韓国の言葉だし、そこら辺にあるのは全部韓国の文字でしょ。他社の記者連中と一緒に街を歩きながら、「イライラするなぁ」なんて言っていましたよ。あるレストランに行って飯を食おうとした時に、私もくだんの記者連中も言葉が分かりませんからね、何を注文していいのかもわからないんですよ。それでなんか知らんけども、一番でっかく書いてある文字を指して「これにしようや、そうだな、これだこれだ」と言ったんです。そしたら店員は困ったような顔をして店の奥に入って行きましたよ。しばらくして日本語がわかる人を連れてきて、「お客さん、これ“火の用心”と書いてあるよ」と。

(I編集長) そういうくだらんことをやった話がね、あの時の取材ではたくさんございました。大木金太郎はその年の8月31日でしたか、交通事故に遭うんですよね。大木は助手席に座っとったんですけども、酒を飲んでましたからウトウトしとったわけですよ。そこに「ガーン」といかれまして。それでも、「やはりレスラーなんだな」と思いますね、瞬間的に顔をこう覆って、腕はもう血だらけになったけれども、顔は少しの傷で済んだと。そういうことがあったんですよ。

週刊ファイト1976年9月14日号

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