[ファイトクラブ]秘蔵写真で綴る浪速のアントニオ猪木#20(1969年12・2ドリーNWA戦)

日本プロレス興行㈱史上最高のメンバーが揃ったシリーズといっても過言ではない。
[週刊ファイト09月16日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼秘蔵写真で綴る浪速のアントニオ猪木#20(1969年12・2ドリーNWA戦)
 by 藤井敏之
・最終回巨編につき小見出し列挙の宣伝致しません、ただただ購入願います
・9月16日号収録が全長永久保存版、サイトは貴重写真点数を大幅簡略化


▼名勝負は永遠に アントニオ猪木vsドリー・ファンク・ジュニア

名勝負は永遠に アントニオ猪木vsドリー・ファンク・ジュニア

 1970年開催の日本万国博覧会を前に大阪の街は活気に満ち溢れていた。日本プロレス興行もBI砲の全盛期であってどの会場も満員マークがつく盛況ぶり、老若男女が会場で、テレビの前でプロレスという娯楽を大いに楽しんでいたのである。
 学校で先生に“猪木ピンチです”と言うとお手洗いに行ける時代である。(日本テレビの清水アナウンサーが、当時のBI砲の試合において猪木が負けそうになると「馬場出てきそう」とか、「馬場出てきました」とアナウンスされていたのを面白おかしく使用していたものです)。

 その年の2月、海の向こうからフロリダ州タンパのフォート・フォーマー・ヘスター・アーモリーの特設リングで、泣く子も黙るNWA世界王者のジン・キニスキーが、若干27歳の若者に負けたとのニュースがプロレスのテレビ中継で放映された。
 新王者の名前はドリー・ファンク・ジュニア。日本の雑誌における人気レーティングス、アメリカの雑誌を代表するレスリング・レビューのレーティングスにおいても、一切名前が上がっていない無名の選手であった。

 当時、第46代NWA世界王者ドリーの印象を聞かれた馬場は「自分がメインを張っていた頃、下のカードでやっていたドリー・ファンクの息子だろう。あれがキニスキーを倒したのか、昨年キニスキーと蔵前(昭和43年12月6日)で戦って勝っておいて良かったよ。今年中に新王者と戦いたい」とのコメント。一方の猪木は「テキサス時代に会っている、俺より1歳上の選手が天下を取ってくれた事で俺たちの時代が来たことを嬉しく思い、いつか挑戦したい」と。ただ後年においては「1964年に単身アメリカに渡り、2年間武者修行をしたサーキット・エリアで彼の試合も噂も聞いた事が無い」とも語っている。真実はどちらか定かでは無いが、65年頃、猪木はテキサス地区をサーキットしていた事実はある。
 当時のプロレスファンにとってはドリー・ファンク・ジュニアの雄姿はモノクロ写真でしか紹介されないもどかしさもあり、早くその姿を見てみたい衝動に駆られる日々。そんな中、日本プロレスの年末特別興行にドリー・ファンク・ジュニアとその父親のシニアの来日が決定した。

    狩猟服のヒラヒラが妙にカッコ良い  モノクロ写真は眺めることができたが・・

 海外から伝わる情報では見た目からひ弱な感じのする過保護な王者で、どのテリトリーでも二流レスラー相手に綱渡り防衛戦を行っているような情報しか日本には入ってこない。しかし、実際は父であるドリー・ファンク・シニアの英才教育の元、レスリングの基礎を学びNWA世界王者になってからは全米を駆け回りその土地のトップレスラーと対戦しながら、日々成長していたのである。

 ざっと見てみても1969年2月27日デンバーでジン・キニスキー、3月10日セントルイスでディック・マードック、4月16日ラボックでハーリー・レイス、5月30日セントジョセフでパット・オコーナー、6月20日アトランタでルー・テーズ、7月7日カルガリーでビル・ロビンソン、8月27日ホノルルでカーティス・イヤウケア、9月19日ヒューストンでジョニー・バレンタイン、10月3日ロサンゼルスでザ・シーク、11月21日ロサンゼルスでミル・マスカラスという当時の大物たちと対戦。
 実際ロサンゼルスで対戦、前シリーズ日本に来日したザ・デストロイヤーは「体や顔のみてくれよりグッと執ようなファイトをする奴、馬場なら互角だが猪木なら術中にはまりそうだ」とコメント。バディ・オースチンは「最近3人と対戦した上で馬場の方が実力で上、猪木とは互角」、直近の対戦者ミル・マスカラスは「天下のNWA王者を甘く見ると馬場も猪木も左足が使えなくなるぞ」と。そして前NWA王者であったジン・キニスキーは、「一言、馬場に忠告したいことは彼の実力を軽視するな」と評する興味深い記事がある。

 そして来日間近になると各専門誌にドリーのカラー写真が載り始めた。週刊ファイト誌にはドリーの得意技スピニング・トー・ホールドの写真、そしてゴング誌には紅色の狩猟服を着て腰にNWAベルトを巻いたクールなドリーの写真が掲載され、そのカッコよさを見て一目でファンになってしまった。

 いよいよドリー父子が1969年11月26日、羽田空港にそれぞれの婦人同伴で日本の地に立った。マスコミから日々伝わってくるニュースによると翌27日、ドリーはジミー夫人、父親であるシニアとベティ夫人を揃ってホテルでにぎやかにショッピングをしたりして、8ミリカメラを回しながらの観光気分を楽しんでいるとのレポートが伝わる。日本に入る前のロスのマスカラスとの世界戦前もサンタモニカの海岸でリラックスムードを満喫していたという。
 しかしその裏では、日本到着の翌朝、早朝七時にトレーニング姿に着替えたファンク父子はホテル・ニュージャパンから弁慶橋を渡り、上智大学の裏土手をロードワークしていたのである。
 さらに注目すべきは、報道人が必ず必殺技を関係者相手に「技の型だけでも写真撮影用に見せて欲しい」と、空港の特別記者会見室や滞在ホテルの自室内でリクエストに応じるレスラーが大半であったのだが、ファンク一家伝統の必殺技であるスピニング・トー・ホールドに関しては頑固なまでに拒否した。シニアがドリー(シニアは相性のダンクと呼ぶ)に殺人技の公開に関するものはタブーとして禁じていたからだ。ついに実戦まで、その秘技をファンは拝むことができなかったのである。

 ただ動く映像として唯一、日本テレビで放映されたドリーが王者キニスキーを破り第46代NWA世界王者に輝いた時の決め技がそのスピニング・トー・ホールドであり、日本のファンはある程度その技が円を描くように動きながら足を攻めるというイメージがあったが、それほど怖い決め技のようには見えなかった。

 シニアの「どんな相手からでも長所なり得意技を徹底的に研究して盗め」という助言にドリーは従い、ファンク一家の伝家の宝刀に甘んじることなく、7月のカルガリーでのビル・ロビンソンとの引き分け試合において習得したヨーロッパ流の数々の秘技、全体重を首に落とすネック・ブリーカー、中でもスープレックスは既に自己流に改良して、さる8月のデストロイヤー戦で試運転している。
 その他バック・ドロップはルー・テーズ、コブラツイストはジェリー・コザックから。アトミック・ドロップはルーク・グラハムと、その他多くの選手から技を盗み取り、自分の体にあったものを使用するという向上心に満ち溢れた、まだまだ進行形テクニシャンであったのだ。
 半面9月5日のロスにおけるザ・シーク戦で見せた、シークのボールペン攻撃に対して額から大流血しながらも、ボールペンを奪い取り悪玉シークを血祭にあげたような情報も海外から伝わり、テクニック、ラフ良しのオールラウンドなチャンピオンである事も徐々に明白になってきたのだ。

  ドリーの来日追跡レポートをする新聞一面    日本プロレス時代の秀作ポスター  

 11月28日、遂に東京・蔵前国技館のリング上に白面の貴公子ことドリーがそのベールを脱ぐ時が来た。匂うような若さ、最強の男として誰もがイメージするものとは180度違うそのたたずまい。ごつごつしたプロレスラーのイメージは全く無く、父シニアの英才教育を受けたエリート・レスラーの登場に時代が変わりつつあるのを感じるようである。この夜は同じくNWAジュニア・ヘビー級世界チャンピオンであるダニー・ホッジとの超豪華タッグであった。
 試合は日本マット経験者であるホッジのリードの元、日本が誇るBI砲(馬場&猪木)の持つインター・ナショナル・タッグ王座に挑戦。四強の戦いは想像以上の大死闘。馬場の大技や体力にも猪木の秘技やスピリットにも全く引けをとらないドリーの姿をテレビで見て、NWA世界王者の権威とその実力をまざまざと感じたものだ。

 この一戦によりドリーに対する見方はレスラー、関係者、マスコミ、ファンにおいても覆され、その実力を認めることとなる。猪木と馬場が連続でドリーにアタックすれば、NWAチャンピオン・ベルトを日本レスラーの腰に安易に巻けるものだという考えは吹っ飛んでしまったのである。
 さらに不幸な事に、この試合において4日後にNWA世界王者に初挑戦する猪木が、ダニー・ホッジとの凄まじいパンチの応酬の最中に、左手中指を骨折してしまうというハンデイを抱えることにもなる。

 指が折れているのに無茶だ! 今度の世界挑戦は辞退したらという見解もあったが、猪木は例え指の1本、2本折れてもせっかく掴んだこのチャンスは逃したくないと決意、決戦の日を待った。
 当初は馬場が東京においてドリーのNWA世界王者に挑戦する事だけが決まっていたが、猪木のゴリ押しで大阪での猪木の挑戦が決まった。その背景には馬場の世界戦を中継する日本テレビに対して、NETテレビは年末の紅白歌合戦の対抗として、このドリーと猪木の世界戦の放映を持っていきたいという希望があった事も猪木を後押したのである。

 猪木にとって初めてのNWA世界王座挑戦において、王者にでもなれば翌日は最大のライバルである馬場とも対戦できるという、長年の夢がかなう最高の2日間となった。
 ただ猪木は、どうしても馬場の世界王座挑戦の話題を優先する関係者、マスコミに対し「俺は馬場のポリスマンではない、馬場の資料を作るために戦うんじゃない」と断言した言葉には、大エールを送ったものだ。
※編集部注:実際その様に言ったのかもしれないが、当時としては隠語なので「露払いではない!」というニュアンスなのかも。

 大阪での猪木の挑戦が決まると、猪木ファンは大歓迎した。すでにファンは特に浪速のファン(何故か東京と比較されどうしても第二の都市に大阪は甘んじている為か、リング上においてもNo.2の猪木を応援したいという地域性もあったのは確かです。)は、馬場プロレスより現代的な猪木プロレスに肩入れしていたのはひしひしと伝わってきていた頃、そんな中でのビッグニュースは浪速のファンにとって最高のクリスマス・プレゼントとなった。

    東京・大阪でのNWA世界戦のチケット 猪木はリングサイドに恋人“倍賞美津子”さんを招待
                     
 とにかく当時の難波の高島屋から大阪球場前を通り、ホテル南海を右横に見る歩道は人、人、人で溢れかえっていた、ダフ屋も当時は取り締まりが厳しく無く、堂々と通路を流れるお客に声をかける。大阪府立体育館前は押すな押すなと当日券を求める人で一杯だ。ほんとこの頃のプロレス人気は凄く、子供が行くには危険な状態であった。
 実際この日は昭和32年10月13日、大阪・扇町プールでルー・テーズに故・力道山が挑戦して以来、12年1ヵ月18日ぶりの世界戦ということで、前売り券7千枚が三日前に売り切れ、当日券も発売と同時に売り切れて、試合開始時刻には約千人のファンが会場前に溢れ、世界戦を見損ねてガックリしたものの、その場の臨場感だけでも体感したいと体育館前から去らないでいた。

 館内は立錐の余地もないほどの観客で埋まっていた。
 初めてプロレスを見に来た空気を感じさせる古めかしく匂ってきそうな満員の体育館内、こんな昭和の体育館がより当時はプロレスの雰囲気を盛り上げていたのだと思う。

             NWAシリーズのパンフレット 大阪のカード  東京のカード

 今でも耳から離れない、「12年ぶりに大阪で行われるNWA世界戦のパンフレット、観戦にお家のお土産にどうぞ」というパンフレット売りの田中さんの大きなダミ声と、速射砲のように当日のカードをスタンプでパンフレットに打ち込まれる風景がさらに決戦を盛り立てる。
 
         馬場と吉村の大阪入りの貴重写真     
         外人側控室の様子
         ダニー・ホッジのスペシャルサイン          
               控室でくつろぐNWA王者

 さて、挑戦者猪木は12月1日(広島)において、早朝6時に起きると軽いロードワークを宿舎の周りでやり、午前9時広島発(午後2時大阪着)の「特急しおじ二号」で大阪入り。宿舎の新大阪ホテルに落ち着くと軽くチキンサラダ一皿の昼食をとり、ベッドイン。午後5時までぐっすり睡眠をとって5時30分、知り合いの病院で左手を治療して会場入り。午後7時30分、左手に麻酔注射、右手にアリナミンを打って試合に備える。片や王者ドリーもさすが日本で最初のNWAタイトルマッチを控え、ホテルで軽く魚のフライと生野菜とミルクという軽食後は夕刻まで自室で睡眠した。

 そして待ちに待ったNWA世界戦は今でも猪木さんのベストバウトとして語られ、ありがたいことに映像まで残っているのである。ただ、何度も何度も見直すがあの日の臨場感、お客の興奮度が映像からは伝わらないのは残念である。
 初めて見るカウント2.9の応酬、これまでのプロレスの概念を崩す近代プロレスへの移行となるエポックメイキング的な歴史的試合、カウントが入る度にリングサイドのお客が興奮して立つと、後ろのお客も見えないので数珠繋ぎのように後部の観客も立ち上がる。最後は立見席の観客まで背伸びをすると同時に、2階のお客もそれに連れられ最前列の客が立ちあがると、同じように最後部までつながれてゆく。
 そして2.9でレフェリーがカウントを止める都度に、今度は2階席からリングサイドまで自然に波が戻ってくる光景をこの日初めて体感し、スリリングな近代プロレスの夜明けに感動しまくった。本当に60分間動きまわる二人のアスリートの手のひらに、観客もいつしか乗せられる事になり興奮しまくり。時間切れ引き分けに終わった時は、席を立つのもしんどいほどの心地よい疲れが体を覆った。

 ファンがこれほど興奮したのは、当時のNWA世界王座は馬場の保持するインター・ナショナル・ヘビー級王座より価値があることを理解し、NWAというロゴも黄金色に光輝いていた時代であったからである。
 先般、ストロングスタイルプロレスとワールド女子プロレス・ディアナの業務提携記者会見において新間寿氏が、「最近のプロレスにおいてレフェリーも結託したカウント2.9のような試合は昭和プロレスには無かった。」という発言には大いに同調する。

         12年ぶり大阪でのNWA世界戦がスタート   

         コーナーでのドリーの雄姿、カッコよかった

         
左手に力さえ入れば・・・・        
         王座奪取は成らなかったが充実感で一杯の猪木

         翌日、大阪でのNWA世界戦を報道した新聞

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