photo by George Napolitano
現地12月2日、長年試合作り担当の幹部にして、WWE重鎮を務めてきたパット・パターソンの訃報が飛び込んできた。79歳だった。
Pat Patterson was more than the first Intercontinental Champion & father of the Royal Rumble Match. He helped lay the foundation for WWE as we know it. His mentorship shaped careers, his creativity sparked innovation and his friendship lifted spirits. Love you, Pat. We miss you. pic.twitter.com/TugpAOrN6O
— Vince McMahon (@VinceMcMahon) December 2, 2020
1941年カナダはケベック州モントリオール生まれ。本名はピエール・クレモント、つまりフレンチ・カナディアンである。選手として広く知られるようになったのはサンフランシスコ地区での職人コンビ、レイ・スティーブンスと組んだブロンド・ボンバーズから。本誌記者たちはカウ・パレスやオークランド・コロシアムでの技巧派ぶりを目の当たりにしている。
エディ・グラハムのCWF(チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)や、バーン・ガニアのAWAでも活躍。1978年からは旧WWFに合流を果たし、ブラジルのリオで行われたとする架空のトーナメントに優勝したことにして、いわゆる二番手王座であるインターコンチネンタル初代王者として、記録上も未だそうなっている。ただ、この頃から本人が王者であるナシに関わらず、ICベルトをどう回していくかなど裏方の才能が開花して、以降は試合作りの天才としてブッカー(現場監督)職でWWFの全国展開に多大なる貢献をしていくことになる。
インターコンチとは大陸間の意味であり、とりあえず最初に獲得したのが北米ヘビー級王座だった手前、北米、南米を統一した最高位のタイトルなんだと主張。このローカルテリトリー時代の毎月のMSG定期戦は、うまくいけば3度連続WWE世界王者に挑戦という抗争プログラムに回していくことが一流ヒールの証明である。その1979年には7月、8月、9月とボブ・バックランドとの「王者対王者」抗争をMSG定期戦だけでなく、ニューヨークから北上してのボストン・ガーデン、さらに南下してのフィラデルフィア、ワシントンDCでも延々と同じカードで引っ張っていたのだから凄いこと。間隔おいてMSG定期戦では4度目もメインを務めた。インターネットも携帯電話もなく、情報っても当時の米国雑誌は2ヶ月前の試合結果がようやく収録みたいなサイクルだったから成立したのだが、冗談でもなんでもなく、現地通信員のいる週刊ファイトが世界で常にもっとも早くWWFの試合結果や最新情勢を報道していた。
1980年からマネージャーでラジオDJのグラン・ウィザードと仲間割れ(キャプテン・ルー・アルバノに契約書を$100,000で売却)してベビー・フェイスに転向。わかる人にはわかる”プリティ・ボーイ”のギミックとなり、1981年にはサージェント・スローターとの長い、長い抗争でも知られた。WWFの全米侵略に伴い現役は引退。裏方の幹部として現場の試合作りを仕切るようになり、全米進軍の陣頭指揮を担うことになる。
日本遠征での一コマより。
とにかくアイデアマンであり、1988年から今も開催されている『ロイヤルランブル』形式の発案者なのだ。但しこれはサンフランシスコのプロモーター=ロイ・シャイアーがカウ・パレスで賞金争奪を掲げて創めたのをアレンジしたというのがより正確な歴史認識になろう。ただ、旧WCWとの「月曜生TV戦争」においては、番組上は”三バカ大将”としてビンス・マクマホン、ジェリー・ブリスコとズッコケ幹部三人組を演じていたが、視聴率競争においてWCWのリードを許していたのに、最後は逆転した功績は計り知れない。そのアティテュード路線の時代には、ジョン・シナら若手選手の売り出しにも多大な貢献をしてきた。ロック様を最初に採用したのもパターソンである。
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2019年の『1365回目RAWリユニオン』では、悪名高き24/7王座のベルトも数秒だけ巻いている。ジジイ、元気やなぁと思ったものだが・・・。なにしろ、これまたそこまで知っている記者がいないのかもだが、ハードコアを名乗り「いつでも、どこでも」を最初に自称してクラッシュ・ホーリーをフォールしたのはパターソンなのである。だから記録上、24/7王者にもなったことは原点回帰なのだった。
(c) George Napolitao
1980年8・9『SHOWDOWN at Shea』での大巨人アンドレと。左後ろにはアントニオ猪木。
(c) タダシ☆タナカ
シェイ・スタジアム一塁側ベンチのパット&ルイー・ダンデロ、のちの女子王者スーザン・セクストン、大巨人アンドレとドン・デヌーチ(後ろ姿)
当時は私生活のパートナーで税理士のルイー・ダンデロはいつもくっついていた。この時代は今のような「団体所属制」ではなく、パットは同年8月、AWAのオークランド・コロシアム大会にも出場しており記者は両方取材している。つまり、西海岸と東海岸を往復しながら、WWFの各拠点もサーキットしていたのだから、引っ張りだこだったことになろう。
現場記者を含む内部者はわかっていたことで、「お前も掘られる」とかの内輪ジョークも頻繁に交わされていたが、ゲイを公式にカミングアウトしたのは2014年のWWEネットワーク『Legends’ House』シーズン1最終回だ。現役当時のWWF番組では、パット・パターソンがポーランドのポルカ(民謡)を唄って、怪力男イワン・プトスキー(現地読みはアイヴァン)をからかうのが定番だったし、美声でも知られる。その『Legends’ House』では十八番の♪My Wayを熱唱していた。
2016年には自叙伝”Accepted: How the First Gay Superstar Changed WWE”を出版している。とうに時代は追いついて、ゲイは問題にされなくなっていた。ただ、オモテの媒体には触れてないが、リングボーイを”いじった”件で訴訟になったり、複数の不名誉な告発にさらされ、ほとぼりが冷めるまで姿を消したことも数度あった。いずれにせよ、最後までMy Wayを貫いたことは間違いない。合掌。
キラー・カーンvs.トニー・アトラスの3度目決着戦はレフェリーが2名!ゴリラ・モンスーン(左)とパット・パターソン(右)が務めた。MSG定期戦より。
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