『タッグの全日本』の礎を築いたジャイアント馬場の名パートナー

 日本のプロレス界で、最大のライバルと言えばジャイアント馬場とアントニオ猪木で決まりだろう。2人が力道山存命中の日本プロレスに入門したのは1960年。馬場が5歳年上で元プロ野球選手、猪木はブラジル在住という、年齢も境遇も全く違う2人が、ほぼ同時期にプロレスの門を叩いたというのは、後の運命を示唆しているようにも思える。
 そんな2人の性格は正反対、プロレス観も全く異なっていた。力道山の死後、日本のプロレス史上最強タッグ・チームと言われるジャイアント馬場&アントニオ猪木の『BI砲』が結成されたが、2人は袂を分かつ。これも自然の成り行きだったのかも知れない。

 プロレス観の違いとして、如実に表れているのがタッグの扱い方だろう。猪木はシングル・マッチ中心で、もちろんタッグ・マッチも行っていたが、シングルよりも格下という感じだった。
 猪木のタッグ・パートナーと言えば、新日本プロレス設立以降では坂口征二との『ゴールデン・コンビ』、藤波辰巳(現:辰爾)との『ニュー・ゴールデン・コンビ』、他にはボブ・バックランドやハルク・ホーガンのようなWWF(現:WWE)のスター外国人選手とのコンビもあったが、いずれも長続きしなかった。

 それに対して、ジャイアント馬場はシングルだけではなくタッグでも存在感を発揮する。暮れの世界最強タッグ決定リーグ戦を見ても判るように、タッグ・マッチは全日本プロレスの看板だ。
 そんなジャイアント馬場の名パートナーたちを見てみよう。


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▼山本ヤマモ雅俊のジャイアント馬場没20年追善興行「ヤマモ式」リポート

[ファイトクラブ]山本ヤマモ雅俊のジャイアント馬場没20年追善興行「ヤマモ式」リポート

タッグ・チーム名『○○砲』の草分け的存在、豊登&馬場のTB砲

 先ほど『力道山の死後、BI砲が結成された』と書いたが、これはあまり正しい表現ではない。力道山が死んだ頃、猪木はまだ一介の若手レスラーに過ぎなかったからだ。したがって、BI砲を組む前にワンクッションがある。

 1963年12月に力道山が亡くなって、日本プロレスのエースとなったのは『怪力無双』豊登道春だった。その豊登とタッグを組んだのが、次期エース候補のジャイアント馬場である。
 豊登&馬場(当然、この時点では豊登が前に来る)のコンビは『TB砲』と呼ばれた。つまり『○○砲』のルーツは、BI砲ではなくTB砲だったのである。

 もっとも、元々はプロ野球の読売ジャイアンツの三、四番コンビ、王貞治&長嶋茂雄の『ON砲』が由来だ。その後、プロレス界では天龍源一郎&阿修羅・原の『龍原砲』や天龍&スタン・ハンセンの『龍艦砲』、ジャンボ鶴田&田上明の『鶴明砲』などがあったが、いずれも日本テレビ系。巨人戦中継でお馴染みの日テレは、よほど『○○砲』が好きなのだろう。

 先輩の豊登とタッグを組むことになった馬場だが、力道山と組むよりも遥かに楽だったという。力道山は師匠であり雲の上の存在だったが、豊登は気心の知れた兄弟子。
 しかも、アメリカでの実績は馬場の方が上だったので、豊登に対して臆することはなかった。

 だが、1965年にTB砲は解消される。ギャンブル好きの豊登が、日本プロレス社長の座を追われ、日プロを退団したからである。

▼ジャイアント馬場と豊登の『TB砲』

▼井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第68回 長嶋や王と同じくらい有名なのにスター意識のカケラもなかった豊登

[ファイトクラブ]井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第68回 長嶋や王と同じくらい有名なのにスター意識のカケラもなかった豊登

『タッグの全日本プロレス』の元となったBI砲

 日本プロレスを退団した豊登は、1966年に新団体の東京プロレスを設立。その際にエース兼社長として白羽の矢を立てたのが若手のホープ、アントニオ猪木だった。しかし東プロは間もなく崩壊、豊登は国際プロレスに入団し、猪木は日本プロレスに復帰する。1967年のことだ。
 こうして、日プロのエースのジャイアント馬場と、東プロのエースだったアントニオ猪木が合体して生まれたのがBI砲である。

 BI砲人気は力道山時代をしのぐほどになり、日本プロレスの中継は日本テレビに加えて、NET(現:テレビ朝日)も行うようになった。1つのプロレス団体を2つのテレビ局がゴールデン・タイムで定期放送するという、今から見れば夢のような時代だったのである。
 もっとも、馬場の試合は日テレの独占中継だったので、NETはBI砲の試合は放送できなかったのだが、それ故にNETは猪木をエースとして売り出したため、猪木人気が上がるという効果もあったのだ。

 しかし、そのおかげで日プロ内に馬場派(日テレ派)と猪木派(NET派)という二大派閥が出来て、団体の屋台骨が揺らいでしまう。さらに、2局から放映権料が入ったことにより、放漫経営が目立つようになった。

 そして、猪木はクーデターを企てたとして永久追放、1972年3月に新日本プロレスを設立する。猪木というエースを失って困っていたNETに対し、日プロは馬場の試合を売ったため日テレが激怒、日プロ中継を打ち切ってしまった。そして日テレは馬場に独立を勧め、同年10月に全日本プロレスを旗揚げする。
 馬場と猪木を失った日プロは崩壊への道を辿り、馬場と猪木の完全な対立時代となった。

 だが、BI砲が日本のプロレス・ファンに、タッグ・マッチの面白さを伝えたのは事実だろう。そして皮肉なことに、全日本プロレスにとって最大の敵となった猪木が、『タッグの全日本プロレス』の元となったのだ。

『柔道王』に対する、馬場と猪木の扱いの違い

 全日本プロレスを設立した馬場だったが、日本人選手が5人しかいないのが泣き所だった。そこで、ライバル団体の国際プロレスから、サンダー杉山をトレードしてもらう。全日創設当初は、国プロとの関係は良好だった。
 それでも、馬場に見合う日本人のタッグ・パートナーがいない。

 そして翌年、馬場とタッグを組んだのはなんと『柔道王』アントン・ヘーシンク。BI砲が空中分解しても、馬場はまた『アントン』とタッグを組むことになったわけだ。
 何しろヘーシンクは、東京オリンピックの柔道無差別級で金メダルを獲得。日本での知名度も抜群で、全日の黎明期としては最高の人材だった。

 しかし、他の格闘技で頂点を極めた選手がプロレスラーに転向すると、どこかプロレスをナメているもの。ヘーシンクも例外ではなく、プロレスを覚える気はなかった。
 ヘーシンクと契約したのは、全日本プロレスではなく日本テレビ。いわば、視聴率稼ぎの客寄せパンダだったのだ。ヘーシンクの場合は、迷パートナーと書くべきだろう。

▼プロレス・デビュー戦でジャイアント馬場とタッグを組むアントン・ヘーシンク

 また、ヘーシンクをタッグ・パートナーにしたというのも、馬場と猪木の違いをよく表している。猪木も、同じオリンピック柔道無差別級金メダリストのウィリエム・ルスカをプロレス界に引っ張ってきたが、プロレス・デビュー戦は猪木との一騎打ち。しかも異種格闘技戦だ。
 同じ柔道の金メダリストでも、馬場はパートナーにして猪木は闘うという、まさしく好対照と言えよう。

▼ウィリエム・ルスカ

 ジャイアント馬場の、外国人選手とのタッグでは、ザ・デストロイヤーも忘れられない。こちらの方は、デストロイヤーが馬場に負けたら、日本陣営に入るというもの。そして予定通り(?)デストロイヤーは1973年から全日本プロレス入りして、馬場とタッグを組むようになった。

 デストロイヤーの場合は、馬場とのタッグ云々よりも、全日入りしたことにより日本で芸能活動をするようになったことが大きいだろう。日テレの人気番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』にレギュラー出演するようになったデストロイヤーは、そのコミカルなキャラクターがウケて人気者となった。
 そのかわり、力道山と抗争を繰り広げていた頃の殺気はなくなったが、プロレスを茶の間に広めたことは間違いない。

▼ジャイアント馬場とザ・デストロイヤーのタッグ・チーム

馬場にとって第一線における最後のパートナー、ジャンボ鶴田

 設立当初は日本人選手が不足していたとはいえ、その時に早くも次期エース候補が全日本プロレスに“就職”した。レスリングでオリンピックに出場した鶴田友美、後のジャンボ鶴田である。
 テキサス州アマリロのザ・ファンクスの元で修業を積んだ鶴田は帰国し、入門から1年後に早くもジャイアント馬場とタッグを組んだ。しかも、相手は師匠のザ・ファンクス。
 ここで鶴田はなんと、3本勝負の1本とはいえ、テリー・ファンクからジャーマン・スープレックス・ホールドでピンフォールを奪った。この時点で鶴田の次期エースは決まったようなものだ。

 あっという間に全日本プロレス№2となった鶴田は、馬場との『師弟コンビ』で一流レスラーへの階段を順調に登って行く。プロレスラーには珍しい、下積みを知らない選手だ。
 馬場とのコンビでは、インター・タッグ王座が代名詞となった。次から次へと来日する、全日ご自慢の豪華外国人に対し、馬場と鶴田が迎え撃つという形である。

▼ジャイアント馬場の16文とジャンボ鶴田の15文とのダブル・キック

 ただ、当時の鶴田は知名度の割には人気がなかった。苦労知らずでトップまで上り詰めたために、ファンの共感を得られなかったのである。『善戦マン』という有り難くないニックネームも、試合での緊張感の無さから付けられたのだろう。鶴田人気が爆発するのはもっと後、天龍源一郎や三沢光晴らに対して『怖いジャンボ』を見せ付けるようになってからだ。
 この頃、タッグ・チームとして人気があったのは、外国人コンビのザ・ファンクスだった。兄弟愛というストーリーと、特に弟テリーの激情的なファイトが大人気となったのである。

 その後、馬場は会長職に退き、日テレから出向してきた松根光雄氏が全日本プロレスの社長に就任すると、馬場はタイトル戦線から離脱するようになった。そして、鶴田のパートナーは天龍源一郎となり、『鶴龍コンビ』で売り出そうとする。
 つまり、この時に馬場&鶴田の『師弟コンビ』は事実上の解消、馬場にとって鶴田が第一線における最後のパートナーとなったのである。

 その後の馬場は、アンドレ・ザ・ジャイアントやスタン・ハンセンなどの外国人とタッグを組むことが多くなった。さらに前座として、ファミリー軍団でラッシャー木村との『義兄弟コンビ』が大人気を博したのである。
 晩年の馬場は、タッグ・マッチでプロレス余生を送った。

 そんな馬場にとって、生涯最高のタッグ・パートナーは? おそらく馬場は、吉村道明と答えるだろう。
 生前の馬場は「もう一度タッグを組みたいのは吉村さん」と語っていた。

▼吉村道明(左)と徳光和夫アナ(右)


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’20年04月23日号コロナ見えざる殺人者との闘い 後味WM生WWE解雇 金曜夜8時 豊登 MasF