[ファイトクラブ]井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第68回 長嶋や王と同じくらい有名なのにスター意識のカケラもなかった豊登

[週刊ファイト4月23日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第68回
 長嶋や王と同じくらい有名なのにスター意識のカケラもなかった豊登
・昭和30年代の豊登は、力道山とともに「最も有名なプロレスラー」の1人
・1番可愛がっていた猪木とタモトを分かつ
・プロレス・マスコミの中に豊登派の記者は多かった
・読売新聞の全国版ページに彼の追悼記事が大きく掲載



グレート草津、サンダー杉山と共に句刊紙時代の『ファイト』の表紙を飾った豊登

 米マットの超スーパースター、ブルーノ・サンマルチノが日本プロレスに初来日した1967年3月に創刊された『ファイト』(当時は旬刊)。その翌年から69年にかけて日プロの大エース、ジャイアント馬場と同じくらい同紙の表紙を飾ったのは当時、国際プロレスに助っ人参戦していた豊登だった。I編集長(井上義啓氏)が豊登を選んだ理由はG・馬場にヒケを取らない知名度と、誰からも愛される人柄である。

 昭和30年代の豊登は、力道山とともに「最も有名なプロレスラー」の1人だった。

 彼の知名度の高さは、読売巨人軍の長嶋茂雄や王貞治と同じくらいで日本国民の誰もが少なくとも名前と顔は知っていた。

 力道山没後、日本プロレスのエース兼社長に。その知名度と権力を活用すればいろんなことができたはずだが、豊登には金銭欲も名誉欲もなかった。

 豊登が夢中になったのは競馬をはじめとするギャンブルのみ。会社の経営やプロレスについてもほとんど考えていなかった。


64年12・4東京でのWWA世界ヘビー級王座挑戦でデストロイヤーに勝利した豊登

 豊登にとってプロレスはギャンブルの資金源。完全なギャンブル依存症である。結果、社長の立場を利用して会社の金を使い込み、社長就任から2年足らずで日プロを退社する羽目となった。

 日プロ退社の翌年(66年)、豊登は2年に渡る米マット武者修行を終えたアントニオ猪木を口説き落として東京プロレスを旗揚げ。

 だが、同団体においても彼は金銭トラブルを起こし力道山在命中から1番可愛がっていた猪木とタモトを分かつ。

 どのような金銭トラブルかと言えば、豊登が東京プロ設立にあたってかき集めた金の負債が社長に祭り上げられた猪木に重くのしかかってきたこと。さらに地方プロモーターから前払いされた興行ギャラの一部を豊登が競馬につぎ込んでいたのだ。

「トヨさんとは絶縁だ」(猪木談話)。当然である。ところが、猪木は絶縁宣言から6年後の72年、新間寿氏の仲介により豊登と和解。「新日本プロレスにテレビが付くまで」という期限付きながら豊登を1年間、新日マットに上げている。

 一般常識からするとあり得ない両者の和解について当時、I編集長はこう“解説”していた。


東京プロレスでアントニオ猪木にインタビューするI編集長

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