[週刊ファイト1月2-9日合併号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼プロレス界にも実在した! 日本人レスラー体重別ランキング
by 安威川敏樹
・プロレス界では曖昧な体重別の階級制度
・実はセメント・マッチだった!? ウェイト別日本選手権
・ガチンコでも強かったジョー樋口
・後の日本プロレスと国際プロレスの社長対決があったライト・ヘビー級
・ジュニア・ヘビー級1位は、カール・ゴッチにフォール勝ちしたテクニシャン
・力道山が出場しなかったヘビー級は、元横綱の東富士が1位
・上位は日本プロレス勢がほぼ独占、力道山の日本マット制圧成る
・日本プロレスしか認可しなくなったコミッショナーは有名無実に
・新日本プロレスと国際プロレス推戴のコミッショナーをジャイアント馬場は拒否
・三沢光晴が統一コミッション設立を目指してGPWAを発足させたが……
11月2日、プロレスリング・ノアの東京・両国国技館大会でGHCヘビー級選手権が行われ、清宮海斗が拳王を破って王座防衛したのは本誌でお伝えしたとおりだ。経営陣を一新した新生ノアにとって、手応え充分の熱戦となったのである。
しかし、筆者には一抹の寂しさがあった。試合内容ではなく、両者の体格についてである。清宮が180cm98kg、拳王は174cm95kg。ヘビー級選手権なのに、2人とも一昔前ならジュニア・ヘビー級の体重だ。肉弾相打つヘビー級ならではの魅力に乏しく、この試合を見ていると全日本プロレス時代の小川良成vs.菊池毅の世界ジュニア・ヘビー級選手権を彷彿した。
その小川を第3代GHCヘビー級王者にしたのは、ノア創設者の三沢光晴による、体の大きいレスラーを重用したジャイアント馬場へのアンチテーゼだったとも言える。
▼第3代GHCヘビー級チャンピオンの小川良成と、初代チャンピオンの三沢光晴
そもそもプロレスは、体重別の階級制度が曖昧だ。全日本プロレスは105kg未満、新日本プロレスでは100kg未満をジュニア・ヘビー級と認定するなど、老舗団体ですら5㎏もの差がある。全日で世界ジュニア王者の常連だった渕正信が新日へ行けば、ヘビー級になっていたわけだ。
しかも、タイトル・マッチの前に計量が行われることもほとんどない。元々、ヘビー級が主体だった日本プロレス界において、ジュニア・ヘビー級は付け足しのようなものだったのだろう。
プロレス界では、世界中に無数のチャンピオンが存在するが、なぜか日本チャンピオンがいない、とはよく言われることである。体重別により日本ランキングに入り、日本チャンピオンを経て、世界チャンピオンに挑戦することが多いボクシング界とは対照的だ。
ところが日本のプロレス界にも、かつては日本人レスラーによる体重別ランキングが存在した。しかも、特定の団体によるランキングではなく、複数の団体のレスラーが集まって、順位を決めるトーナメントまで行われていたのである。
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実はセメント・マッチだった!? ウェイト別日本選手権
力道山が木村政彦とタッグを組み、シャープ兄弟と対決して日本にプロレスを本格的に紹介したのが1954年2月のこと。そして、日本人レスラーによる『ウェイト別日本選手権』が行われたのは、その2年半後の1956年10月である。
ただ、何しろプロレス黎明期の頃で、古い資料しか残っていないため、それぞれ記述が違う箇所が多い。その場合は、結果を翌日に報道していた毎日新聞の記事を採用した。
当時は、全国紙の毎日新聞がプロレスを後援しており、試合結果がスポーツ欄に載るという夢のような時代だったのだ。その頃の毎日新聞朝刊は全部で8頁。即ち大きな紙を2枚、二つ折りにした構成で、スポーツ欄は1頁しかなかった。その1頁の多くを、プロレスが割いていたのである。
ウェイト別日本選手権では、体重はライト・ヘビー級(190ポンド≒86.18kg以下)、ジュニア・ヘビー級(191ポンド≒86.64kg~220ポンド≒99.79kg以下)、ヘビー級(221ポンド≒100.24kg以上)の3階級に分けられた。階級別にボクシングよろしくトップを日本チャンピオンとし、それ以下を1位から順にランク付けしたのである。
主催は日本プロレスリング連盟。当時はボクシングにおけるJBC(日本ボクシングコミッション)のような存在で、コミッショナーは元政治家の酒井忠正だった。戦前は農林大臣を務めた大物で、相撲や競馬でも要職に就いた人物である。力道山が興した日本プロレス協会の初代会長だったが、力道山vs.木村政彦の日本一決定戦開催により公平を期すため、初代コミッショナーに就任した。
とはいえ、ウェイト別日本選手権の実態は力道山が企画したもの。力道山が日本のプロレス界を統一するために仕組んだ大会と言ってよい。
ウェイト別日本選手権に参加したのは、以下の日本プロレスリング連盟の加盟団体である。
★日本プロレス協会……1953年、力道山が東京に設立。
★山口道場……1954年、山口利夫が大阪に設立した全日本プロレス協会(現在の全日本プロレスとは無関係)が前身。興行機能を停止して山口道場になってからは静岡県三島市が拠点。
★アジア・プロレス協会……1954年、木村政彦が熊本に設立した国際プロレス団(後の国際プロレスとは無関係)が前身。その後、大阪に拠点を移してアジア・プロレス協会を立ち上げ。
★東亜プロレス……1955年、大阪に設立した在日コリアン系のプロレス団体。
1956年10月15日、東京・日本橋のプロレス・センターでライト・ヘビー級(16名参加)の一、二回戦およびジュニア・ヘビー級(8名参加)の一回戦が行われた。これは非公開の『無観客試合』で、いわゆる道場マッチに近いものだった。そのため、プロレス・センターで行われた試合はセメントだった、という説がある。
そのせいか、翌16日付の毎日新聞朝刊のスポーツ欄には結果が載っておらず、23、24日に行われる準決勝以降およびヘビー級の告知が載せられているだけだった。
▼日本マット界制圧を目論み、ウェイト別日本選手権を開催した力道山
後の日本プロレスと国際プロレスの社長対決があったLヘビー級
ミドル級やウェルター級などがなかったので、最も軽い階級だったのがライト・ヘビー級だ。参加16選手の顔触れは以下の通り(×は一回戦敗退、○は二回戦進出、◎は準決勝進出)。
★日本プロレス協会:◎芳の里(大相撲)、◎吉原功(アマレス)、○金子武雄(重量挙げ)、○比嘉敏一(大相撲)、×ユセフ・トルコ(柔拳)、×宮島富男(柔道)、×大山博(アメフト)
★山口道場:◎樋口寛治(柔道)、×市川登(柔道)、×出口一(柔道)、×三山三四郎(不明)
★アジア・プロレス協会:◎大坪清隆(柔道)
★東亜プロレス:○白頭山(アマ相撲)、○東日出雄(ボクシング)、×梅田源治(柔道)、×安東一夫(不明)
このうち山口道場の樋口寛治とは、後に日本プロレスや全日本プロレスの名レフェリーとなるジョー樋口のことだ。ジョー樋口はこの大会の二回戦で金子武雄(日プロ)の腕を折ってしまったという説がある。しかし、金子は9日後の順位決定戦にも出場しており、金子の腕を折ったのは別の試合だったという説もあるが、いずれにしてもジョー樋口は相当な実力者だったのだろう。
レフェリー時代の『ジョーさん』は、外国人レスラーに暴行されたり、レスラーの誤爆を受けたりして、しょっちゅう失神していたが、実はガチンコでも強いシューターだったのだ。
▼ジョー樋口は、レフェリー時代からは想像がつかないぐらい、強いシューターだった
同じく山口道場の出口一とは、後のミスター珍のことである。また、ユセフ・トルコ(日プロ)は優勝候補だったが、一回戦で東日出雄(東亜)に不覚を取り、初戦敗退となってしまった。
準決勝および決勝戦、そして順位決定戦は10月23、24日に、東京・国際スタジアム(旧:両国国技館=日大講堂)で行われた。もちろん、このときは観客の前での試合なので、セメントだったとは考えられない。結果、ライト・ヘビー級の日本ランキングは以下の通りとなった。
王者:芳の里(日プロ)大相撲出身
1位:吉原功(日プロ)アマレス出身
2位:大坪清隆(アジア)柔道出身
3位:樋口寛治(山口)柔道出身
4位:金子武雄(日プロ)重量挙げ出身
5位:比嘉敏一(日プロ)大相撲出身
※4位と5位が入れ替わっている資料もある
決勝は3本勝負、芳の里(日プロ)vs.吉原功(日プロ)の同門対決で、芳の里が2-0で完勝、初代日本ライト・ヘビー級王者に輝く。ちなみに力道山の死後、吉原功は日本プロレスを飛び出し、国際プロレスを旗揚げした。一方の芳の里は日本プロレスの3代目社長となっている。
つまり、後にライバル団体となる日本プロレスと国際プロレスの、社長対決だったわけだ。もちろん当時の両者は、引退後に経営者として興行戦争を行うとは夢にも思ってなかっただろうが。
▼ザ・ファンクス(左がテリー、中がドリー)と日本プロレス社長時代の芳の里(右)
Jr.ヘビー級1位は、カール・ゴッチにフォール勝ちしたテクニシャン
ジュニア・ヘビー級は8名参加で、一回戦のみをプロレス・センターで行っている。もちろん非公開で、以下の8名が出場した(×は一回戦敗退、◎は準決勝進出)。
★日本プロレス協会:◎駿河海(大相撲)、◎ 阿部脩(大相撲)、×田中米太郎(大相撲)
★山口道場:◎吉村道明(学生相撲)、×山崎次郎(アマ相撲)
★アジア・プロレス協会:×速浪武夫(大相撲)×加藤弘恭(アマ相撲)
★東亜プロレス:◎大同山又道(柔道)
日本プロレスの田中米太郎は、ジャイアント馬場のデビュー戦相手として知られている。新人の馬場にも敗れた田中だが、この大会では一回戦で大同山又道(東亜)に逆腕固めにより僅か35秒で敗北。文字通り秒殺で、プロレス・センターでの非公開試合がセメント・マッチだったと言われる所以である。アントニオ猪木は「俺の新人時代、失礼ながら田中さんは道場で一番弱かった」と語っていたが、それも事実だったのだろう。
同じく日プロの阿部脩は、引退後に国際プロレスのレフェリーとなっている。反則したレスラーの耳元で「ピー!」とホイッスルを鳴らす『笛のレフェリー』として人気を博した。
ジョー樋口やユセフ・トルコ、田中米太郎に阿部脩と、この頃のレスラーは引退後にレフェリーとなるケースが多かったようだ。
準決勝以降および順位決定戦は、他の階級と同日に国際スタジアムで行われ、その結果ジュニア・ヘビー級の日本ランキングは以下の通り。