プロレス界でも起こった放火『東京プロレス板橋焼き打ち事件』

『ニュースの特異日』というものがある。
 その日に色々なビッグ・ニュースが固まって飛び込んで来るため、報道部がテンテコ舞いしてしまうのだ。その意味で言えば、今週は差し詰め『ニュースの特異週』と言ったところか。
 参議院選挙が行われ、吉本興業の闇営業問題、ジャニーズ事務所による圧力報道など、ワイドショーもどれを中心に据えたらいいのか判らないほど、大きなニュースの雨アラレだった。
 そんな中で、人々を震撼させたのが『京都アニメーション放火事件』だろう。この原稿を書いている時点で34名の死者を出すという、未曽有の放火事件だった。

 プロレス界では幸いにも、これほどの死者を出した事件はない。しかし、放火事件というのはプロレス界でもあった。それが今から53年前に起こった『東京プロレス板橋焼き打ち事件』である。
 なぜプロレスで放火事件が起こったのか? 当時を振り返ってみる。

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プロレススーパースター列伝における『板橋焼き打ち事件』

 1966年当時、プロレス界は力道山が亡くなったとはいえ、日本プロレスしかプロレス団体がなかった。もちろん、新日本プロレスや全日本プロレスなど、影も形もなかったのである。
 力道山の死後、豊登道春が日本プロレスのエース兼社長となっていたが、ギャンブルによる会社の金の使い込みによって社長の座を追われた。日本プロレスは豊登の代わりに、ジャイアント馬場を新エースとして前面に押し立てることになる。

 追放された豊登は新団体設立を目論み、若手のホープだったアントニオ猪木に白羽の矢を立てた。豊登は、猪木が馬場に対してライバル心を抱いていたのを知っていたのである。日本プロレスでは馬場をエースに祭り上げているから、同じ団体にいては永久に馬場には勝てないぞ、と言って猪木を誘った。
 こうして1966年10月、豊登を会長に、弱冠23歳だったアントニオ猪木を社長とした『東京プロレス』を設立する。このとき、後に新日本プロレスで『プロレス過激な仕掛人』と呼ばれるようになる新間寿氏が東京プロレスに参加した。新間氏をプロレス界に引き込んだのは、東京プロレスだったのである。

 猪木をエースとして旗揚げした東京プロレスは、オープニング・シリーズこそ順調だったものの、テレビ放映もなし、地方のプロモーターは日本プロレスに押さえられていたため、たちまち資金難に喘ぐことになる。もちろん、豊登のギャンブル癖が治らなかったのも、東京プロレスの経営を圧迫していた原因だ。
 そして旗揚げから僅か1ヵ月後の1966年11月21日、東京都板橋区にある元都電板橋駅前広場で行われる予定だった東京プロレスの興行で、放火事件が起きたのである。
 この項では、筆者の愛読書である『プロレススーパースター列伝(原作:梶原一騎、作画:原田久仁信)』で描かれていた『板橋焼き打ち事件』を紹介しよう。

 東京プロレスの興行は赤字続きで客もガラガラ。この日の板橋大会も「200人も入っとらんな、猪木。いつもと比べても酷すぎる」と豊登も嘆いていた。「これじゃリングの照明代も出やせんし、試合をやって腹が減っても焼肉も食えん。やるだけ損だ」と豊登は愚痴を言う。
「中止にするんですか、豊登さん?」と猪木が訊けば、豊登は「ああ、中止だッ、中止! 試合をやらなければ、外人レスラーに支払うギャラも、その分助かる」と答えた。
 豊登の言葉に猪木は納得するも「我が東京プロレスも落ちるところまで落ちた」と観念する。

 豊登はリング・アナウンサーに「客に、入場料は返すから中止だと伝えろ」と指示した。リングアナは言われた通り「あまりにも入場者数が少ないため、本日の試合は中止とさせていただきます。なお、入場料は……」と言いかけたところで、客は「手前勝手なことをぬかすな!! 入場者が多かろうと少なかろうと、それはそっちの都合! 今まで待っていた我々を、どうしてくれるんだ!? 試合をやれッ、やるまで帰らねえぞ!! やるまで夜風は寒いから、焚火をして暖まるぞ!!」と叫び、放火までする騒ぎとなった。

「やっぱりやりましょう、豊登さん! ごく僅かでも、これだけ東京プロレスに期待してくれるファンもいるってことです!!」
「そ、そんなこと言うても猪木、もう外人レスラー全員が中止のつもりで宿舎へ帰ってしまったわい!」

 この『板橋焼き打ち事件』が致命傷となり、東京プロレスはあっけなく解散した。

▼豊登は東京プロレスを設立したが、短命のプロレス団体だった

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アントニオ猪木による足止めのため、放火事件が勃発

 では、実際の『板橋焼き打ち事件』の真相は、どうだったのだろうか。『列伝』では試合の中止を決めたのは豊登で、猪木はそれに反対したことになっているが……?

 東京プロレスは豊登が設立して会長となっていたとはいえ、23歳の猪木が既にワンマン社長体制を築いていた。
 地方のプロモーターを日本プロレスに押さえられていた東京プロレスにとって、唯一頼りにしていたのがオリエント・プロモーション(以下、オリプロ)である。しかしオリプロも、プロレス興行に関しては全くのド素人だった。

 オリプロは東京プロレスの東北・北海道遠征を手掛けたが、台風や大雨の影響もあってキャンセルが相次ぎ、たちまち資金繰りも悪化する。レスラーへのギャラも支払えない。
 そして運命の11月21日、板橋大会を迎えた。

 試合開始前まで、東京プロレスとオリプロは揉めに揉める。オリプロは試合前と試合後、分けてそれまでのギャラ未払い分を支払うと約束していたが、試合直前になっても、その金を用意できなかったのだ。
 腹の虫が収まらないのが猪木である。オリプロはもちろん、豊登や新間寿氏も「待っているファンのためにも、試合に出てくれ」と猪木に懇願したが、猪木は「約束が違う」と突っぱねた。そしてレスラーたちを宿舎に足止めし、ストライキを敢行したのである。社長が主導のストというのも珍しい。

『列伝』では豊登が試合の中止を決定し、猪木がそれに反対していたが、実際には全く逆だったようだ。猪木の著書である『アントニオ猪木自伝(新潮文庫)』によると、プロモーター(オリプロのことであろう)と揉めに揉め、腹が立って事務所に帰った、と書いている。
 猪木は「大人げないことをしてしまった」と反省しているが、事務所に戻った猪木に電話が掛かってきて「テレビを見ろ! 大変なことになってるぞ」と知人に言われ、テレビを点けたら板橋の会場が炎に包まれており、そのときに初めて放火事件のことを知ったという。『列伝』では、猪木は板橋の会場で放火を目撃していたことになっているが、実際には放火事件の頃には猪木は会場を去っていたのだ。

 資料によると、板橋の会場に集まったファンは約2千人。『列伝』で書かれていた『200人足らず』の10倍以上である。この数字が正しいとすれば、後楽園ホールなら満員の人数だ。つまり『入場者数が少ないから中止』というのは、全くのデタラメである。
 試合開始予定の時刻から1時間以上も待たされて、しかも意味不明の中止を発表されたら、そりゃ2千人のファンも怒る。だからといって、放火してもいいわけではないが、ファンの怒りも相当なものだっただろう。

 東京プロレスでは後日、「板橋の件ではファンの皆様に多大なご迷惑をおかけしました。申し訳ございません。オリエント・プロモーションの契約不備によるやむを得ない処置であり、そのことをどうぞご理解ください。今後、オリエント・プロモーションとは一切契約せず、東京プロレスはお詫びの大会を実施し、ファンのために全力を尽くす所存です」という声明文を出した。
 早い話が、放火事件の原因はオリプロであり、我が東京プロレスには何の責任もありませんよ、というわけだ。しかし、声明文にある『お詫びの大会』は開催されず、東京プロレスはまもなく崩壊した。


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