新間寿「その日のうちに馬場さんを思って、私はある文書を書いた」、和田京平x木原文人対談!2・19ジャイアント馬場没20年追善興行

【ジャイアント馬場さんの思いで】
“過激な仕掛け人”新間寿インタビュー
「すべては猪木さんが馬場さんを超えるため。私はプロレスに命懸けだった!」

■ ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~
 アブドーラ・ザ・ブッチャー引退記念~さらば呪術師~
日時:2月19日(火)
会場:両国国技館

▼アントニオ猪木&馳浩議員、ドリー・ファンクjr.も来場!

アントニオ猪木&馳浩議員、ドリー・ファンクjr.も来場!2・19ジャイアント馬場没20年追善興行〜王者の魂〜

――新間さんと馬場さんの出会いから聞かせてください。

「私は1958年にポンジー化粧品という会社に就職し、福岡支店に出張勤務となった。それ以前から私は東京・人形町の力道山道場でトレーニングをしていたので、何人かのレスラーを知っていたんだ。それで、1962年のある日、小倉の三萩野市体育館で日本プロレスがおこなった興行に豊登さんを訪ねていったんだよね。そこでレスラーたちに石鹸を配って回ったんだが、控室の中に何人かのレスラーがいるのが見えて、その中に一際大きい人がいた。それが新人時代の馬場さんだったんだよね。そのとき、私は豊登さんから力道山門下生の2人の若手選手を紹介されたのだが、馬場さんではなく、なぜか猪木さんだけだった。それが猪木さんと私との出会いでもあったんだけれども、同時に馬場さんとの出会いでもあった。豊さんから呼ばれて出てきたのが猪木さん。“コイツはブラジルから来てまだ日本語がうまく話せないんだけど、言うことはわかるから紹介しておくぞ。これは将来、絶対にすごいレスラーになるからな”と言われたんだよね」

――なぜそのとき馬場さんは紹介されなかったのでしょうか。

「あとになって、どうしてかなと思って豊さんに聞いてみたんだよ。そしたら“馬場はタッパもあるし将来、放っておいても絶対にスターになる。それ以上にオレが一番期待しているのはこの男、猪木寛至なんだ”と。そう言われたんだよね。“東京に帰ったときにでも食事にでも呼んだり、多少小遣いをやるような人を紹介してやってくれよ”と。そういう話だったんだよね」

――要は、猪木さんを応援してやってくれということだったのでしょうか。

「そうだと思うね。“猪木という男は自分の努力によって世界チャンピオンになっていくだろう”と、そういうふうにも言われたね」

――では、当時控室にいた様子を見た新間さんの目に馬場さんはどう映ったのでしょうか。

「大きい人だなあ!と思った。それで私が東京に戻ってきてから化粧品セールスの所長を三鷹でやっていたときに、立川に当時大きくて有名な化粧品屋があって、そこで毎年化粧品祭りというのを3日間やっていたんだ。そのときにそこの社長から、“プロレスに詳しいならレスラーを連れてきてくれ”と言われたんだよね。サイン会をやってくれとのことだった」

――化粧品の販売促進のために、ですか。

「そう。そのとき外国人レスラーではザ・デストロイヤー、ドン・マノキャン、スウィート・ダディ・シキがいたかな。日本人では馬場さんもいたし、吉村道明さんをはじめ何名かのレスラーをそのイベントに連れていったんですよ」

――化粧品のイベントでプロレスラーというのは意外です。

「うん、化粧品だけどプロレス。当時、プロレスは老若男女、ファンが多かったんだよね。だからデストロイヤーが参加するとかなったら人がたくさん来てすごかったんだよ。外国人と日本人、2回にわけて連れていったのかな。イベント後には、ギャラを払ってお土産を持たせて帰ったんだよね」

――イベントで、馬場さんと話をしましたか。

「話をしたというか、“なにが入ってるのかなあ”ってお土産の袋をのぞいていた姿を見たよね。“いろんなの入ってるなあ、男性ものばかりじゃなくて女性のものもほしいんだけど”とか言ってたかな。でもすぐに“あ、女性のものも入ってるわ”と、そんなこと言ってたおぼえがあるよね。でも、当時はそんなに話したことはない。移動もあのときは電車だったんだけど、そんなに話はできなかったよね」

――その後、新間さんは本格的にプロレス界に入りますが、プロレスラー馬場さんを意識するようになったのは?

「プロレス界入りする前から意識はしていましたよ。リキパレスに馬場さんの試合を見にいったりもした。シリーズ初日、テレビ撮りのときに見にいったよね。その頃、馬場vs猪木も見たよ。確か30分1本勝負かなんかで、馬場さんが首固めしながらヒザの上に落とすネックブリーカードロップで猪木さんがギブアップして馬場さんが勝ったのをおぼえてる」

――馬場vs猪木のシングルマッチを生で見ていたわけですね。

「そう、見てた。馬場さんと猪木さんは、デビュー当時からして対照的だった。そこで猪木さんはすでに馬場さんへの対抗心を燃やしていたんだよね」

――やがて、新間さんは猪木さんと組み、営業本部長として新日本プロレスをプロデュースしていくことになりますが。

「私が新日本に入ったときには、まだテレビがついていなかったわけ。一年間でアッという間に1億の借金ですよ。私はその年(1972年)の9月から正式な社員になったんだけど、その前から興行の手伝いをして金作りをやっていたんですよ。でも不入りだった。そんな不入りのシリーズやってたら、金なんかいくらあったって足りないじゃない。それまでの収入といったら興行だけじゃないですか。赤字、赤字、赤字で、それでも続けないといけない。毎月の金作りでどれだけ苦労したか。そんなときに、翌年(1973年)4月に坂口さんがテレビ朝日、当時のNETテレビを連れてきてくれてテレビ放送が始まった。ただ実際に視聴率が上がりはじめたのは猪木vsストロング小林からですよ。とはいえ、坂口さんがテレビを連れてきてくれたから少しずつ返済できるようになった。そこから東京プロレス時代に呼んだジョニー・パワーズとつながっているというので、NWFの世界タイトルをやろうじゃないかとなり、タイトルマッチを始めた。それはもう世界タイトルマッチと銘打ってるからお客さんが入るわけよ。それをやってるうちに、次はNWAに入ろうという話になった」

――当時、世界最大のプロレス組織と言われていたNWA、ナショナル・レスリング・アライアンスですね。

「そう。マイク・ラベールがNWAとともに(WWWFの)ビンス・マクマホン(シニア)を紹介してくれるとなって、NWA総会に入会の申し込みに行ったときビンスとの話し合いから多少ではあるけれども(WWWF、WWF、現WWEから)選手が回ってくるようになった。ただ、NWA入会というのは2年間、却下されてきたんですよ。それで3年目に新日本が内容証明書とともにこれは独占禁止法違反ですよと話しをしたら、そこからようやく入会が認められた。ただ、入会させてくれたのはいいけれどNWA総会に行っても誰ひとりとして新日本には寄ってこないよ。フリッツ・フォン・エリックによろしく頼むと言っても、軽く“ニュージャパン? OK”と言って終わり。ドリー・ファンクのところとかでもそう。なのに、ひとたび馬場さんが姿を見せると、アッという間にみんな馬場さんのところに行くのよ。もう、我々なんて無視ですよ」

――そこで馬場さんの偉大さを目の当たりにしたわけですね。

「そうだよ。新日本はキチッと手続きをして入会を認められたんだ。ただ、それには条件があった。世界タイトルマッチという言葉は絶対に使うなと。それで、ウチが黙ってNWF世界タイトルマッチをやっていたらそれがやり玉に挙げられたこともあった」

――それでNWF世界ヘビー級王座ではなく、NWFヘビー級王座になったのですね。

「そう。ウチは世界を名乗れず、馬場さんの方は世界を名乗った。NWAに入会したにもかかわらずね。しかも世界タイトルを名乗ったことで制裁をかけられた。“当分、NWAの世界チャンピオンはニュージャパンには派遣しない”と。要するに、馬場さんサイドの言うことはなんでも聞くけれども、ニュージャパンの言うことは、何も通らない。だから、同じことをしていたら、馬場さんを超えることは出来ないと思ったんだね。だからなんとかしないといけないと思った。私の人生はすべてプロレスだったわけです。私の人生は6メートル40(センチ)のリングの中にある。この聖域で闘っている人たちが、よかれと思ってくれることを私はしようと決めていた。ただ、新日本プロレスには猪木さん、坂口さんがいたけれども、両方を売ることはできない。ひとりスターを作れば、そのスターでもってこの団体は潤うとオレは感じていた。坂口さんが来てくれた頃、坂口さんは“私は猪木さんの下でやりますから”と言ってくれたんです。それで私は猪木さんを売ろうと思ったんだよね」

――猪木さんひとりをプッシュする後押しになったと。

「そう。馬場さん超えをするためには猪木さんだと。アントニオ猪木でいこうと。その決心が坂口さんのアドバイス、助言によってついたんだよね。それに、こういうこともあった。1974年に“マジソン・スクェア・ガーデン・シリーズ”というのを馬場さんのところ、全日本プロレスでやったのよ。冗談じゃないと。ウチはWWWFのマクマホン(シニア)とつながってるんだ。それでマクマホンに頼んでMSGの名称はウチ(新日本)のほうでぜひ頼むと言って、1978年から“MSGシリーズ”を開催し、WWFのビンスが優勝トロフィーを持ってきたんだ。MSGは馬場さんのところじゃない、新日本プロレスだと」

――シリーズ名でも対抗心があったと。

「そう」

――新日本と全日本の企業戦争が激化していく中で1979年8月26日には日本武道館で「夢のオールスター戦」が開催されます。新日本、全日本、国際の3団体が集いましたが、ここで新間さんは馬場さんと話す機会があったのでしょうか。

「馬場さんは東スポ(東京スポーツ新聞社)にOKしたんだからいいよと。リングの中のことは私は入れないからね。そのとき撮ってもらった写真で、私が猪木さんと馬場さんの2人の間に座ってるものがあったけど、マッチメークについては猪木さんと馬場さん2人で決めたことだから。そしたらその後、坂口さんのところへ馬場さんから電話があって、“猪木は信用できない。合意したにもかかわらず前の日に急に変えてきた”と言ってきたんだよね。“もう決まっていてやらざるを得ないときに、そういうことを言ってくる自体が不見識だ。でも自分は渋々OKした”と。私はその意味がわからなかった。マッチメークということはリングの中での決めごとだと思うけれども、馬場さんと猪木さんで合意したことを猪木さんがひっくり返したんだなと思った。それがどういう内容かは知らないけれども。厳として慎むべきだということで、そういうところまで口を出してはいけないと思ってた。私の本分というのは、アントニオ猪木が馬場さん超えをすることを願ってるだけだからね。ただ、大会のときはウチの息子に頼んで1人2千円ずつやるから30人くらい集めろと言ったんだ」

――新日本、猪木さんの応援のために?

「そう。そしたら50人以上集まったと。当日は、“猪木と馬場がリングに上がったときにイノキコールをやれ”と言ってね。大会後、馬場さんが東スポの社長に“新間は息子に頼んで猪木コールをさせた”と話したら、社長は“アンタのとこだって営業部長いただろう。なんでそういうことしなかった? それは新間の勝ちだよ。それはアンタのところと猪木さんのところの営業の違いだよ”って。“それは猪木さんの声援はすごかったよと、自分も聞いたけど”ってね」

――それも馬場さんに負けたくない一心から、ですよね。

「当時猪木さんは馬場さんの上になかなかいくことはできない。だから何かしないといけないんだよ。“猪木と馬場の違いをオマエはわからないのか? 猪木は体つきや身長にしたって普通のレスラーと同じじゃないか”と、よく外国人レスラーからも言われていたからね」

――それだけに新間さんの仕掛けやアイデアに関しては、常に馬場さんの姿が背後にあったわけですか。

「うん、ありましたね」

――馬場さんを猪木さんが超えるために、新日本プロレスが超えるために?

「日本一の富士山がいつでも目の前にあるような気がしてた。この富士山を越えるにはどうしたらいいのか。日本第二の山は、南アルプスにある標高3193メートルの北岳だよ。そこに登ると必ず草鞋をおいてこなければいけないという言い伝えがある。なぜかというと北岳の神と富士山の神が論争をして、オレの方が高いと、お互いが言い合う。すると、もうひとりの神が出てきて大きな大きな竹竿で(高さを)はかったという。そしたら北岳の方が低かったとわかった。それで富士山が日本一の山となり、北岳の神がこの山に登ってくる人間は草鞋をおいていけとなった。草鞋が積もって富士山と同じ高さになる、超えるということなんだよね。その山が北岳だと。そびえ立つ富士山を超えたい。その山がジャイアント馬場であり、我々新日本プロレス軍団は北岳だったわけだ。なんとしてでも、馬場さんを超えよう、草鞋を積み重ねて富士山を越えようと。それで、一戦一戦アントニオ猪木が闘うことで、その草鞋を増やしていくと。そうすれば、いつかは北岳が富士山を追い越す高さになるだろう。それにはどうしたらいいかと考えたのが、異種格闘技戦であり、IWGPだった」

――全日本との企業戦争となると引き抜きが思い出されますが、IWGPの戦略の一環として引き抜きもあったわけですか。

「そう、あった。馬場さんを相手にした選手とアントニオ猪木が闘ったらどういう試合になるだろうかと考えたんだよね」

――直接闘うことはできないから?

「そう。それで猪木の方がいい試合になったと思われれば、ウチの勝ちだからね。スタン・ハンセンが引き抜かれたときも、いいじゃないかと。じゃあハンセンが馬場さん相手にどんな試合するかと。いい試合にならないよと思ったから」

――自信があったわけですね。

「あった。大木金太郎も向こうにいったときに、猪木vs大木以上に馬場vs大木が名勝負になるのかなと。猪木vsストロング小林なんてすごかったじゃない。私はあれがナンバーワンだと思っている。猪木が小林をあそこまで持ち上げたからいい試合になったんだから」

――引き抜きの最初はアブドーラ・ザ・ブッチャーの出現(1981年5月8日)でしたが。馬場さん側の報復も覚悟していたのですか。

「してた。馬場さんだったら絶対なにかやり返してくるなとね。でも、あの人だからまあジックリジックリくるだろうなと思ってたら、あんなに素早くくるとはね」

――2カ月後(7月3日)にタイガー・ジェット・シンを引き抜かれました。

「そうね(笑)」

――ヒールのトップですからね。

「そう。あのとき、引き抜かれるというのはこういう気持ちかと馬場さんの気持ちがわかったよ(笑)。その日のうちに私はシンが泊まってるホテルを突き止めて行ったもんね。トイレに誰かが隠れてたよ。誰かわからないけど」

――その後、スタン・ハンセンの引き抜き(12月13日)までエスカレートしましたからね。

「そうそう。でもハンセンは違約金をキチッと払っていった」

――あの時代には、タイガーマスクのデビューによるタイガーブームもありました。今振り返ってみてすごいと思うのは、タイガーマスクのデビューやIWGP構想、外国人選手の引き抜き戦争などが同時進行でおこなわれていたことです。

「うん、やってた。そうですよ」

――別の出来事のようなイメージもありますが、すべて同時進行で新間さんがおこなっていたんですよね。

「同時進行ですよ。だからプロレスに本当に命懸けだったよ」

――タイガーマスクのデビュー(1981年4月23日)から2週間後にブッチャーが現れました。

「そうだよ」

――引き抜き戦争の終結を申し入れたのも新間さんだったと思うのですが。

「そうそう。いや、もうお互いに日本人レスラーがプラスになるならばいいけれども、そうでなければやり合ってもしょうがないと。ブッチャーがウチにきたからというのは、要するにIWGPに参加するという宣言がほしかったからですよ」

――大物が来るという?

「そうそう。宣伝、ニュースとしてね。それに金がかかってもいいじゃないかと。宣伝費だと。でもエスカレートすることによってガイジンレスラーだけギャラアップされたり、プラスになるということは考えなきゃいかんなと」

――お互いの団体にとってよくないだろうと。

「そう。東スポの櫻井さんに相談したら(ゴング誌の)竹内宏介を呼んだ方がいいと。それで話をして、馬場さんのところに行ってくれた。そこから猪木さんと馬場さんで会談をした。オレは2人の話には加わらなかった。話が終わってから写真を一緒に撮っただけ。どうなりました?なんて聞けないじゃない(笑)」

――話し合いは猪木さんに託して?

「そう。そういう雰囲気じゃないもん」

――引き抜き戦争終結、1983年5月に第1回IWGPも実現させましたが、その後、クーデターから新間さんは11月に新日本を退社します。その後、馬場さんとの関係は?

「UWFの外国人選手について相談しに行って、私は(1984年)5月になれば新日本とビンスとの契約が切れるから、そうしたらアンドレ・ザ・ジャイアントでも誰でも御大の方に回せますよと言ったんですよ」

――全日本の方に?

「そうそう。“じゃあ新間君、最初からそう言ってくれたら自分は協力できる。UWFの最初の(シリーズの外国人)選手はオレが呼んでやる”となった。だから最初の選手たちは全部、馬場さん経由で呼んでくれたんだ」

――当時は明らかにされていませんでしたが、馬場さんが選んだ選手だったと。

「そうなんだよ。ダッチ・マンテルとかね。その頃、猪木さんは“オマエ(新間)が先に(UWFに)行け、オレも必ず行くから”と。でもそうはならなかった」

――UWFのとき、馬場さんと新間さんで話をしていたわけですね。

「してた」

――84年5月にUWFから離れた新間さんはプロレス界からも離れ、馬場さんはその後も現役として闘っていました。そして99年1月31日に亡くなったのですが。

「その一報を聞いたとき、エー!と思った。まさかと思った。つい最近まで元気だと思っていたからね。驚き以外の何物でもなかったよ。ただ、その直前に誰も会いに行けないような面会謝絶だということは聞いていた。面会謝絶というのは奥さんの元子さんが馬場さん専任で自分だけ付いていて、ほかの人には面会謝絶にしてるんだろうなと思ってた。いろんな人が面会にくる煩わしさを止めてるんだろうなと思った。だけれども馬場さんが亡くなったと。女房も一緒に数珠を持って袈裟を巻いていって。でも、お棺の中の寝顔も見なかった。それからその後は私が遺骨をどうしましょうかという相談を受けたり、“新間さん、これどうしたらいいんでしょうか?”と言うから、“奥さんはいつまでも馬場さんと一緒にいたいんでしょ”と言ったら、“そうだ”と言う。そういう思いがあるのなら馬場さんをいつまでも奥さんのそばに一緒にいるようにしてあげておいた方が馬場さんも幸せだし、奥さんも気が休まるでしょうと。だったらそうしなさいと。奥さんは、“ばちあたらないのかしら?”と言うから、ばちなんてあたるはずないでしょと。ある人の話だけれども、遺骨は入っていないけれども、墓を作ったと。それについて、ほかの人は笑うと。骨もなにも入ってないのになぜ墓を建てたんだと。その人を思う気持ちがその墓にこもっているのだったら、それはお墓として拝んで何ら不都合はない。自分が思っているのなら、その思いがその人に伝わる場所に置いておいていただきたいというのが私たち坊主の考え方ですよと伝えた。奥さんが“まだ置いておきたい”と言うのなら、それでいいと思いますと。奥さんは“新間さん、ありがとう”と。あとはあのとき、その日のうちに馬場さんを思って、私はある文書を書いた。お経の文句、日蓮聖人の言葉を入れてね(写真参照)」

――では、新間さんにとって馬場さんはレスラーとして、また人間としてどういう方でしたか。

「人間としてはすごい人だったね。素晴らしい人だった、うん。誠実さがあって。馬場さんにはよく言われたよ。“新間君、オレはアンタの発言でカーッとなりコノヤローと思ってベンチプレスを何回も何回もやったんだよ。そんな気力を引き出してくれた面も多少あるんだな。オレを一時期本当に燃えさせたのは新間寿だった”とね。私は猪木さんが馬場さんを超えるためにいろいろと考えた。が、その道を示してくれたのも、馬場さんだったんですよ」       
(聞き手・新井宏)


和田京平レフェリー、木原文人リングアナ 対談インタビュー「全日本プロレスに生きる!」

2月19日火曜日は両国国技館に集合!

ジャイアント馬場さんの思いで:和田京平、木原文人対談インタビュー

――ジャイアント馬場さんが亡くなって、この1月31日で20年が経過しました。あらためてどういう思いでしょうか。

和田「馬場さんのいない20年というのも信じられないんだけど、馬場さんがいたときの20年と、いなくなってからの20年は俺からすると全然違う。馬場さんがいない20年が“普通の20年”で、馬場さんがいた20年は“特別な20年”なんだよね。20年なんて、ホントあっという間。馬場さんが亡くなって20年なんて、来るわけないと思ってたけど、来るんだよね」

木原「僕はリングアナウンサーとしてのキャリアが30年ぐらいなんですが、ということは、馬場さんがいない時代のほうが長くなっちゃったんですよね」

和田「ああ、そうか」

木原「僕にとっても、馬場さんがいた最初の10年ぐらいというのは、やっぱりスペシャルな10年でした。この20年の間にはいろんなことがありましたけど、紆余曲折の末に、それでもまだ「全日本プロレス」の名前が残っているというのも信じられないというか。

和田「でも、馬場さんが常々、俺に言っていたことがあるんだよ。「全日本プロレスは俺で終わらせる」って。だから、全日本プロレスは本当のところ、馬場さんとともに終わらせたかったんだよね。

木原「引退計画もありましたもんね。京平さんが喫茶店をやって……」

和田「馬場さんがお茶を飲みに来る。

――それは馬場さんのアイディアですか?

和田「そう。『オマエがコーヒー屋をやれ。俺がそこに飲みに行くからな』って。まあ、ちょっとおふざけの話だけどね。」

――そういうのんびりとした引退後の生活を思い描いていたわけですね。

和田「恵比寿の自宅の近くの店を覗くたびに『おお、京平、ココはいいなあ』って、よく言ってたよね。馬場さんは、先が読める人だったから。『あと何年で、俺は車椅子だよ』ってことも言ってたよね。だから『そのあとの面倒は京平、オマエが見ろ』と。そういう考えだったから、元子さん(馬場夫人)のことも大事にしたというか。

――2002年10月の全日本プロレス旗揚げ30周年をひとつの区切りと考えていたようですね。

和田「うん。そこで終わりだったんじゃないかな」

木原「結局、三沢(光晴)さんをはさんで、00年6月からは元子さんが全日本の社長を務めましたけど、02年10月には武藤(敬司)さんにバトンタッチしましたからね」

和田「でも、そのあともみんなが全日本の看板を大事にしてくれて、今日まで全日本プロレスの名前は続いているわけだけどね」

――そもそも和田さんはどういう経緯で全日本に入ったんですか。

和田「運送屋さんのトラックにいきなり乗せられて、朝方に目が覚めたら雪が降ってて。そこがどこだかも知らないで。『ここはどこですか?』『黒磯だよ』「黒磯ってどこですか?』。最初はそんな感じですよ。朝が来て、10時ぐらいになったら体育館のドアが開いて、『じゃあ、リングを作るぞ』と」

――トラックにはどうして乗ったんですか。

和田「仕事があるから乗りなさいって。プロレスのリングを作るなんて知らなかった。友だちの代わりだったんですよ。だから、その友だちが恩着せがましく言うんだよ。『俺がオマエにあの仕事を譲ったから、今がある』って。そいつにはよく奢らされたよ(苦笑)」

――いわゆるリング屋さんからスタートして、レフェリーとしてデビューしたのが74年。

和田「ある日、体育館にディスコミュージックが流れていてね。鼻歌をフンフンやりながらステップを刻んでいたら、馬場さんが『オマエ、リズム感がいいなあ。明日からレフェリーをやれ』と。それがきっかけですよ。でも、こんなに長くレフェリーをやるなんて思ってなかったなあ」

――テレビのプロレス中継はよく見ていたんですか。

和田「いや、あまり見てなかった」

――至近距離で初めて見たジャイアント馬場の印象は?

和田「でけえ、だよ(笑)」

――おそれ多い感じは?

和田「おそれ多いも何もないんだよ(笑)。みんなからすれば『プロレスラー・ジャイアント馬場』はそういう感じなんだろうけど、俺はプロレスをあまり見てなかったから、リングの上で動いている大きな人、ぐらいの感じで(笑)。馬場さんがどれくらい凄い人だっていうのが、わかってないんだよ。俺自身、イケイケでやんちゃだったから、馬場さんに文句を言われても『ハア、そうっすか!』という感じ。ひねくれてたよね。馬場さんだけじゃなく、ゴツイ体の外国人を見るのも初めてだった。まあ、毎日が面白かったよ。第1試合の佐藤昭雄対百田光雄戦を見ながら、俺が『あきおちゃ~ん!』って声を飛ばすんだよ」。

木原「サクラですね(笑)」

和田「そうこうしているうちに、俺がリング屋のリーダーみたいな感じになって。そこへ木原とかの若い衆が手伝いで来てくれるようになった。木原のような存在は、全国にいっぱいいましたよ」

――木原さんは三重県伊勢市出身ですよね。

木原「地元には1年に1回、プロレスの興行が来ればいいほうなんですけど、あるとき、四日市の体育館でグッズの売店のまわりをうろちょろしてたんですよ、何も買わないで(笑)。そうしたら『おい、帰りにリングの片づけを手伝っていかないか』と声をかけられた。それがきっかけですね。団体の関係者と仲良くなったら嬉しいじゃないですか」

和田「伊勢では、興行をやらなかったなあ。馬場さん、言ってたよ。『伊勢で客が来るわけがない』って」

木原「最初はリングの手伝いだけなんですが、そのうちに信用していただけると、売店も手伝うことになるんです。僕がちょっと変わった生地のジャージを着て売店に立っていたら、馬場さんがジャージを引っ張って『この生地いいな』と。それが馬場さんとの最初の会話でしたね。

――木原さんは早くから「オヤジ」と呼ばれていましたよね。

木原「名付け親は、まだタイガーマスクだった三沢(光晴)さんです。顔がおっさん臭かったんで(笑)。そうしたら馬場さんも『おい、オヤジ!』と」

和田 そういうファミリー的な感じが全日本にはあったよな。

――売店では、ファンが購入したグッズに馬場さんがサインを入れてくれるんですよね。

和田「あれには2つの意味があるんですよ。ひとつは、グッズが売れると『ジャイアント・サービス』から僕らに売り上げの10%、お金が入るんです。だから馬場さんが『俺がサインをすることでグッズが売れれば、オマエたちの分け前が増えるだろ』と。

――なるほど。

和田「ジャイアント・サービスが80%、グッズのキャラクターになっている選手に10%、僕らに10%。『オマエたちの給料は安いけど、これで小遣いになるだろ』と」

木原「僕はある時期から外国人レスラーの担当になったんですが、シリーズが終わると最終戦の日本武道館で預かった10%分のお金を預かって、外国人が泊まっているホテルに行って渡すんです」

和田「馬場さん以外の選手とすれば、自分がサインをすることで自分のグッズを売りたいわけですよ。三沢が俺に『サインして売りたい』と言ってきたこともあったけど、『毎日、馬場さんがやっていることを奪ったらまずいだろ』と」

――サインを書くもうひとつの意味はなんですか?

和田「馬場さんいわく『俺のためになる』と。『なあ、京平。サインをもらってファンにならない人間はいないぞ。俺を応援してくれるぞ』って。馬場さんって、トシを取ってからまた人気が出たじゃないですか。以前は『もうやめろ!』とヤジを飛ばされていたけど、来る日も来る日も会場でサインをすることで、少しずつファンを増やしていった。あれも馬場さんの戦略だったんだよね」

木原「馬場さんだけ、さん付けで呼ばれるようになりましたからね」

和田 「俺なんかいまだに『あっ、京平だ!』だからね。この野郎、誰に口をきいているんだと(笑)。まあ、試合前にコールされたときにお客さんが『キョーへー!』と叫んでくれるのは嬉しいんだけどね」

――木原さんはどういう経緯で89年にリングアナウンサーになったんですか。

木原「ある日突然、馬場さんが『オヤジ、オマエはリングアナをやれ』と。僕自身はレフェリーをやってみたかったんですが、京平さんから『いつかそういうチャンスが来たら、喜んでその仕事を受けろ。1度断ると、2度とチャンスは来ないぞ』と言われていたので、やってみようと」

和田「馬場さんは観察力がすぐれているんですよ。木原はレスラーのモノマネもうまいし、人を笑わせることが好き。だから、マイクを持たせるほうがいいだろうと」

――日頃の姿から適性を見抜くんですね。

和田「観察力ということで言えば、ある日、グッズ売り場で小さい子どもが1000円札を握り締めたまま、しばらくずっと立っていたんです。でも、俺も含めて誰も気付かない。唯一、気付いたのが馬場さんで。『おい、京平。あの子の話を聞いてやれ』と。『なんでオマエたちは気付かないのかなあ。よく見とけよ』という馬場さんの言葉を、俺が若いスタッフに言うんですよ。

木原「馬場さんが、リングの器材を担いだことがありましよね」

和田「おお。あったねえ。馬場さんがリング作ったのは、後にも先にもあのときだけだな」

木原「滋賀の長浜の体育館だったんですが、いつもは午後2時ごろに会場入りする馬場さんが、あのときは昼の12時ぐらいで。まだ僕らがリングを作っている途中だったんですよね」

和田「そうしたら『俺もやるか』と。リングの土台になっている6メートルの材木を馬場さんも担いだんだけど、『オマエたちはこんな難しいことを毎日やってるのか』って驚いてたよね。レスラーは力があるから強引に担ごうとするんだけど、俺たちはヒョイとバランスよく担ぎ上げちゃうから。

――完成したリングの上で、リング屋さんたちがプロレスごっこをしているのを見たことがあります。

和田「だってリングアナもいる、レフェリーもいる。いないのはレスラーだけ。じゃあ、『今日はオマエは誰の役。オマエは誰の役』ってね。

木原「僕はだいたい投げられる役でした(笑)」

和田「木原はうまかったよね。そうしたら馬場さんが見てて、怒られるかなあと思ったら、大喜びなんですよ。馬場さんだけじゃなくレスラーみんな大喜び。『オマエたち、なんでこんなにうまいんだ?』って。

木原「そこからは『あれやってみろ、これやってみろ』という感じですよ。

和田「俺たちは毎日、練習風景を見てるから、うまいんですよ。ヘッドロックひとつ取ってもね。その日見たことを、次の日に俺たちが練習しちゃうんだよね。馬場さんが『ヘッドロックはこうやれ。ロープワークはこうだ』って言ってたよなあって。

――私にとっての馬場さんの思い出は手品ですね。地方のホテルのレストランで馬場さんと一緒に晩ご飯を食べたあと、
コインを使ったマジックを披露してくれたことがあって。京平さんたちも、あの場にいましたよね。

和田「うん。馬場さんいわく『俺は那智の滝に打たれて修行したんだ。これはオマエらに分かるわけがねえ』って。わざわざ忍者のマネをしてね(笑)。まあ、手品のタネを明かすと『なあ?んだ』になるんだけど。

――馬場さんとテープルをともにするというのは、本当にぜい沢な空間でした。

和田「俺たちのことを可愛がってくれたよね。縁の下の力持ちじゃないけど、俺たちの大変さを知ってるから」

木原「もっと食え、食え」って。

和田「たまたまそのレストランにファンの人がいると、馬場さんが『おい京平。あの子たち、後楽園にいなかったか?』と。俺が『はい、プロレスファンです』と答えると、『帰りがけに、あそこの伝票も持ってこい』と。馬場さんがみんな払ってくれるんですよ。それで俺がそのファンのところに行って『馬場さんに今度会ったら、ごちそうさまって言ってくれな』とだけ告げて伝票を預かってくる。ファンはビックリだよね。そんなことは何度もありましたよ」

木原「同業者の人がいたときも馬場さんが払ってましたよね。たとえばK?1の方とか」

和田「人に払われるより、自分が払ったほうがいい。頭を下げて、ペコペコしてまで飯を食べたくない。それが馬場さんの考え方。『だから、俺は付き合いが下手なんだよな』とも言ってたけどね」

――思い出は尽きませんが、そんな馬場さんの没20年の追善興行が2月19日、東京の両国国技館で開催されます。もちろん和田さんはレフェリー、木原さんはリングアナウンサーとして参加されるわけですが、大会の見どころを教えてください。

木原「対戦カードは1月31日に出揃ったんですが、メインイベントでは新日本プロレスの不動のエース、棚橋弘至と全日本プロレスの三冠ヘビー級王者(宮原健斗)が激突することになりましたからね。宮原は絶好調ですよ」

和田「棚橋は、リングの中を楽しんでいる印象があるよね。逆に言うと、その楽しみ方を知っているのが宮原ですよ」

木原「棚橋選手って、実は全日本の京都・醍醐グランドーム大会で、リング作りを手伝ったことがあるんですよ」

――えっ?

木原「グランドームは天井が高いんです。そこに仮設照明を吊るそうとすると、天井の鉄骨に向かって下からヒモ付きのボールを投げて、まずそのヒモを鉄骨の上に通す必要があるんですよ。でも、誰が投げても天井までボールが届かない。それで手伝いで来ていた若い子に『兄ちゃん達の中に、誰か野球部の子いない?』と言ったら、『じゃあ、僕が投げます!』と手を挙げてくれたのが棚橋選手なんですよ。見事に投げてくれましたね』

――全日本のピンチを救ってくれた!

木原「アルバイトの人は当時、黄色の帽子を被っていたんですが、試合が始まって、スタン・ハンセンが『ウィー!』とやったら棚橋選手も一緒に『ウィー!』とやっちゃって。そうしたら、黄色い帽子を被っているから元子さんに見つかって、『バイトはやらなくていいの!』って怒られた(笑)。

――馬場夫妻との接点があるわけですね。

木原「大日本プロレスの関本(大介)&岡林(裕二)組が現役の世界タッグ王者なんですけど、彼らが巻いているインタータッグのベルトは、遡れば馬場さんが巻いていたものですからね。その辺も興味深いですね」

――特に90年代のプロレスを知る人にとって、第7試合の全日本対新日本の6人タッグマッチは見逃せないですね。

和田「それこそ90年代に実現していたら、東京ドーム級のカードだよなあ」

木原「ちょっとした対抗戦ですよね」

和田「試合としてまとまるのかなあ、という感じもあるね。レフェリー、大変だろうなあ。誰がやるの?」

木原「レフェリーとリングアナがどう配置されるのかっていうのも、マニアックな楽しみ方ですね」

――新日本のレッドシューズ海野さんも含めて、全日本出身のレフェリーが大集合するようですね。

木原「そういう意味では全日本プロレスの同窓会でもあり。出場する選手もオールスターであれば、レフェリーやリングアナの裏方もオールスターなんですよ。昭和と平成を網羅した一大ビッグイベントというか。ファンの人もその同窓会の参加者なんですよね」

――1枚のチケットで、ゲストも含めてこれだけの顔ぶれを一気に見られるイベントというのも、この先そうそうないでしょうね。

和田「外に面白そうなのが、第1試合のバトルロイヤルなんだよね。だって、レフェリーがマイティ井上だよ! 田舎に引っ込んだマイティ井上が久々に両国に現れたと思ったら、キム・ドクがいて、百田のみっちゃんがいて。何よりビックリするのは、ジョー・ディートンがいて。垣原(賢人)もいて。このバトルロイヤルだけでもおもしれえなあ、と思うよ」

木原「みんな馬場さんと絡んだ人たちなんですよね。今、学生プロレスがあるのは、80年代の終わりごろに馬場さんがMEN’Sテイオーにプロレスを教えたからだし」

和田「俺が運転手で行ったんだよ。馬場さんが『学生がプロレスごっこをやっているんだよ。ちょっと見に行くぞ』って。そうしたら馬場さん、練習を見ているうちにいきなりリングに上がって、プロレスのイロハを教え出しちゃって(笑)。そこにいたのがテイオーですよ」

木原「テイオーがそこから広げていって、学生プロレス出身でプロになった選手はいっぱいいますからね」

――さまざまな形で馬場さんと関わったレスラー、逆に関わる機会のなかった若いレスラーが、それぞれ両国でどんなファイトを見せてくれるのか。一夜限りのプロレス大同窓会を楽しみに待ちたいと思います。ぜひ、19日(火)大会当日は皆さん、ベストコンディションで!」
(取材・構成/市瀬英俊)


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