ブルーノ・サンマルチノ逝去!漫画で見るその雄姿

photo by Mike Lano(ラリー・ズビスコ殿堂入りの2015年WWE殿堂入り式典でローマン・レインズと)

 既に本誌でお伝えした通り、往年の名レスラーである『人間発電所』ことブルーノ・サンマルチノが4月18日に亡くなった。享年82歳だった。
 日本でもよく知られているレスラーだが、意外にも来日回数は少なく僅か8回。WWWF(現:WWE)のチャンピオンとして、ニューヨークを離れるのが困難だったのだろう。

 にもかかわらず、日本のプロレス漫画にはサンマルチノがよく登場している。故人の死を悼み、それらを紹介しよう(文中敬称略)。

▼ブルーノ・サンマルチノさん、死去

ブルーノ・サンマルチノさん、死去

『ジャイアント台風』で語られた、ジャイアント馬場との熱き友情

 まず登場するのは『ジャイアント台風(タイフーン)~ジャイアント馬場物語~(原作:高森朝雄、作画:辻なおき)』。タイトルからわかるように、ジャイアント馬場が主人公の漫画だ。なお、原作者の高森朝雄とは梶原一騎のことである。

 馬場の若手修業時代、力道山命令でアメリカ遠征した馬場は、ニューヨークで無名の若手レスラー、ブルーノ・サンマルチノと対戦した。15分1本勝負の前座試合である。怪力殺法を売り物とするサンマルチノを売り出すため、馬場が噛ませ犬として相手に選ばれたのだ。
 しかし、馬場はサンマルチノの怪力殺法に苦戦するも何とか粘って引き分け。そして、お互いにその実力を認め合い、二人の間に友情が芽生えた。

 その後、馬場は遠征し、再びニューヨークに戻って来たときのサンマルチノは、当時のスーパースターだったアントニオ・ロッカの子分に成り下がっていた。しかしそれも、ロッカの必殺技だったロッカ式バックブリーカー(筆者注:アルゼンチン・バックブリーカーのこと)を会得するためだったのである。
 ロッカのエッセンスをタップリ吸収して大出世したサンマルチノは、WWWF世界ヘビー級チャンピオンだったバディ、ロジャースに挑戦。なんと僅か48秒でロッカ式バックブリーカーによりギブ・アップを奪い、サンマルチノは新チャンピオンとなった。

 ……というのが『ジャイアント台風』で語られているサンマルチノだが、ロジャースを48秒で破ったのは実話。馬場とサンマルチノとの友情も有名だ。
 馬場が国産車を乗っているのを見て「そんな小さな車に乗ってるのか。俺がいい車を送ってやる」と言って自宅から送り付けたのが巨大なキャデラック。以来、馬場はサンマルチノとの友情の証として、ずっと同じ型で同じ色のキャデラックを乗り継いでいた。

 1972年、馬場が全日本プロレスを旗揚げするときも、外人招聘ルートに困った馬場はサンマルチノに相談、サンマルチノは二つ返事で引き受けた。そして、全日の旗揚げシリーズに参加したのである。

▼ブルーノ・サンマルチノとは固い友情で結ばれていたジャイアント馬場

『プロレススーパースター列伝』での、ハンセン首折り事件の描写

 次に登場するのは『プロレススーパースター列伝(原作:梶原一騎、作画:原田久仁信)』。サンマルチノと馬場との友情の話は『ジャイアント馬場&アントニオ猪木編』で触れられているが、それほど多くは描かれていない。この漫画自体が、アントニオ猪木寄りの作品だったせいでもあるだろう。

『スタン・ハンセン編』でもサンマルチノが登場。ハンセンが猪木にウエスタン・ラリアートでリングアウト勝ちを奪い、NWFヘビー級チャンピオンになった直後のインタビューで、
「『ブレーキの壊れたダンプカー』の交通事故は偶然じゃねえッ! 人気があって英雄ぶってるやつを狙い撃ちするんだ!!」
と吠えまくり、サンマルチノの首折り事件について語り出した。

 ニューヨークのファンはサンマルチノに大声援を送り、ハンセンには罵声を浴びせていた。「背骨をヘシ折ってやれ!!」というファンの声援に対し「ファンのいうとおりだ……フフフッ……」と不敵な笑みを漏らすサンマルチノ。この時点で『やなヤロー』という感じが出ている。

「いや、ちがうな。折れるのはあんたの首だぜ!」
と息巻くハンセン。しかし、試合が始まり一進一退の攻防から、サンマルチノが必殺のベア・ハッグ!
「ギブ・アップせんと背骨が折れるぞ!」
「ノ…ノーッ!! やはり折れるのは……あんたの……首だッ!」
 何とかベア・ハッグから脱出したハンセンは、必殺のウエスタン・ラリアート!
 首を骨折したサンマルチノは救急車で運ばれていった……。

▼ブルーノ・サンマルチノの首を折ったスタン・ハンセン

ハンセンに新日本プロレス行きを勧めたサンマルチノ

 同じ『プロレススーパースター列伝』の『ブルーザー・ブロディ編』になると、サンマルチノの描写はさらに辛辣になった。
『ハンセン編』と同様、ハンセン首折り事件が語られているが、同じようにウエスタン・ラリアートでサンマルチノの首を折ると、ハンセンは「チトやりすぎたかな」と『ハンセン編』とは違う反応。つまり『狙い撃ち』ではなかったということか。
 しかしピンフォールではなかったためハンセンはチャンピオンにはなれず、しかも復帰したサンマルチノへの挑戦権をWWWFはハンセンに与えたが、実はこれが罠だった。サンマルチノに有利なルールにしてハンセンを1勝2敗の負け越しに追い込み、さらにニューヨーク追放という処分を下した。

 WWWFのハンセンへのあまりの仕打ちに、怒り狂ったのがハンセンの親友だったブルーザー・ブロディ。カナダでの試合をすっぽかしてニューヨークに乗り込んだ。
 ブロディはサンマルチノを圧倒し、キングコング・ニードロップでサンマルチノを完全ピンフォールした。しかし、WWWFのプロモーターがリングに飛び込んできて、
「そッ、そのフォールは認めーん!! やつはパンチを多用しすぎたッ! あまりにラフゆえ無効試合とする!!」
と言ってブロディへのチャンピオン・ベルト移動を認めなかった。サンマルチノ自身の意思ではないとはいえ、完全な悪役的描写である。

『プロレススーパースター列伝』のみならず、当時はサンマルチノの首折り事件をハンセンのウエスタン・ラリアートによるものとなっていたが、実際にはハンセンがボディ・スラムを失敗してサンマルチノの首を折ってしまったということはよく知られている。
 相手レスラーを大ケガさせるのはレスラー失格だが、それを『あのサンマルチノの首を折った、凄い威力のウエスタン・ラリアート』とハンセン売り出しの宣伝文句にすり替えられた。もちろん、すり替えたのはハンセン本人ではない。

 サンマルチノはハンセンに大ケガをさせられて入院中だったにもかかわらず、WWWFのボスであるビンス・マクマホン・シニアに電話して「スタンを責めないでほしい」と言ったという。あまりにも心の広いサンマルチノの態度に感動したハンセンは、サンマルチノが復帰するまでニューヨークのマットを守り抜くと誓った。
 その後サンマルチノは復帰したが、ハンセンとマクマホンとの仲が上手くいかず、ハンセンはサンマルチノに相談した。サンマルチノはハンセンに「ニュー・ジャパン(新日本プロレス)へ行った方がいい」とアドバイスしたという。

 ハンセンはサンマルチノのアドバイス通り新日に登場して大ブレイク。サンマルチノはまさしく、ハンセンにとって大恩人だった。もちろん、ハンセンがニューヨークを追放されたというのはウソである。

▼スタン・ハンセンに新日本プロレス行きを勧めたブルーノ・サンマルチノ
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 ブルーノ・サンマルチノはWWEの前身であるWWWFの第2代世界ヘビー級チャンピオン。つまり、現在のプロレスの礎を築いた人だった。プロレス界はまた一人、偉大な人物を失ったのである。
 謹んで、ご冥福をお祈り致します。


▼確執と恩讐を乗り越えついにブルーノ・サンマルチノがWWE殿堂入り

確執と恩讐を乗り越えついにブルーノ・サンマルチノがWWE殿堂入り

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