[ファイトクラブ]井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第34回 マサ斎藤とA・猪木の関係は単なる腐れ縁ではなかった!

[週刊ファイト3月15号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第34回
 マサ斎藤とA・猪木の関係は単なる腐れ縁ではなかった!
 by 井上 譲二


 マサ斎藤と言えば、かつて米マットを主戦場にした日本人レスラーの中で最も成功した選手の1人。途切れることなくWWF、AWA、フロリダ地区といった黄金テリトリーを転戦した実績がその証である。日本マットでは長州力の参謀格というイメージが強かったが、長州とはあくまでもビジネス上の繋がりであり、M・斎藤にとって精神的な支えになっていたのはアントニオ猪木だ。

 マサ斎藤(以下、M・斎藤)は1964年にアマレス日本代表として東京オリンピックに参加した翌年、日本プロレスに入団。そして翌66年には日プロで同じ釜のメシを食った田中忠治、木村政雄(のちのラッシャー木村)とともに豊登が設立した東京プロレスへ転出した。

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▼日本を元気にする猪木ゲノムの軌跡 マサ斎藤リングに立つ

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 結果的にこのときの選択がM・斎藤のプロレス人生に大きく影響する。新天地の東プロがわずか2シリーズで崩壊すると渡米を決意。それ以来、20年以上に渡って米マットに定着したのは周知の通り。もし日本に残っていたらA・猪木と一緒に日プロに復帰…米国武者修行を経て一時的にプッシュされたにせよ、地味な中堅選手のままキャリアを終えていた可能性が高い。M・斎藤には甚だ失礼ながら、米マットだったからこそブレークし得たと言えるだろう。

 WWFマットで活躍したマサ斎藤
Mサイト―&Mフジ組@MSG定期戦

 なんせ、M・斎藤が日本で経験したのは日プロと東プロを併せて50試合以下。テクニック、試合運びなどすべての面においてまだ未熟だった日本の若手レスラーが即、通用したのだからある意味、当時の米マットのレベルは低い。
さらに、M・斎藤には渡米早々、大物日系レスラーであるキンジ渋谷のタッグパートナーに抜テキされるという運の良さもあった。

 だから、渡米1年目からロイ・シャイアーが牛耳るサンフランシスコ地区でそこそこの扱いを受け、その後どんどんランクアップしていった。

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WrestleReunion 2011でのマサ斎藤

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