訃報 ドン・中矢・ニールセン逝く! [ファイトクラブ]1986年の前田日明vs.ドン・中矢・ニールセン10・9両国国技館


伝説の10・9両国国技館『INOKI 闘魂 LIVE』セミファイナル

 引退後、タイでカイロプラクティック院を営んでいたドン・中矢・ニールセンが亡くなった。享年58の若さだった。
 86年10月9日両国国技館『INOKI 闘魂 LIVE』の前田日明戦で、敗れたものの鮮烈な日本デビュー。87年3月27日、大阪城ホールで行われた新日本プロレス「INOKI 闘魂 LIVE Part2」はチャーリー・アーチを下しマーシャルアーツIWA認定クルーザー級USアメリカン王者に。
 88年5月8日有明コロシアム大会で山田恵一(当時)と対戦して4RKO勝ち。続く7・29には藤原喜明にもTKO勝ちを収め、日本での名声を不動のものとした。
 だが89年にキックのリングでケビン・ローズイヤー、ロブ・カーマンに連敗すると、翌90年にも佐竹雅昭のキックデビュー戦の相手を務めて1RKO負け。
 92年5・15大阪府立体育会館での藤原組のリングで藤原喜明を返り討ちにしたものの、10・4藤原組東京ドーム大会ではウェイン・シャムロックに腕固めで敗退。シュートとワークの境界線を彷徨ったパイオニア戦士だった。
 翌年、佐竹雅昭へのリベンジマッチに失敗すると、長井満也戦を2度に渡りドタキャンして日本マットを去っていく。

LAのジェット・センターにて

 格闘王・前田日明の名声を高めた功労者で、のちのK-1隆盛のきっかけを創った記憶に遺る選手だった。タイに住み始めてからは、かの地のカイロプラクティック院としては先駆者の一員だったようだ。
 謹んで哀悼の意を表します。

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 1986年の前田日明vs.ドン・中矢・ニールセン10・9両国国技館
Text by タダシ☆タナカ

[週刊ファイト’14年9月25日号]収録 [週刊ファイト8月24日号]採録 [ファイトクラブ]公開中

新日本プロレス時代
“昭和の格闘王”前田は当時、「欧州ヘビー級王者の肩書き、12色のスープレックスを操れる、アンドレも投げてみせる」などと宣伝されていた。

86年10月9日両国国技館☆「異種格闘技戦」
 異種格闘技戦でラウンド制が使われることが多いのは、インターバルごとに再度指示を出せるというメリットがあるからである。作りの試合運びに慣れてない格闘家相手の場合、興奮して事前に打ち合わせたスポット(見せ場)を忘れるリスクがあるからだ。ブラジルに渡った木村政彦はサンタナと5ラウンド目でガチンコをやってはいるが、つまり50年以上前からやり方はおんなじなのである。
 たとえばドン・中矢・ニールセンvs.前田日明戦なら、日系アメリカ人キックボクサーのセコンド兼マネージャーがラウンドごとに怒鳴る指示を聞けば、当時ガチンコだと大騒ぎになった熱戦が、通常のプロレス以外の何物でもないことがはっきり確認できる。英語がわかるなら第4ラウンドの前に、メキシカンが(数々の作り試合でも悪名高きベニー“ザ・ジェット”ユキーデの兄アーノルド)「まだやで、このラウンドやないで!」と興奮するニールセンをなだめる場面で大笑いしたことだろう。
 2005年の2月には、永田裕志が前田日明にかみついて、記者会見で「引退後に弟子に総合格闘技をやらせて・・・オレから言わせればあの人は格闘技もプロレスも中途半端。ヒョードル戦とニールセン戦を一緒にされたくねえ」とバ倒していた。

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