美城丈二の“80’S・プロレス黄金狂時代”Act22【ダスティ・ローデスという名の“異能”】

 『美城丈二の“80’S・プロレス黄金狂時代 ~時代の風が男達を濡らしていた頃”』
  Act22【ダスティ・ローデスという名の“異能”】
 “狂乱の貴公子”
 或いはあのリック・フレアーから遡(さかのぼ)ること、プロレス黄金期、往年のファンにとってはダスティ・ローデス、彼を指してそう、評する人も多いかも知れず。
 フレアーは、永年に渡る“タイトル・リピーター”(熱烈なるファンが名付けた)その異名が指し示す通り、15度とも16度とも記録されるNWA、WCW、WWE、通算永年世界タイトル保持者である。
 その記念すべきシングル世界タイトル、NWA初戴冠劇がこのローデスから獲たもの。
 海を隔てた交代劇がまだセンセーショナルに伝えられていた最期の時代として、記憶に留めておられる方もおられるのでは?
 敗れた方にこそスポットを当ててみようと専門誌が書き立ててはいまいか?そういう視点でプロレス雑誌を睨(にら)んでいた、時の私自身を思い出す、懐かしい追憶の交代劇。
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 本稿の主、ダスティ・ローデスは、猪木氏全盛時の新日本プロレスには79年10月のシリーズに初参戦を果たし、のち平成に至るまで来日回数を伸ばしているが、時の猪木政権化にあって、喧伝されていた“猪木イズム”からはもっとも遠い存在として、その“異能”を遺憾無く発揮していたとの印象が強い。
 腰をくねらせてのダスティダンス。対戦者を翻弄する、おかまちっくキャラ。対峙するレスラーが怒って本気のそぶりを見せれば見せるほど、腰をくねくね、隙に乗じてお得意のエルボー・スタンプ、エルボー・ドロップ、さては四の字固めを繰り出していく。とにかく蓬髪のブロンズヘアーに鮮血がほとばしるさまは絵になっていた。
 後年、あの当時の新日本、「過激な仕掛け人」と謳われた新間寿元営業本部長が「来日外人の中でもっともギャラが高い為、“特別参戦”という形でしか呼べなかった」とその短期参戦時のからくりを吐露なされておられたが、晩年のNWAブッカーとしてWWF(現・WWE)シナリオメーカーとしての才も忙しく、一シリーズ参戦という長期遠征が叶わなかったという側面も指摘出来るだろう。
 
 識者間では、往年の華やかなりし絢爛(けんらん)豪華“外人天国”全日本プロレスこそ、映えたのではないか?と揶揄する向きもあったが、筆者の中では意外に新日本だからこそ、映えるのだろうという、だが、根拠といえるほどの確信も持てなかったが、いずれにせよ、時の“プロレスの本場”米国を代表するプロレスラーと評す方々も多いほどの、“異能”活躍ぶりは十二分に海の向こうから伝わってはきていた。
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【エンター・ブレイン社刊の自伝とジェイ・スポーツ・ブロードキャスティング社発売のDVD。生い立ち、レスラーとしての経歴を追うなら自伝は一読の価値があり、ジ・アウトローズ時代の貴重な映像やレイスらとの懐かしい映像を見てみたければDVDは最適だろう】

 ローデスの出自はテキサス州オースティンとされ、初来日「国際プロレス」(71年11月)参戦時の専門誌インタビューにおける「配管工の親父に育てられ、いまがある」という台詞は一時、話題をさらい、ディック・マードックとの「ジ・アウトローズ」にて全米のプロレスファンを恐怖の渦に巻き込んでいた様相と相まって、一躍、注視を浴びたものだ。
 のち、WWF参戦を経て、79年8月にはあのハーリー・レイスからNWA王座を強奪。以後、二度、同王座に返り咲き、名実ともに“アメリカン・ドリーム”を結実させている。

 NWAチャンピオンシップ・フロム・フロリダ時代でのブッカーぶりでは“ダスティー・フニッシュ”なるシナリオが一部ファンに不評を買い、その役職から外された経緯も聞きかじっていたが、WWE時代にはレスラーとして“復権”し、その長い歴史においてプロレスラーとして、そして裏方として“時の権力者”に良い意味で堅実に従ってきたという印象も持つ。

 実子、ダスティン・ラネルズ(ダスティン・ローデス等、様々なリングネームを使用)もNWA、WCW、WWF(WWE)と広範な活躍を見せ、ダスティンとは異母兄弟に当たるとされるコーディ・ローデスもプロレスラーになった。全米ケーブルテレビにおけるインタビューでダスティンは、幼い時分から父の活躍に刺激を受け、自分も将来は「ああいう、世界を股に活躍出来るような有能なレスラーになりたかった」と吐露していたが、本国ではともかく日本では思うような活躍ぶりとはいかなかったようだ(ZERO‐ONE、ハッスルに参戦)。

08.10.5pogo9.jpg ローデスは2007年度、WWE殿堂入りも果たし、プロレスラーとしては内に外に偉大なる形跡を残したように思われる。荒くれファイトが好まれるテリトリーではジ・アウトローズ時代の遺産、滅法、荒っぽい攻撃もなんなく見せつけていたし、TVマッチでは腰振りスタイルを押し通してもいた。テリトリーどころか時代時代に即した異能ぶりを発揮し、ファンを飽きさせないファイトが身の上とのインタビュー記事“リップサービス”も見聞したことがある。

 国際プロレス初来日時から、「何を指してプロレスラーとしては一級品か?」、その定義付けの解釈の違いによって、識者間で大きく評価が分かれるレスラーではあった。
 筆者も幼い時分に会場の四隅から遠巻きながら、実際にローデスの勇姿を見た記憶があり、
 「一流とはいかに・・・!?」
 大いに勘考を沸かせたプロレスラーのひとりとなった。

 残念ながら、幼い時分の私にはその良さが明瞭に感得出来ずじまいであったなとのいまはかすみがかった記憶が少々煩(わずら)わしくさえ感じてしまうが、にも関わらず、“狂虎”T・J・シン辺りとの特別試合では妙な異彩だけは強く感じられて、それらを絡めた一編をものしたこともあった。だぶついた腹とエルボー・スタンプを打ち下ろす速さだけが、いまや記憶の隅にこびりついて離れないままである。
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