シャチ横内とミスター・セキが参戦した国際プロレス【ある極悪レスラーの懺悔・解説】

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 シャチ横内については、グレート東郷を別格とすれば、本当の意味での日本人ヒールの元祖ということになる。なにしろ上田馬之助がお手本にしたのが、なにを隠そう名古屋出身の横内信一であった。
 その波乱万丈の人生は前田光世や木村政彦にも劣らない。ブラジルに渡った横内は、アントニオ猪木の兄の勧めでプロレス入りを決意。アントニオ・ロッカの道場で基礎を学んだという。
1963年欧州に渡り、パリでは清美川と合流。この時の道場ではスパイロス・アリオンと同期だった。また、フランソワ・ニコレと当地で結婚してフランス国籍を得たことから、日本では日系フランス人というギミックで通した。
 
 1967年にアメリカに渡り、日本人ヒールの原型を完成させていく。日本プロレスを干されたグレート東郷が、ルー・テーズらと組んで対抗団体旗揚げに動いたことがあるが、この際にも横内が絡んでいた。
 記録では1968年にダニー・ホッジを破って、幻のNWA世界ジュニア王者になったこともあるというが、十字チョップを武器にドリー・ファンクjrのNWA世界王座に4度挑戦したことや、NWA世界タッグ王者になったプロフィールで知られている。上田馬之助との“ライジングサンズ”での活躍はつとに有名で、上田とは師弟コンビの関係にあった。松岡巌鉄と上田が袂を分かつのは、横内を信用するかしないかの口論が発端だという。
b6-250x346.jpg 国際プロレス参戦時の横内は、団体が斬新なアイデア導入の模範だったことを象徴するかのように、グレート草津と組んでいたはずが仲間割れを起こし、外人組について草津を袋叩きにするといったお客にとって驚きのアクションを披露していたようだ。
「お前はそれでも日本人か!?」は、上田もそう言われることを受け継いでいくことになるが、最初に日本のリングで言わしめたのは、ほかならぬシャチ横内だったのである。
 関川哲夫の懺悔によれば、横内は破廉恥な守銭奴ということになる。ただし、先駆者として海外に渡った日本人レスラーは、どうしてもそういうレッテルを張られる運命にあるわけで、数奇な人生をたどる横内への興味は尽きない。
 ミスター・セキが参戦した『ゴールデン・シリーズ』は、1976年 9月5日から10月2日までの全22戦。欧州からワイルド・アンガス、カルガリーのギル・ヘイズ、プエルトリコ出身のヘラクレス・アヤラ、ディック・チャーランドのザ・テンペスト、文中にあるアル・ブルジョーらが参加している。
 10月24日から12月4日まで全33戦の『勇猛シリーズ』の主役はジプシー・ジョーだ。ラッシャー木村との金網デスマッチは週刊ゴングのビデオも残っている。
 特筆すべきは、カナダのフランス語圏から、フレンチ・マーチン、マイク・マーテル、リッキー・マーテルが来襲していること。リッキーとは、のちのAWA世界王者リック・マーテルのグリーンボーイ時代である。なんでも寺西勇とのIWA世界ミッドヘビー級選手権は好勝負だったようだ。また、ブル・グレゴリーと故・サンダー杉山さんもこのシリーズに名を連ねている。
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 ミスター・セキ最後のシリーズは、翌1977年1月2日から22日の『新春パイオニア・シリーズ』全16戦。こちらには、上田の公私ともに渡るパートナーとして知られるリップ・タイラー、エディー・サリバン、のちにモンスター・ファクトリー校長として名を成すラリー・シャープ、リッパー・コリンズなどが参加していた。
 資料をひも解くだけでも、昭和のプロレスマニアは感慨もひとしおではなかろうか。国際プロレスは永遠に不滅なのである。
 なおシャチ横内は、パリで日本人相手の観光会社を経営していたが、45歳の若さで自動車事故にて他界している。ミスターポーゴと関わった者が次々に死んでいくめぐり合わせは、後編のハイライトとなるであろう。
    ⇒ミスターポーゴ、ミルホンネット配信作
「ある極悪レスラーの懺悔(ZAN-GE)」配信開始!1,2,3章解説
第4章「誰にも言わなかった新日退団の真実」解説