ミスター・セキが海を越えてやってきた時代【解説・美城丈二】

                  金網の帝王ラッシャー木村、カルガリーのギル・ヘイズ 08.7.17iwe1.jpg 
 「国際プロレス」
 今は無き、この団体名から多くの識者が連想するキーワードのひとつは、やはり“金網デスマッチ”ということになるのであろうか?
 
 1976・・・・・・、
この年、ラッシャー木村の持つIWAベルトに“金網デスマッチ”にて対戦した来日外国人を月別に列記してみれば、1月セーラー・ホワイト、2月キラー・トーア・カマタ、4月ジ・アンダーテイカー(のちのハンス・シュローダー)、5月上田馬之助(ベルト奪取後返上)、7月アサシン(のちのロジャー・スミス)、9月ワイルド・アンガス、10月から12月のシリーズにかけ ジプシー・ジョー、ギル・ヘイズということになる。
 のちに名の通ったレスラーといえば、キラー・トーア・カマタ、上田馬之助(外人側として)、 ジプシー・ジョー辺りであろうか? 上田はまさしく“まだら狼”としての凱旋帰国シリーズにてIWAに挑み、奪取し、負傷欠場という形でベルトを返上し、このシリーズ後にいよいよジャイアント馬場、その片や雄であったアントニオ猪木への対戦要望書を掌に新日本のリングへと登場している。
 この年の来日外国人をざっと望めば、そこには10月来日として、あのリック・マーテルがやって来ている。のちのAWAチャンプ、ジャンボ鶴田を破っての戴冠劇、あのマーテルだ。この年の4年後、全日本プロレスに来日、その時はまだ、Jrの枠でドス・カラス辺りとのタッグ編成が主だったが・・・。
マイティ井上は美声、キラー・トーア・カマタ戦                     
08.7.17iwe2.jpg またこの年は全日本との対抗戦が組まれた年でもあり、3月28日、所は蔵前国技館でその火蓋は切られている。メーンは木村vs鶴田であり、セミはIWA世界タッグ、アジアタッグのダブルタイトルマッチでグレート草津、マイティー井上組vsグレート小鹿、大熊元司組の一戦だった。
 このセミにしてもメーンに関しても結局、引き分けに終わっているが、果たして全日本の時代(とき)の御大・ジャイアント馬場が出場せず、“若大将”鶴田と引き分けるエース木村という図式や、世界王者のグレート草津、マイティー井上組がアジア王者のグレート小鹿、大熊元司組と同じく引き分けてしまっているという現実がなんとも背景的なかけひきを匂わせて、当時の識者たちはかんかんがくがく色めきあったものである。
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剛竜馬対ブラック・ロッキード
 7月のシリーズには八木宏(のちに一般公募で剛竜馬)がまた凱旋帰国しているが、
 では果たして、この自叙伝の著者であるミスター・セキ(のちのミスター・ポーゴ)はいかなる活躍を見せたのか?
 9月のシリーズに凱旋帰国したセキではあったが、残念ながら筆者の知りうる限りの資料においてはその活躍のほどは顕著に伝わってはいない。だが、著者の文章をつぶさに読み解くとき、この帰国がいかに著者にとって感慨深いものであったか、手に取るように伝わってくる。
「ひとの歴史に重み、有り」けっして大迎ではなく、そういう感覚が私の中で確かに支配したようであった。
 本国、政治の世界に目を転じれば、あの田中角栄元総理が世に名高いロッキード事件で7月に逮捕されるという、まさしく激動の時代でもあった。
08.7.17iwe4.jpg 簡略的に紐解いてみても、来日外国人の面子、5月の上田馬之助、7月の剛竜馬、そして9月のミスター・セキとなにかしら新日本、全日本という猪木、馬場というスーパースターを排した両団体の狭間で、両団体のそれこそ海外ルートをかいくぐるかのようなブッキング的配慮が感じられる。
当時の国際プロレスの社長であった吉原功氏の苦労が偲ばれよう。
 そんな国際プロレスの命運も1981年8月9日の北海道羅臼町大会で尽き、こんにちでは風化のときを経るばかりである。
 グレート草津さんが2008年6月21日、享年66歳で亡くなられた。昭和プロレスのあだ花、「国プロ」の記憶もノスタルジーとなるのであろうか。