美城丈二の“80’s・プロレス黄金狂時代”Act⑯【上田馬之助という名の“常識”】

 『美城丈二の“80’s・プロレス黄金狂時代 ~時代の風が男達を濡らしていた頃”』
  Act⑯【上田馬之助という名の“常識”】

 1973年3月、大木金太郎とのタッグでインタータッグ王座を獲得するも時代は馬場、猪木無きあとの「日本プロレス」激動期。崩壊後、馬場率いる全日本プロレスに参戦するも、しばらくして渡米、主に南部地区を転戦し、1976年5月にラッシャー木村の首をねらい、国際プロレスに参戦。IWA王座を巡る血の抗争を経た後、いよいよ因縁深い、猪木率いる新日本プロレスに1977年1月、登場。
 T・J・シンとの「最凶悪コンビ」を結成し、翌78年2月にはいまや伝説と化す猪木との釘板デスマッチを敢行(11分2秒 上田のTKO負け)。1981年、全日本へと転出したシンとともに再び全日本を強襲。だが、再々度、全日本を離れた上田は再び新日本へとUターンし(最も有名な試合としてはUWF軍との5vs.5、イリミネーションマッチ)、その後はNOW、IWAジャパンといったインディー団体を転戦した。
 
 こうしてピックアップ的にその足跡を辿ってみると、プロレスラーとしての活躍がもっとも顕著だったのは70年代ということになる。
 全米放浪の後の、国際、新日本、全日本、参戦・再参戦の経緯を詳細に紐解くとなれば、それらにまつわる人間模様ひとつとってもあまりに複雑で、まさしく一冊の書物を有することだろう。
 そのひととなりを鑑みるに団体・組織に組み込まれることを嫌う上田馬之助という一己のプロレスラーの自意識が強く感じられ、興味深い。ひとつの団体に所属せず、いくつもの団体、テリトリーを転戦していく。ある意味、最もプロレスラーらしいプロレスラーだったと思える。
 馬場、猪木の現役時、ふたりに噛み付かんばかりの歯に衣を着せぬ抗弁、言いっぷりに溢れたインタビュー記事を拝見するたびに、けだし“悪役”を超えた人間・上田 裕司としての様相が浮かび上がってくるようでその意気地っぷりをも思わせ、爽快でさえあった。

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TOSHI 倉森 これがプロレスのルーツだ!カリフラワー・レスラーの誇り

 “まだら狼”
 “金狼”
 一時期からトレードマークと称された髪型や木刀の使用、時には真剣をもリング上に持ち込んだ。自らが映えるギミックとアングルに従い、「俺にとっては反則負けなんて、最も名誉なことだ」とする悪言は、誠に上田らしい言いようでもあったと思う。
 筆者がじかにお逢いし、接した人物において最も思い出深い、“日本人悪役レスラー”であった。
 見栄えで“悪役”を際出させ、いざとなれば“シューター”としての側面、“懐刀”を抜く。まさにプロレスラーとしての伊達、粋とは上田馬之助というプロレスラーを指すのではないか?
 多くの日本プロレス時代の関係者においても語られてきた上田馬之助という、一プロレスラーの真の“実力”のほどは多くの識者の知るところでもあろう。
 そんな氏も、1996年3月、不慮の自動車事故に遭遇し、脊椎損傷の大怪我を負い車椅子での生活を余儀なくされる。現在は妻であられる方の故郷である大分県臼杵市にて障害児施設慰問等を含めたボランティア活動をなされておられると聞き及ぶが、『ふたりでひとり―上田馬之助とその妻の物語』上田 恵美子 (著)ミリオン出版・刊をかつて読了させていただいた者として、プロレスラーとしての“常識”、各団体、テリトリー転戦なる放浪生活の果てが長年、時としてすぐそのそばで、時として遠方にて影となり付き添われてきた奥様の故郷に落ち着かれたことは、誠に感慨を抱かずにはおれない事実というものであろう。

 『歴史がひとを語り、ひとが歴史を語る』のだと言うが、プロレスラー、上田馬之助の歴史はまさしく日本のプロレス史の歴史をも語っているのだと思う。プロレスとはまさしくリング上の登場人物、その内面を抽出する格闘技なのである。
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