[週刊ファイト7月23日期間] [ファイトクラブ]公開中
▼1995.7.15 事件、スポーツおよびプロレス特異年に誕生した虎
by 安威川敏樹
・閉鎖的なかつてのNPBで、MLBへの挑戦を諦めなかった野茂英雄
・日本人メジャー・リーガーなんて夢また夢と思われていた時代
・野茂のMLB球宴初登板4日後にデビューした4代目タイガーマスク
・佐山聡は語った。リング上で「自分がタイガーマスクであることの意識」
今から31年前の1995年は、日本にとって転換期と言える大事件が立て続けに起きた年だった。1月17日に阪神・淡路大震災、3月20日にはオウム真理教による地下鉄サリン事件と、暗い出来事が続く。明るい話題ではWindows95が発売、一般の人でもパソコンが身近な物になった。
また、プロレスを含むスポーツ界でも、1995年が大きな分岐点となったのだ。

閉鎖的なかつてのNPBで、MLBへの挑戦を諦めなかった野茂英雄
1995年のスポーツ界は、神戸製鋼ラグビー部(現:コベルコ神戸スティーラーズ)が史上2チーム目の日本選手権7連覇を達成したが、その2日後に阪神・淡路大震災が勃発、部存続の危機を迎える。テニス界では、伊達公子が全仏オープンで日本人初のベスト4進出、ウィンブルドンでは松岡修造が日本人として62年ぶりのベスト8進出と、世界に飛躍する年となった。
世界に飛躍すると言えば、忘れてはならないのが野球界の野茂英雄である。
最近、筆者が読んだ本の中で面白かったのが『革命前夜』(著:喜瀬雅則、文藝春秋)だ。当時、近鉄バファローズのエースだった野茂が1995年、いかにしてメジャー・リーグ(MLB)に挑戦したかについて詳しく書かれている。
メジャー挑戦の前年となる1994年の野茂は、近鉄の監督だった鈴木啓示と激しく対立していた。鈴木と言えば、歴代4位となる通算317勝を挙げたサウスポー。座右の銘が『草魂(雑草のように強く生きよ)』であり、根性で弱小時代の近鉄を支えた大エースである。
一方の野茂は、当時の日本プロ野球(NPB)には珍しく、メジャー流の合理的な練習方法を採り入れていた。ウェート・トレーニングを重視し、過度な投げ込みは行わず適度に肩を休ませるという調整方法。そんな野茂の後押しをしたのがトレーニング・コーチの立花龍司だ。野茂のみならず、近鉄投手陣はみんな立花コーチに心酔し、近鉄は常に優勝を争うチームとなった。
さらに、野茂の新人時代からの監督だった仰木彬も、調整方法は野茂に任せ、また野茂独特のトルネード投法も弄ろうとはしなかったのである。
ところが、仰木に代わって近鉄の監督に就任した鈴木は、野茂のやり方が気に食わなかった。立花コーチを冷遇して退団させ、投手陣には投げ込め、走り込めという、自身が行ってきた前近代的な練習方法を強要したのである。野茂に対しては、トルネード投法をやめさせようとした。
さらに、完封目前での突然の降板指令や、逆に191球の完投強要など、納得のいかない起用法が続く。遂には肩を痛めてしまい、新人年以来4年連続最多勝&最多奪三振を誇ってきた野茂は、シーズン半ばにして二軍落ち。その記録は途切れてしまった。
シーズン終了後、契約更改交渉で野茂は近鉄球団とも対立する。野茂が主張した、今では当たり前となっている複数年契約を、球団側は『前例がない』と拒否。すると野茂は、当時のNPBでは代理人交渉が認められていなかったにもかかわらず、団野村氏をエージェントに抜擢して対抗した。ちなみに団野村氏は、ノムさんこと野村克也の継子である。
もはや近鉄に見切りをつけた野茂は団野村氏に、かねてから夢だったメジャー挑戦を打ち明けた。まだポスティング・システムなどない時代、フリー・エージェント(FA)制度はあったものの取得までの年数が長く、30歳を超えるためメジャー挑戦は難しくなる。そこで野茂と団野村氏は野球協約を徹底的に調べ上げ、メジャー挑戦への抜け道を見付け出した。
任意引退である。自由契約の場合は文字通り自由に移籍できるが、任意引退では前所属球団の許可が必要だ。しかし、それは相手がNPB球団に限ってのこと。海外の球団には、その拘束力が及ばないのだ。言い換えれば、任意引退すれば自由にMLB球団と契約できるのである。
この件について、筆者は団野村氏に質問したことがあった。
「現役時代の山本和行さん(阪神タイガース)が球団にメジャー挑戦を訴えたとき、任意引退ではなく自由契約に拘りましたが、任意引退ではメジャー球団と自由に交渉できなかったからだと思います。本当に任意引退でもメジャー球団には入団できたのですか?」
「山本さんのことは知りませんでしたが、僕は野茂さんと一緒に野球協約を調べたんです。すると、メジャー球団には日本プロ野球の任意引退の規定は抵触しないことが判りました」
▼野茂が在籍していた頃の、近鉄の本拠地だった藤井寺球場が解体されていく

日本人メジャー・リーガーなんて夢また夢と思われていた時代
この論理が通用すれば、メジャーに挑戦したければ誰でも任意引退すればいいことになる。現在ではこの方法は不可能だが、何故こんなザル法が当時のNPBでまかり通っていたのか?
それは、この頃は日本人選手がメジャーで通用するなど、微塵も思われていなかったからである。それほど、MLBとNPBのレベルの差は大きかったのだ。
▼ボブ・ホーナー逝去! 野球もプロレスも外国人天国だった時代
1964~65年にマッシーこと村上雅則が、日本人初のメジャー・リーガーとしてサンフランシスコ・ジャイアンツと契約したが、マッシーの場合は南海ホークス(現:福岡ソフトバンク ホークス)の留学生としてジャイアンツ傘下の1Aチームでプレーしていたところ、ジャイアンツ関係者の目に留まり、メジャー昇格したということで、最初からMLBに挑戦したわけではなかった。
マッシー以降、何人かの日本人選手がメジャー挑戦したが、NPB一軍ではチャンスが少なかった選手がほとんどで、いずれも失敗。実績充分の選手としては江夏豊がいたが、江夏の場合は36歳で全盛期を過ぎており、西武ライオンズを自由契約になってからのメジャー挑戦だった。
つまり、NPBの中心選手がメジャー挑戦なんて、誰も思わなかったのだ。わざわざ日本での安定した生活を捨てて、通用するわけがないMLBに挑戦したところでマイナー・リーグの3Aが関の山。NPBの1/10ぐらいの年俸になり、異国の地で路頭に迷うと考えられていたのである。
しかし、野茂は本気だった。26歳の今、全盛期だからこそメジャーに挑戦したいと思ったのだ。
野茂と団野村氏の作戦通り、任意引退を近鉄球団に認めさせた。そして翌1995年2月13日、ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約する。年俸は近鉄時代の1/10以下となった。当時の日本人選手は、その程度の実力だとMLBでは思われていたのである。
それでも、メジャーのキャンプに招待選手として参加した野茂は頭角を現し、見事に開幕ローテーションを勝ち取った。そして、5月2日にはメジャー初登板、初先発を果たし、マッシー以来2人目の日本人メジャー・リーガーとなったのである。さらに6月2日、ニューヨーク・メッツ戦で遂にメジャー初勝利を挙げた。これも日本人としては、マッシー以来2人目だ。
余談ながら、筆者が尊敬するスポーツ・ノンフィクション作家の山際淳司さんが46歳の若さで亡くなったのは、その4日前の5月29日。実は、この年のMLBは前年からのストライキが長引き、開幕が1ヵ月も遅れていた。もし例年なら、山際さんは野茂の初勝利を見届けていただろうにと思うと、あのストは悔やまれる。
山際さんは亡くなる2週間前まで、病魔と闘いながらNHK『サンデースポーツ』のメイン・キャスターを務めていたのだ。山際さんには、野茂のメジャー初勝利をテレビで伝えて欲しかった。
初勝利を挙げてからの野茂は、まさしく快進撃。奪三振の嵐で、ストにより多くのファンを失っていたMLBは、再び客をボールパークに呼び戻し、野茂はMLBの救世主とさえ言われた。
そして7月11日、野茂はオールスター戦で栄誉あるナショナル・リーグの先発マウンドに立つ。つまり野茂は、ナ・リーグ最高の投手と認められたのだ。
シーズンが終わって野茂は13勝6敗、防御率2.54、236奪三振で最多奪三振と新人王を獲得。鈴木監督は「野茂がメジャーで通用するわけないやろ!」と言っていたが、それを見事に覆した。
その後、日米間にルールが整えられ、日本人選手は次々とMLBに挑戦するようになる。イチローや松井秀喜、松坂大輔、田中将大、そして大谷翔平らも、野茂がNPBとMLBの間にあった重い扉をこじ開けなければ、メジャー・リーグで活躍する姿は見られなかっただろう。
photo:George Napolitano
一方、野茂に逃げられた近鉄バファローズは10年後、2005年のNPBには既に存在しなかった。赤字が続いたため、その前年に勃発した球界再編騒動により、オリックス・ブルーウェーブに吸収合併され、オリックス・バファローズになったからである。
野茂のMLB球宴初登板4日後にデビューした4代目タイガーマスク
1995年、野茂により野球界が転換期となったように、プロレス界もターニング・ポイントを迎えていた。この年にプロレス界で起きた主な出来事を、思い付くままに列挙してみよう。
●1月19日:阪神・淡路大震災の2日後に行われた大阪府立体育会館での全日本プロレスの三冠ヘビー級選手権、川田利明vs.小橋健太(現:建太)は60分フルタイムの引き分けという名勝負。
●4月2日:週刊プロレスを発行するベースボール・マガジン社が東京ドームでプロレス・オールスター戦『夢の懸け橋』を開催。週刊プロレスと週刊ゴングの対立が深まる。
●4月28、29日:新日本プロレスが北朝鮮で『平和の祝典』を開催。多額の借金を負う。
●10月9日:東京ドームで新日本プロレスvs.UWFインターナショナルの全面対抗戦を開催。メインで新日の武藤敬司がUインターの高田延彦に4の字固めでギブアップ勝ち。
●10月25日:このシリーズから全日本プロレスに、UWFインターナショナルの最強外国人だったゲーリー・オブライトが参戦。この日の日本武道館、川田利明に腕ひしぎ十字固めでギブアップ負けしたものの、鎖国を続けていた全日が開国したと話題に。
ざっと挙げてみただけでも、これだけの出来事が1995年に集中している。ひょっとしたら、この大事件が抜けてるぞというのがあるかも知れないが、その場合はご容赦いただきたい。
そして、抜けているというか、わざと上には書かなかった出来事がある。
それが、先日の7月7日に引退した4代目タイガーマスクのデビュー戦だ。4代目タイガーマスクは1995年7月15日、『’95格闘技の祭典』でザ・グレート・サスケと闘い、タイガーマスクとしてのデビューを飾っている。
1995年7月15日と言えば、野茂がMLBオールスター戦に先発登板した4日後だ。
▼31年間守り抜いた虎の魂 4代目タイガーマスクが感動の引退試合
しかし、正直に言うと1995年は上記のような出来事が目白押しだったため、4代目タイガーマスクのデビューの印象は薄い。言葉を選ばずに言えば「ハイハイ、どうせすぐにマスクを脱いで正体を晒すんでしょ」と醒めた目で見ていたのである。
もう既に3人ものタイガーマスクがいたのだ。オマエはストロング・マシーンか! とツッコんだほどである。タイガーマスクはもうええやろ、と。