[週刊ファイト6月11日期間] [ファイトクラブ]公開中
▼ボブ・ホーナー逝去! 野球もプロレスも外国人天国だった時代
by 安威川敏樹
・日本野球がメジャー・リーグに全く歯が立たなかった1980年代以前
・現在の大谷フィーバー以上に日本中を席巻したホーナー・フィーバー
・ホーナーなど問題にならないほどの全日本プロレス超豪華外国人
・NWAがメジャー・リーグだとしたら、PWFは日本プロ野球
・ジャイアント馬場が伊勢海老で、アントニオ猪木はステーキ!?
・ブシロードの新日本プロレス株式譲渡による、海外団体との関係は?
プロ野球(NPB)のヤクルト スワローズに在籍していたボブ・ホーナーさんが68歳で亡くなった。筆者が、NPBでプレーした選手でド肝を抜かれたのは大谷翔平でもなければ、王貞治やランディ・バースでもない。まさしく、このホーナーさんだったのである。
野球もプロレスも黄金時代と言われた1980年代、両者にはある共通項があった。それは、外国人天国だったという点である。(本文中敬称略)

日本野球がメジャー・リーグに全く歯が立たなかった1980年代以前
ボブ・ホーナーがヤクルトに入団したのは1987年。当時はまだ、日本人メジャー・リーガーが1人もいない時代だ。1964~65年にマッシーこと村上雅則投手が日本人初のメジャー・リーガーになって以来、30年も日本人がメジャー・リーグ(MLB)でプレーしたことはなかった。
その30年間、MLBを目指した日本人がいなかったわけではない。1985年には、当時NPBで最高のクローザーだった江夏豊が西武ライオンズを退団、ミルウォーキー・ブルワーズのキャンプに招待選手として参加したが、オープン戦で結果を残せず、開幕直前で解雇された。
ホーナーが来日する前年の1986年、オールスター・チーム同士による日米野球が行われている。それまではMLB単独チームが来日することはあったが、お互いにプロのオールスター・チーム同士で7戦以上行われたシリーズは初めてであった。
MLB単独チーム相手では、NPBオールスター・チームなら互角以上に闘えるようになっており、オールスター同士でも日本はかなり善戦するのではないかと期待されたのである。
しかし、結果は無残なものだった。日本は1勝6敗と惨敗しただけではなく、ホームランが日本の2本に対し、メジャーは19本。パワーの差を見せ付けられ、この年に2年連続3回目の三冠王に輝いたロッテ・オリオンズ(現:千葉ロッテ マリーンズ)の落合博満は「メジャーには半永久的に追い付けない」と完全にカブトを脱いだ。
落合が完璧に捉えて本人もホームランを確信した当たりが失速してセンター・フライに倒れたのに対し、メジャーの打者は当たり損ねの打球がそのままスタンド・インしてしまう。
その落合が翌1987年、ロッテから中日ドラゴンズに移籍した。これによりセントラル・リーグでは、やはり前年まで2年連続三冠王を獲得していた阪神タイガースのランディ・バースとの三冠王対決が注目されたのである。
だが、その2人の三冠王を吹き飛ばした男がいた。他ならぬボブ・ホーナーだ。
▼ザ・デストロイヤー(左)の隣りにいるランディ・バース

現在の大谷フィーバー以上に日本中を席巻したホーナー・フィーバー
当時のNPBは、外国人選手の成績がチームの順位を左右すると言われており、打撃部門のタイトル・ホルダーの多くが外国人選手という、まさしく外国人天国だった。ところが、来日する外国人選手は3Aクラスのマイナー・リーガーがほとんど。史上最強の助っ人と言われたバースだって、MLBでの通算ホームランは僅か9本で、事実上のマイナー・リーガーだったのである。
もちろん、MLBで実績を残した選手も来日したが、とっくに盛りを過ぎたロートルばかりだった。これは当たり前の話で、中心選手をMLB球団が手放すわけがなかったのだ。
ところが、ホーナーは来日する前年の1986年、アトランタ・ブレーブスの四番打者として27本塁打も放っていたのである。年齢もまだ29歳と、まさしくバリバリのメジャー・リーガーだったのだ。これほどの選手がNPB球団に入団したのは初めてである。
そんな選手がなぜ来日したのか? それは、当時はフリー・エージェント(FA)制度により各MLB球団の財政が逼迫し、コミッショナーが各オーナーにFA選手を買い漁るな、と通告したからである。よほどのスーパースターでない限り、オーナー連中はFA選手を締め出したのだ。
そのため、FA宣言をしたホーナーを獲得しようとする球団が現れず、やむなくホーナーはブレーブスに戻ろうとするが、ブレーブスが屈辱的な減俸を突き付けてきたのでホーナーは契約を断固拒否、どの球団にも所属しない宙ぶらりんな状態となった。
そこへ、ヤクルトがホーナー獲得に名乗りを挙げたのである。困窮に喘ぐMLB球団とは対照的に、当時のヤクルトはバブル景気の真っ只中だったのでカネが有り余っていた。そこで松園尚巳オーナーが、本物のメジャー・リーガーを獲得せよと駐米スカウトに命じていたのである。
ホーナーは3億円という、当時としては破格の年俸でヤクルトと契約した。この年の日本人最高年俸だった落合の1億3千万円の2倍以上である。
何しろ、南海ホークス(現:福岡ソフトバンク ホークス)の先発メンバー10人(外国人選手を含む)の総年俸よりも、ホーナー1人の年俸の方が高かったぐらいだ。
NPBの開幕には間に合わず、5月に来日したホーナーはデビュー戦となる明治神宮球場での阪神戦でいきなり名刺代わりの一発。翌日の阪神戦では、なんと3本塁打を放った。
筆者はこの試合をよく憶えている。特に3本目のホームランは、センター・ライナーだと思った打球がそのままバックスクリーンに飛び込んだ。その打球の恐ろしさに驚愕し、筆者は阪神ファンながらバースとはレベチだと思ったものである。
「ホーナー改めホーマーだ!」「そんなアホーナー」。翌日から日本中にホーナー・フィーバーが巻き起こった。大袈裟ではなく、そのフィーバーぶりは現在の大谷フィーバーよりも遥かに上だったのである。ホーナーの大活躍により、バースや落合の存在が霞んでしまったほどだ。
シーズン途中からの登録、また故障もあって93試合出場にとどまったが、規定打席に届かなかったにも関わらずホーナーは31本塁打を記録した。つまり、3試合に1本はホームランを打っていた計算になる。ちなみに、この年のセ・リーグのホームラン王はホーナーやバース、落合ではなく、3Aクラスに過ぎなかった新外国人のリチャード・ランス(広島東洋カープ)だった。
2年目のホーナーの活躍も期待されたが、マスコミに追い掛け回される毎日に、敬遠の嵐や送りバントの多さ、MLBとは違うストライク・ゾーンにダラダラした試合運びと、日本での生活および日本野球に嫌気が差し始める。
そして「日本のベースボールは野球という名の別のスポーツだ」という捨て台詞を残し、翌年の1988年にはMLBに戻ってしまった。ホーナーは95万ドル(約1億円)という、ヤクルト時代の1/3の年俸でセントルイス・カージナルスと契約したのである。
だが、当時のMLBでは日本帰りの選手は『欠陥商品』。レベルの低い日本野球と狭い日本の球場(当時の日本の球場は両翼91m程度で、両翼100mの本拠地球場は無かった)に慣れてしまったホーナーはメジャーでは通用せず僅か3本塁打に終わり、その年限りで31歳という若さでの引退を余儀なくされた。
また、来日前のホーナーはたしかに実績充分のメジャー・リーガーで地元アトランタでは人気者だったが、全米のスターだったわけではない。獲得したタイトルは新人王だけで、打撃主要三部門(首位打者、ホームラン王、打点王)のタイトル争いとは無縁だったのである。
その程度の選手が日本では最強のスーパースターになったほど、日米の実力差は明らかだった。それだけに、現在の大谷翔平や村上宗隆らのメジャーでの活躍を見ると信じられない思いである。
▼ホーナーがヤクルト時代に本拠地としていた頃の明治神宮球場は両翼91mと狭かった

ホーナーなど問題にならないほどの全日本プロレス超豪華外国人
冒頭で記した通り、1980年代のプロレス界も外国人天国だった。野球界と違うのは、プロレス界では全米でも通用するスーパースターが来日していた点である。
力道山時代の全米スーパースターと言えばバディ・ロジャースやアントニオ・ロッカだったが、彼らを来日させることは出来なかった。だが、ジャイアント馬場やアントニオ猪木の時代になると、世界チャンピオン・クラスが隈なく来日するようになったのである。これは、日本テレビとNETテレビ(現:テレビ朝日)の2局放送により、テレビ放映権料が倍増した影響が大きい。
その後、日本プロレスが崩壊して3団体時代になったが、馬場の全日本プロレスは凄かった。当時、世界最大のプロレス組織と言われたNWAに加盟したため、ハーリー・レイスやジャック・ブリスコ、リック・フレアーなどのNWA世界ヘビー級チャンピオンが来日していたのである。これを1980年代以前の野球に当てはめると、ハンク・アーロンやノーラン・ライアンらMLBオールスター軍団が大挙してNPB球団に入団するようなものだ。彼らはボブ・ホーナーの比ではない。
国際プロレスは、NWAに次ぐプロレス団体と言われたAWAと提携していたが、いかんせん資金力不足だったため提携解消、以降は全日がAWAと関係を持つようになったのだ。つまり、全日はNWAとAWAという二大巨頭とガッチリ手を組んだのである。
▼世界最高峰からインディーへ転落したNWA~消えたプロレス団体
▼日本的団体だったアメリカ№2の存在、AWA~消えたプロレス団体
AWAからはバーン・ガニア、ニック・ボックウィンクル、リック・マーテルらが全日に来襲した。1985年には、東京・両国国技館でリック・フレアーvs.リック・マーテルという、NWA&AWA世界ヘビー級のダブル・タイトル戦を実現させている。
他にもドリー・ファンクJr.&テリー・ファンクのザ・ファンクスや、ミル・マスカラス&ドス・カラスという、大人気兄弟コンビを来日させていた。アブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークの地上最凶悪コンビも忘れ難い。