[ファイトクラブ]日本的団体だったアメリカ№2の存在、AWA~消えたプロレス団体

[週刊ファイト10月10日]期間 [ファイトクラブ]公開中

▼日本的団体だったアメリカ№2の存在、AWA~消えたプロレス団体
 by 安威川敏樹
・AWAの原型は、力道山が興した日本プロレスだった!?
・国際プロレスとAWAが提携するも、高額ギャラがネックとなり解消
・ライバルNWAとタッグを組んで、プロレスリングUSAを発足
・レスラー系プロモーター、最後の砦


 決して№1にはならないが、二番手的存在として異彩を放つ人や組織がある。東京に対する大阪、巨人に対する阪神、東大に対する京大、大鵬に対する柏戸、ルパン三世に対する次元大介など。
 №2は時として№1以上に輝く時があり、№1よりも№2的存在の方が好きだという人も多い。筆者もそのクチだ。

 アメリカのプロレス団体として二番手の地位を保っていたのはAWAだろう。1980年代以前、世界最高峰と言われていたのがNWAで、常に№2だったのはAWAと言っても過言ではない。
 AWAがNWAを抜いて№1になることはなかったが、アメリカのメジャー団体であり続けた。

▼世界最高峰からインディーへ転落したNWA~消えたプロレス団体

[ファイトクラブ]世界最高峰からインディーへ転落したNWA~消えたプロレス団体

AWAの原型は、力道山が興した日本プロレスだった!?

 ミネアポリスにAWAが設立されたのは1960年。American Wrestling Association、訳すと米国レスリング協会である。
 当時、全米をプロモートしていたNWA(National Wrestling Alliance=全米レスリング同盟)からバーン・ガニアが独立、AWAを設立した。このあたり、ボクシングでWBAから分離したWBCと経緯が似ているが、WBCが設立されたのは1965年だから、AWAの方がWBCよりも5年先輩である。

 当時のガニアは、まだ34歳で現役バリバリのプロレスラー。NWAでももちろんメインを張っていた。当時、NWAの会長だったサム・マソニックと対立したため、NWAを飛び出してAWAを設立したのである。
 AWAは『協会』と名乗りながら、その実態はガニアのワンマン会社。自らがAWA世界ヘビー級チャンピオンとなり、長年その座に居座り続けながらAWAのオーナーも務めた。ガニアのニックネームは『帝王』だったが、帝王というよりは独裁者である。

 このあたりがライバルのNWAとの違いだ。NWAの会長は年に一度の総会によって決められ、ガニアのように1人の人間が半永久的にリーダーを務めることはない。もっとも、ガニアだって現役中はAWA会長職には就かなかったが、事実上のボスと言っても差し支えはないだろう。
 一方、NWAの象徴的チャンピオンだったルー・テーズがNWAの会長を務めなかったように、NWAでは現役のチャンピオンが会長の座に座ることもなかった。

 AWAの形態は、ボクシングで言えば王者時代のモハメド・アリがWBAの会長を務めるようなものだ。こんな歪な状態だと、ボクシング・ファンから一斉に大バッシングを浴びるに違いない。
 ガニアが最後にチャンピオンとなったのは1980年、なんと54歳の時だった。そして、王者のまま55歳で引退したのである。

 この形態によく似ていたのが、日本のプロレス界だ。1953年に力道山が日本プロレスを設立、エース・レスラーになると共に、社長でもあった。AWAが設立される7年も前の話である。ガニアは日プロを真似たわけではないだろうが、結果としてAWAは日本プロレスに似た組織となった。
 日プロ設立10年後の1963年、力道山は暴力団員に刺されて死亡。インターナショナル・チャンピオンのままキャリアを終えたというのも、ガニアと似ている。

 日プロは、日本プロレス協会と日本プロレス興行、日本プロレス・コミッションの3本立てだったが、これはいかにも公的団体らしさを見せかけたもの。
 興行部門が倒産すると、親亀コケたら皆コケたの論理に則って、協会部門もコミッションも消滅した。日プロの実態は協会でも何でもなく、単なる営利団体だったわけだ。

 そのあたりもAWAと似ている。もっとも、日米を問わずプロレス団体とはそのようなもので、プロモーターの同盟組織だったNWAは別として、WWEの前身であるWWFだってWorld Wrestling Federation(世界レスリング連盟)、即ち連盟だった。しかし実態は、ビンス・マクマホン親子が牛耳る営利団体である。
 それが現在ではWWEとなってWorld Wrestling Entertainment、つまりエンターテインメント会社と堂々と名乗るようになった。

 それでも、WWFやWWEではマクマホン親子がレスラー兼オーナーというわけではない。もっとも、マクマホンJr.の方はレスラーとしてリングに上がったことはあるが、正規のプロレスラーとは言えないだろう。
 このあたり、AWAのオーナー兼チャンピオンだったガニアは、アメリカのメジャー団体では特殊なケースに思える。似たような組織としては、ジョニー・パワーズが設立して自らがチャンピオンとなったNWFがあるが、AWAに比べると規模は遥かに小さかった。

▼NWFのオーナー兼チャンピオンだったジョニー・パワーズ

国際プロレスとAWAが提携するも、高額ギャラがネックとなり解消

 日本プロレス崩壊後、日本の男子プロレス界は全日本プロレス、新日本プロレス、国際プロレスの3団体時代となる。このうち、全日はジャイアント馬場、新日はアントニオ猪木という、力道山の日プロと同様に団体のエースが社長となった。
 国プロのみ、現役レスラーではない吉原功が社長を務める。もっとも、吉原だって元レスラーだったのだが。つまり、当時の日本の男子プロレスでは『背広組』を認めてなかったわけだ。

 AWAは、その国プロと業務提携する。NWAに加盟した全日、WWFと太いパイプを繋いでいた新日というように、アメリカと同じく日本でも3団体がクッキリ分かれた。
 しかし、国プロの外国人エースだったAWAのビル・ロビンソンは国プロを脱退して新日マットで猪木と名勝負を繰り広げ、そのあとは全日を主戦場とする。同じく国プロのマットに上がっていたモンスター・ロシモフはアンドレ・ザ・ジャイアントと名を変えると新日のスター外国人となるなど、国プロはことごとくAWAの有力外国人レスラーに逃げられたのだ。

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