[週刊ファイト02月05日]期間 [ファイトクラブ]公開中
▼追悼・ボビー・ダンカンさんアーバン・カウボーイは永遠に
編集部編
・プロレス界のレジェンド、ボビー・ダンカンさん逝去
・海外でのキャリアを称えるボビー・ダンカンさんの壮麗なる歩み
・日本マット界で輝いた異色の名カウボーイBダンカンさんの軌跡
・ボビー・ダンカンさんが現代プロレスに遺した不朽の影響力
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“プロレス界のレジェンド、ボビー・ダンカンさん逝去

米国テキサス州オースティン出身で日米のプロレス界に大きな影響を残したボビー・ダンカンさんが、2026年1月21日に81歳で逝去した。昨年末からプロレスOB団体カリフラワー・アレイ・クラブや世界最大のプロレス団体WWEが訃報を発表し、ボビー・ダンカンさんの死去が明らかになった。WWEは公式声明で「テリトリー時代に最も恐れられた悪役の一人であり、屈強なカウボーイとしてリングで屹立した存在」と称え、彼のプロレス界への多大な貢献を追悼している。
ボビー・ダンカンさんは1944年8月14日生まれで、ウェストテキサス州立大学を卒業後、1967年のNFLドラフトでセントルイス・カージナルスに指名され、アメリカンフットボール選手としてもキャリアをスタートさせたものの4試合のみの出場にとどまり、1969年に本格的にプロレスラーへ転向した経歴を持つ。プロレスラーとしてのデビューは1966年頃に遡り、ドリー・ファンクJr.に師事してリングに上がるなど、当初から注目を集める存在であった。
以降、ボビー・ダンカンさんはWWWF(現WWE)に参戦し、当時のWWWFヘビー級王者ブルーノ・サンマルチノに世界王座戦で挑戦するなどトップヒールとして活躍した。またNWAではドリー・ファンク・ジュニアの世界王座に挑戦し、AWAではのちに世界的スターとなるハルク・ホーガンとの抗争を繰り広げるなど、日米両国でその存在感を強烈に示した。WWEは彼を「テキサス州オースティン出身の屈強なカウボーイ」と評し、そのタフネスと悪役としての風格を称賛した。
日本プロレス界でも、その足跡は深い。ボビー・ダンカンさんは1969年4月に日本プロレスに初来日し、ジャイアント馬場と坂口征二のタッグと激突するなど日本のファンにも強烈な印象を残した。1973年と1975年には全日本プロレスに参戦し、さらに1980年12月29日には米ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで当時のNWFヘビー級王者アントニオ猪木に挑戦するなど、そのキャリアは国際的な舞台で華々しく展開された。1981年からは新日本プロレスの常連外国人として活動し、スタン・ハンセンとはウエスト・テキサス大学時代の先輩・後輩としてタッグを組んだこともあり、その影響は計り知れないものがあった。これらの試合や挑戦は、日本のプロレス史においても特筆すべき出来事として語り継がれる。
特にカウボーイスタイルのコスチュームとラフファイトを売りとしたファイトスタイルは、同時期に来日していたスタン・ハンセンに大きな影響を与えたと評され、プロレスラーとしての魅力と技術は次世代にも受け継がれていった。WWE公式Webでは追悼メッセージとして「ダンカン・シニア氏の家族、友人、ファンに哀悼の意を表します」と掲載され、彼の功績を称える言葉が綴られた。
また、ボビー・ダンカンさんの家族においてもレスラーの血は受け継がれていた。息子のボビー・ダンカン・ジュニアさんもプロレスラーとしてWCWや全日本プロレスで活躍したが、2000年1月に34歳の若さで逝去している。この事実は、父子二代にわたってプロレス界へ与えた影響の重みを改めて感じさせるものであり、その歴史は悲しみと共に語られるべきものである。
ボビー・ダンカンさんがリングで見せたカウボーイレスラーとしての気概と、世界各地のファンに残した熱い戦いは、永遠にプロレス界の記憶として刻まれるであろう。彼の足跡は今後も多くのファンとレスラーに語り継がれていくに違いない。
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“海外でのキャリアを称えるボビー・ダンカンさんの壮麗なる歩み

ボビー・ダンカンさんはアメリカ合衆国テキサス州オースティン出身のプロレスラーであり、単に強豪外国人レスラーという枠を超え、1960年代末から1980年代にかけて世界中のレスリング界で比類なき存在感を放った人物である。大学時代にはウエスト・テキサス州立大学でアメリカンフットボールに励み、NFLドラフトでセントルイス・カージナルスに指名された選手としての俊英ぶりを示しつつも、リングの上でこそ自らの真価を究めんと決意し1969年に本格的にプロレス界へと転身したのである。彼の身長193cm、132kgという恵まれた体格はそのままリング上の迫力となり、カウボーイを象徴するラフファイトと屈強なフィジカルを併せ持つスタイルは、多くのファンや同業者の心を捉えた。
WWEの前身であるWWWFにおいては、1974年10月にデビューを果たして以来、ニューヨークのマディソンスクエアガーデンを幾度となく沸かせる主力外国人ヒールとして活躍し、ヘイスタック・カルホーンやラリー・ズビスコといったスターを撃破する実力を見せつけ、同年11月18日と12月16日にはWWWFヘビー級王座を保持するブルーノ・サンマルチノに立て続けに挑戦するという栄誉を果たした。これらの試合は単なる力比べにとどまらず、激烈かつ戦略的な戦いとして観衆を魅了し、過酷な戦いの中で彼が見せた耐久力と闘志は、1980年12月29日に再びマディソンスクエアガーデンでアントニオ猪木とNWFヘビー級王座を賭けて戦った際にも十分に発揮されたものである。これらの挑戦により、ボビー・ダンカンさんは単なる外国人レスラーではなく、国際的な舞台でも観客の記憶に残る存在となった。
その後、アメリカ国内ではAWAに乗り込み、1976年7月23日にはブラックジャック・ランザとタッグを結成してディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーを破りAWA世界タッグチャンピオンの栄誉を掴む偉業を成し遂げ、1977年にタイトルを失うまでほぼ1年という長期政権を築き上げた。AWAにおいてはヒールユニット「ヒーナン・ファミリー」の一員として、ニック・ボックウィンクルの用心棒的役割を果たし、同団体のストーリーを牽引した立役者として賞賛される存在であったのである。ヒールとしての表現力、チームワーク、そしてタイトル戦線での成功は、単なる強さを超えて興行としての質を高める要素となり、観客からは嫌悪と同時に敬意すら抱かれる立場を確立していた。