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▼商店街プロレス2025:大日本プロレスが地域に刻んだ「最強の現場主義」
(C)大日本プロレス公式 編集部編
・商店街プロレスという“文化装置”―2025年、大日が示した地域密着の到達点
・中山商店街プロレスという完成形―2025年、地域密着プロレスの到達点
・六角橋商店街プロレス―「大日らしさ」を貫いた、最も挑戦的な一日
・幡ヶ谷六号通り商店街プロレス―プロレスが“最初の思い出”になるということ
・商店街プロレスは何を獲得し、どこへ向かうのか―2025年が示した現在地と未来
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商店街プロレスという“文化装置”―2025年、大日が示した地域密着の到達点

プロレスが「興行」である以前に、「文化」であることを、これほど明確に示すシリーズが他にあるだろうか。2025年においても、大日本プロレスが継続して取り組んだ「商店街プロレス」は、単なる地方巡業や無料イベントという枠をはるかに超え、地域社会に深く根を張った“公共性の高いプロレス”として、確かな存在感を放っていた。
商店街プロレスの最大の特徴は、言うまでもなく「無料」であることだ。だが、この“無料”という一点を、安易に集客策やサービス精神として片付けてしまうのは、あまりに浅い理解と言わざるを得ない。
本シリーズにおける無料開催とは、「プロレスを見せる側が、まず地域に身を差し出す」という姿勢そのものを意味している。チケット代という心理的・経済的なハードルを取り払い、通りすがりの人、買い物途中の家族連れ、プロレスに触れたことのない子どもや高齢者に対しても、等しく“リングの前に立つ権利”を開放する行為である。
これは、極めてラディカルな選択だ。
興行的な損得だけを考えれば、無料イベントは常にリスクを伴う。しかし大日本プロレスは、商店街という生活動線の只中にリングを置くことで、「プロレスを観に来させる」のではなく、「プロレスのほうから日常へ出向く」という逆転の発想を、2025年も一貫して貫いた。
商店街プロレスが持つ意義は、観客数や話題性だけでは測れない。むしろ重要なのは、その場に偶然居合わせた人々の時間を、どれだけ豊かに変質させたかという点にある。
プロレスという非日常的な肉体表現が、商店街という日常空間に突然現れる。その瞬間、いつもは素通りされる路地や駐車場が「会場」へと変貌し、買い物袋を提げた人々が自然と足を止め、声を上げ、笑い、驚き、時には息を呑む。その光景そのものが、地域にとっての財産である。
2025年の商店街プロレスを通じて、特に印象的だったのは、「プロレスを見に来た人」よりも、「結果的に最後まで見ていた人」の多さであった。この“結果的に”という部分こそが、商店街プロレスの核心だ。
プロレスファンであるかどうかは関係ない。技の名前を知らなくても、ルールを完全に理解していなくてもいい。目の前でぶつかり合う肉体、明確な善悪構造、全力で感情をぶつけ合う選手たちの姿は、理屈を超えて人の感覚に訴えかける。
そして何より、商店街プロレスでは選手と観客の距離が圧倒的に近い。ロープの外に広がるのは客席ではなく、生活の場だ。この距離感が、「プロレスは怖い」「近寄りがたい」という先入観を、静かに、しかし確実に溶かしていく。
また、地域貢献という観点で見逃せないのが、商店街側との関係性である。商店街プロレスは、決して“場所を借りてやるイベント”ではない。商店街、自治体、地域団体と連携し、祭りや催しの一部として組み込まれることで、プロレスが地域活動の当事者として機能している。
実際、2025年の各地の商店街プロレスでは、試合そのものだけでなく、子ども向け企画、選手との交流、飲食や買い物と結びついた回遊性が自然と生まれていた。プロレスが「人を集める装置」であると同時に、「人を滞在させ、街を歩かせる装置」として作用していた点は、非常に重要である。
さらに特筆すべきは、SNS時代との相性の良さだ。撮影可能というルールのもと、観客自身が発信者となり、写真や動画、感想を自然発生的に拡散していく。そこに広告的な押し付けはなく、あくまで「楽しかった」「近かった」「すごかった」という素朴な感情が、そのまま可視化されていく。
これは、作為的に作られたバズとは異なる。生活者の実感として共有されるプロレス体験であり、だからこそ信頼性が高い。
2025年の商店街プロレスは、派手な記録やセンセーショナルな事件がなくとも、確実に“積み重ね”の年であった。一つ一つの大会が、地域に小さな爪痕を残し、それがやがて「また来てほしい」「来年もやってほしい」という声へと変わっていく。その循環こそが、このシリーズの本質である。
プロレスが、社会とどう関わるのか。エンターテインメントが、生活の中でどんな役割を果たし得るのか。商店街プロレスは、その問いに対する一つの明確な答えを、2025年も提示し続けた。
次に振り返るべきは、各大会がそれぞれの商店街で、どのような表情を見せ、どんな熱を生み出したのかという具体像である。だがその前に断言しておきたい。商店街プロレスは、もはや「変わった無料イベント」ではない。地域に必要とされるプロレス文化の一形態として、確実に成熟段階へ入っている。
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中山商店街プロレスという完成形―2025年、地域密着プロレスの到達点

2025年の商店街プロレスを振り返るうえで、中山商店街大会を抜きに語ることはできない。この大会は、単に「盛り上がった」「人が集まった」というレベルを超え、商店街プロレスという試みが一つの完成形に到達した瞬間を、誰の目にも明らかに示した大会であった。
まず強調しておきたいのは、会場の空気感である。中山商店街は、もともと生活動線としての機能が非常に強い場所だ。買い物客、通勤・通学の途中にある人々、地元に長く住む高齢者まで、日常が絶えず流れている。その只中にリングが設置され、プロレスが始まった瞬間、空間の意味が一変した。
ネット上で最も多く見られた反応が、「近すぎる」「距離感がおかしい」という言葉だったのは象徴的である。
観客席という概念がほぼ存在せず、レスラーの息遣い、足音、衝突音がそのまま身体に届く。その体験は、普段から会場観戦に慣れたファンですら新鮮であり、ましてやプロレス初体験の人々にとっては、強烈な記憶として刻まれた。
XやInstagramには、「無料でここまで見せる意味がわからない」「商店街が揺れてる」「声出た」といった、理屈ではなく感情のまま書かれた投稿が数多く並んだ。
これらの言葉に共通しているのは、プロレスを“消費”した感覚ではなく、出来事として遭遇してしまったという驚きである。中山商店街プロレスは、観に行ったイベントではなく、巻き込まれた体験として語られていた。
また、この大会ではファン層の広がりが極めて明確に可視化された。従来の大日本プロレスファンによる投稿に加え、「たまたま通ったらやってた」「子どもが立ち止まって見始めた」「買い物のついでが最後まで見てしまった」といった、“非ファン視点”の声が大量に流通した点は、特筆に値する。
これは偶然ではない。中山商店街という立地、動線、視認性、そして大会構成が、意図せずとも人を巻き込む設計になっていた結果である。
試合内容についても、商店街プロレスの枠を軽々と超えていた。全選手参加のバトルロイヤルは、単なるお祭り的演出ではなく、「誰が勝つかわからない」という緊張感を最後まで保ち続けた。その展開が、通りすがりの観客にも直感的に伝わり、歓声やどよめきが自然発生的に生まれていった。
この点について、プロレス系メディアや取材経験のある視点から見ても、中山大会は非常に完成度が高い。商店街プロレスは、しばしば「地域向けだから内容は控えめだろう」と見られがちだが、この大会に限って言えば、その見方は完全に的外れである。