[週刊ファイト5月8日]期間 [ファイトクラブ]公開中
▼過激な仕掛け人vs.平成の仕掛け人! アントニオ猪木の正妻争い
by 安威川敏樹
・2人の『仕掛け人』がこの世を去った2025年
・何度も裏切られながらも、アントニオ猪木に心酔
・アントニオ猪木が政治家になってからも、蜜月とゴタゴタの繰り返し
・『鉄のカーテン』北朝鮮でビッグ・イベントを実現させたゴマシオ
・新間寿氏は『木星』、永島勝司氏は『土星』
・新間寿氏と永島勝司氏、アントニオ猪木にとっての『正妻』はどっち?
4月21日、本誌の既報どおり新間寿氏が亡くなった。享年90歳。新間氏といえば、故・アントニオ猪木の片腕として知られる『プロレス過激な仕掛け人』だ。
猪木&新間氏のタッグは、アントニオ猪木と他団体(国際プロレス)のエースだったストロング小林との一戦、あるいはモハメド・アリ戦やウィリエム・ルスカ戦などの異種格闘技戦と、不可能と思えるようなビッグ・マッチを次々と実現させてきた。
そして、今年は2月10日に、もう一人の猪木の側近がこの世を去っている。『平成のプロレス仕掛け人』『ゴマシオ』こと永島勝司氏だ。
永島氏も新間氏に負けず劣らず、猪木と組んで数々のビッグ・イベントを手掛けてきた。そんな2人が同じ年に亡くなるというのは、2025年を象徴する出来事と言える。
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何度も裏切られながらも、アントニオ猪木に心酔
新間寿氏とアントニオ猪木の付き合いは古い。1966年、猪木は豊登道春に誘われて日本プロレスを退団、新団体の東京プロレスを設立するが、その時に豊登の知り合いだった新間氏がフロント入りするのだ。
当時の新間氏は、化粧品会社の営業担当。僧侶だった父親と共に、東プロを支えることになった。この時、新間氏は31歳で、猪木は弱冠23歳。それでも、東プロでは事実上のエース社長となっていた8歳年下の猪木に対し新間は『社長』と呼んで敬語で話し、猪木は『新間』と呼び捨てにしてタメ口で話していた。
だが、猪木は新間親子が会社の横領を企てたとして告訴。怒った新間親子は、猪木を誣告罪で反訴した。
結局、刑事訴訟では新間親子が不起訴になったため、猪木は勝ち目がないと思ったのか告訴を取り下げ、さらに新間親子に頭を下げて反訴を取り下げてもらうよう懇願。新間親子も了承し、東プロが倒産した後は新間氏もプロレス界との縁が切れた。
この件で父親から勘当された新間氏は、零下10℃以下という極寒の鉱山で働くことになる。プロレス界という華やかな世界から一転、過酷な肉体労働が新間氏の人格を形成したのだろう。
勘当が解けた新間氏は、東京に戻ってパン屋を開業するなど一般人として生活していたが、1972年に猪木が新日本プロレスを旗揚げするとき、猪木は新間氏にフロント入りを打診した。新間氏は、猪木からのこの言葉をずっと待ち続けていたという。
この時の新間氏の心情を理解できる人はいないかも知れない。何しろ相手は、身に覚えのない横領を疑われて告訴までされた猪木である。普通なら、顔も見たくない相手のはずだ。
それだけ、プロレス界に戻りたかったのだろう。そして、人間・猪木寛至のことは憎んでも、プロレスラー・アントニオ猪木の大ファンだったということか。
ここからの新間氏の活躍は言うまでもあるまい。新日の専務取締役営業本部長となった新間氏は、冒頭でも記したようにストロング小林とのエース対決や、モハメド・アリらとの異種格闘技戦を実現させてきた。まさしく『プロレス過激な仕掛け人』の面目躍如である。
しかし、猪木と新間氏との蜜月関係にもヒビが入った。1983年に新日で勃発したクーデター事件により、新間氏は退社を余儀なくされる。言わばトカゲの尻尾切りに遭ったわけだが、クーデターは未遂に終わり、新間氏は不満分子を新日に置き去りにしようと猪木と共に新団体UWF(第一次)設立を企てた。しかし、新間氏はまた猪木に裏切られ、泥船のUWFの舵取りを任される。
▼1983年のアントニオ猪木~We Remember人間不信
アントニオ猪木が政治家になってからも、蜜月とゴタゴタの繰り返し
新間寿氏はアントニオ猪木に、UWFへの移籍料の手付金として2500万円を渡した。もっとも、猪木はこの件に関して否定しているが、待てど暮らせど猪木はUWFにやって来ない。新間氏や、UWFのエースと目されていた前田日明は猪木に裏切られたと憤慨した。
結局、新間氏は猪木に渡した2500万円を回収できなかった件で責任を取り、自ら設立したUWFを追われることになる。新間氏と猪木にとって、東京プロレス崩壊以来2度目となる『離婚』だ。
新日本プロレスを辞めてからの新間氏は、詐欺マルチ商法と言われたジャパンライフ㈱の政治団体、健康産業政治連盟の幹事長に就任。この時に新間氏が築いた人脈が、猪木との3度目の『結婚』に向かわせる。
1989年、猪木は参議院選挙の出馬を決意。そして、政界との繫がりが深い元参謀の新間氏に白羽の矢を立てた。俺が政治家になるためには、新間の力が必要だ、と。
しかし、新間氏は固辞。何度も猪木に裏切られ、もう信用できないと同時に、誰よりも元『女房』のアントニオ猪木を愛していた。これ以上、猪木に関わると、猪木寛至だけではなく、アントニオ猪木のことまで嫌いになりかねないと、新間氏は考えたのだ。
だが、猪木が土下座をしようとすると、新間氏は慌ててそれをやめさせる。アントニオ猪木に、そんなみっともないことをさせるわけにはいかない。遂に新間氏は猪木の熱意に折れて『再婚』し、猪木が興した政党であるスポーツ平和党の幹事長に就任する。
猪木は念願通り、選挙に勝って参議院議員になったが、新間氏との『夫婦生活』はまたしても長くは続かなかった。1991年、猪木は東京都知事選への出馬を決意。理由は、元NHKニュース・キャスターの磯村尚徳氏が出馬すると表明したからだ。
磯村氏は、アントニオ猪木vs.モハメド・アリの試合を「NHKでこんな茶番を取り上げるのはどうかと思いますが、猪木vs.アリは予定通り引き分けでした」とバカにして報じる。猪木はもちろん、新間氏にとっても許せる発言ではなかった。
▼モハメド・アリ(左)と新間寿氏(右)
しかし、猪木と磯村氏が共倒れになることを懸念した自由民主党は、猪木に対し出馬取り下げを説得。さらに、猪木は佐川急便に16億円もの借金を肩代わりしてもらうことと引き換えに出馬を断念した。
結局、猪木が出馬を取り下げても磯村氏は落選したのだが、これにより新間氏と猪木との関係にまたもや亀裂が入る。