[ファイトクラブ]プロレス界発展のため、政治と税金の利用……は諸刃の剣!

[週刊ファイト3月27日]期間 [ファイトクラブ]公開中

▼プロレス界発展のため、政治と税金の利用……は諸刃の剣!
 by 安威川敏樹
・戦後日本の政治と深く関わったプロレス界
・政治利用が最も著しいスポーツ大会
・政治家が絡み、プロ野球最大級の汚点となった『空白の1日事件』
・「政治家の介入を許すな!」三原マジックも虚しく横暴がまかり通る


 一般社団法人化し、公式サイトも開設して順調に歩み始めた日本プロレスリング連盟(UJPW)。
そのミッションの中に、以下のような文言がある(UJPW公式サイトより抜粋)。

・政府機関及び民間との関係性の強化
・行政と連携し、国内外の人々に活力を与える場を増やす

 つまり、政財界と連携してプロレスの発展を図り、社会貢献しようというわけだ。このあたりも本誌が主張していることで、UJPWの発足により政界に対する窓口が設置されて税金を活用できるようになったのは画期的である。
 ただし、これも諸刃の剣で、血税を使うのであれば国民に納得させなければならない。それに失敗すると、政治利用が却って批判されることになりかねないのだ。(本文中敬称略)

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戦後日本の政治と深く関わったプロレス界

 元々、プロレス界ほど政治に密着したスポーツはない。現在で言えば、石川県知事の馳浩がいるし、先日亡くなった西村修は東京都文京区の区議会議員だった。
 そして、何よりもアントニオ猪木が参議院議員になってからはプロレスラーによる政治家転身(あるいは兼任)が続出し、他にも大仁田厚や神取忍など、枚挙に暇がない。

▼その名はプロレスラー! ~政治家向き?の特異な商売~

[ファイトクラブ]その名はプロレスラー! ~政治家向き?の特異な商売~

 そもそも、日本のプロレスは成り立ちから政治に関わっていた。その中心人物が、他ならぬ力道山である。
 1953年、力道山が興した日本プロレス協会の初代会長は元政治家の酒井忠正だったし、当時は存在したコミッショナーには自由民主党副総裁の大野伴睦や川島正次郎、椎名悦三郎ら大物政治家が歴任した。要するに、総理大臣の一歩手前だった人物ばかりだ。

 ただし、この頃のコミッショナーは日本プロレス界全体のためのコミッションではなく、日本プロレス協会だけのためのコミッション。日本プロレス・コミッションは日本プロレス協会しかプロレス団体として認めず、いわば他団体潰しのために政治家が利用されたわけだ。
 事実、日本プロレス(協会と興行部門の二本立て)が崩壊すると、日本プロレス・コミッションも自然消滅している。早い話が、コミッショナーなど存在しなくても、プロレス興行には何の支障もなかったのだ。

 そもそも、力道山が活躍していた頃の日本社会は、実際には右翼や暴力団が動かしていたと言っても過言ではない。政界そのものが、反社会的勢力と癒着していたのである。
 ということは、政府与党に近しい日本のプロレス界も反社とツーカーだったのだ。それに、当時のプロレス興行は興行師と呼ばれる暴力団が取り仕切っていたし、山口組三代目組長の田岡一雄は日本プロレス協会の副会長まで務めた。何しろ田岡は、酒井忠正に「前科のあるもんは日本プロレス協会の役員になれまへんのんか」と尋ねたという逸話がある。

 そして、右翼の大物である『政財界のフィクサー』こと児玉誉士夫も、プロレス界に多大な影響を与えていた。児玉は、プロレス報道で有名な東京スポーツの初代オーナーでもある。
 児玉は、右翼団体はもちろん各暴力団を束ねるほどの実力者であり、反共活動に邁進した。日本と韓国を東アジアにおける反共の砦とし、日韓国交正常化の切り札として韓国嫌いの大野伴睦を口説き落としたのが児玉である。もちろん、朝鮮半島出身の力道山も日韓親善に協力し、死後に国交回復したのは皮肉だったが、プロレス界の要人が極東の政治情勢に深く関わっていたのだ。

 その後、日本では大企業が力を付けたため、反社はもう用なしと斬り捨てられた。とはいえ、未だに政財界と裏社会との癒着の噂は絶えない。いずれにしても、力道山の死を境に日本社会は大きな転換期に差し掛かった。
 力道山が亡くなった翌年の1964年には東京オリンピックと東海道新幹線の開通、日本は高度成長期を迎える。だが、日本プロレスが崩壊した1973年にはオイルショックが勃発し、日本経済に暗雲が立ち込めた。偶然とはいえ、プロレス界が日本社会とリンクしているのだ。なお、日本プロレス協会の最後の会長は、衆議院議員だった自民党の平井義一である。

 日本プロレス崩壊後、長らくコミッショナー不在だったが、1979年には新日本プロレスと国際プロレスが合同で二階堂進をコミッショナーに推戴した。二階堂も自民党副総裁である。
 日本プロレス時代とは違い、2団体によるコミッショナーなので一応は体裁が整ったように思えるが、実際はもう1団体の全日本プロレスをハブるためのコミッションであり、当然のことながらジャイアント馬場は激怒した。ここでも政治家が利用されたのだ。なお、二代目コミッショナーは新日信者の野末陳平であり、タレント議員ながら税金党の代表を務めた政治家である。

政治利用が最も著しいスポーツ大会

 プロレス以外のスポーツで、政治介入が激しいのはオリンピックだろう。というより、オリンピックは政治そのものだ。
 開催されるのは国単位ではなく都市単位だが、五輪誘致はまさしく国家事業となる。

 特に、国家間の対立がモロに出たのは、東西冷戦の真っ只中だった1980年代のオリンピックだろう。1980年に行われたモスクワ・オリンピックでは、ソ連(現:ロシア)のアフガニスタン侵攻に抗議したアメリカや日本など西側諸国がボイコット。次の1984年のロサンゼルス・オリンピックは逆に、社会主義国のソ連やキューバらが不参加となった。
 その後は東西冷戦の終結もあって、ほとんどの国がオリンピックに参加するようになったが、政治利用される体質は変わっていない。そのうえ、前述の84年ロス五輪から始まった商業化により、オリンピックは単なるスポーツ大会ではなく、カネ儲けの道具となった。『参加することに意義がある』というオリンピックのスローガンは、もはや死語となっている。

 なお、80年のモスクワ五輪の日本不参加によって、人生の歯車が狂ったのが谷津嘉章だ。谷津はレスリングで金メダル候補と言われていたが、ボイコットで出場できなかったことにより『幻の金メダリスト』と呼ばれるようになった。
 次のロス五輪まで4年も待てなかった谷津は、誘われていた新日本プロレスに入団。国内デビュー戦ではアントニオ猪木とタッグを組んで特番テレビ中継されるという破格の扱いだったが、スタン・ハンセンとアブドーラ・ザ・ブッチャーにフルボッコにされて、評価を落としてしまう。

 スポーツにタラレバは禁句だが、もし日本がモスクワ五輪に参加して、谷津が金メダルを獲得していたら、あのような惨めな国内デビューはなかっただろう。いくら意表を突くのが好きな猪木でも、金メダリストにあんな恥をかかせることはできなかったと思われる。
 金メダリストがコテンパンにやっつけられたら、プロレスの強さは印象付けられるが、アマレスなんてメチャメチャ弱いじゃないかと、谷津だけではなくレスリングそのもののイメージダウンとなってしまう。そうなれば、日本レスリング協会とのパイプが断たれ、新日は人材供給の場所を失うだろう。やはり、実際の金メダリストと『幻』では知名度が全然違う。

▼政治の国際情勢に振り回されて人生が変わってしまった谷津嘉章

 未だにオリンピックを、戦前のファシズムや戦後の共産圏のように、国威発揚として利用したのが、他ならぬ令和時代の日本。2020年(コロナ禍のため、実際に開催されたのは2021年)の東京オリンピック誘致のため、東京都はもちろん国を挙げてありとあらゆる手を打った。
 その時の決めゼリフ「お・も・て・な・し」と言った女性は後に、元首相の息子と結婚している。『おもてなし』ということは『うらがある』のか? などとブラック・ジョークも飛んだ。

 その56年前に行われた東京オリンピックにも、当然のことながら日本政府が深く絡んでいる。政府が関与しているということは、前項でも述べたようにプロレス界も関わっていたのだ。
 力道山は、道場を日本選手団に貸し出し、自分の元でみっちりトレーニングさせれば金メダル選手を生み出す自信がある、と嘯いている。

 さらに力道山は、ワールドリーグ戦で挙げた収益のうち1千万円を、東京オリンピック資金財団に寄付した。
「東京オリンピックを成功させるかどうかなんて議論している余地はもうない。何が何でも成功させなきゃならんのだ。それが日本の義務であり、誇りでもある」
と、力道山は寄付の理由を力説している。

 しかし、東京オリンピックの成功を夢見ていた力道山は、その晴れ舞台を見る前にこの世を去った。

▼1964年の東京オリンピックのメイン会場となった旧・国立競技場

政治家が絡み、プロ野球最大級の汚点となった『空白の1日事件』

 オリンピックは国が大きく関わるから政治関与も理解できるが、普通のスポーツでそれがあるとトンデモないことになる場合がある。それが実際にプロ野球(NPB)で起きた。
 1978年に勃発した『空白の1日事件』である。

 この年のドラフトの超目玉は江川卓投手だった。江川は前年のドラフトでクラウンライター ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)から1位指名を受けるも入団拒否、アメリカ留学してしまう。当時のクラウンは福岡を本拠地としており、江川は「九州は遠すぎます」と言ってクラウンを袖にしたが、実際には江川は読売ジャイアンツ(巨人)以外に行く気はなかった。
 普通、大学生がプロ拒否すると社会人野球に進むが、そうなると2年間の拘束期間があるため、プロ入りが少なくとも2年も遅れてしまう。それならば、野球浪人して1年後のドラフトに賭けようとしたのだ。さらに、このアメリカ留学にはもう一つの意味があったが、それは後に延べる。

 江川は高校時代、作新学院のエースとして甲子園を沸かせ、高校卒業時のドラフトで阪急ブレーブス(現:オリックス・バファローズ)から1位指名を受けるが、慶応義塾大学への進学を理由に入団拒否。しかし慶大受験には失敗し、法政大学へ進学する。
 法大卒業時のドラフトでは、前述のようにクラウンからの1位指名を蹴った。

 この時、江川の巨人入りに暗躍したのが、自民党副総裁の船田中だ。また自民党副総裁か、と思われるかも知れないが、船田は前項で述べた日韓国交正常化に一役買っている。ついでに言えば、クラウンのオーナーだった中村長芳は東スポの役員を務めていた。
 船田は作新学院の理事長でもあり、当時は『巨人あってのプロ野球』という時代で、船田もプロ野球=巨人という認識しかない。船田は秘書の蓮実進を使い、江川の巨人入りを画策させる。ちなみに、蓮実は後に衆議院議員となった。

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