▼“なめられてたまるか”追悼マイティ井上(’87.2.6本誌ロングインタビュー)
by Favorite Cafe 管理人
・マイティ井上プロレス人生20年、チャンスがあればいつでもいく
・大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントとの友情、一緒によく飲み歩いた
・凄かったバーン・ガニア、印象に残る試合(AWA・IWAダブル世界戦)
・マスコミから煽られた猪木戦、オレは本当にやりたいと思っていた
・オレの人生はプロレス。体がボロボロになるまで頑張りたい
マイティ井上さん(本名・井上末雄)の訃報が飛び込んできた。国際プロレス、全日本プロレスで活躍した名選手だった。
故人を偲んで、今から37年前、1987年2月のマイティ井上さんロングインタビューを再掲する。
マイティ井上プロレス人生20年、チャンスがあればいつでもいく
――現在、体調の方はどうですか
井上)いいですよ。ちょっと受け身をとりすぎて、腰が痛いけどね(笑い)。
オレもプロレスを20年、その前は柔道を6年間やってきたから受け身の取りっ放しでしょう。試合の時は気にならないけど、シリーズの後半はキツいこともあるね。
――昨年アジア・タッグを失って、現在無冠ですが
井上)アジア・タッグのベルトも伝統のあるものだから、オレと石川選手で、もっと価値を上げたかったね。再戦はいつでもと思っているけど、現在マシンが欠場中でしょう? それより、オレの場合ジュニアだね。
――ジュニア戦線は、渕、小林邦、ヒロ斉藤が激しくやり合っていますね
井上)今はベルトの移動が激しいね。それだけ実力が接近しているということだけど、そろそろ長期政権が出てきてもいいころ。渕には“1年ぐらい持ってみろ”っていつもハッパをかけてるよ。チャンスがあれば、オレはいつでもいくつもり。渕にも負けたことはないし、他の2人にも負けるとは思わない。
――小林邦とヒロ斉藤をどう評価しますか?
井上)小林選手は時代にマッチしたレスリングをするね。キックもあるし、体もいいし、若い人に受けていると思うな。斉藤選手はね、彼はなんでもできるんだからあんまり悪どいことはしない方がいいよ。まあ、個性も大切だけど、もっと若さを出してガンガンいった方がいいと思うな。彼はまだ24歳でしょ。そう言えばオレも25歳で世界王者(IWA)になったけど・・・。
――世界王者になる前に井上さんは2年ほどヨーロッパヘ行ったでしょう?
井上)うん、45年の8月末に初めて行ったんだ。初めはフランス。それからドイツのハノーバー・トーナメントに参加した。その時は、ストロング金剛さん(小林)と一緒だったよ。それからフランスを本拠地にしてスペイン、イギリス、スイス、ベルギー、ベイルート、アフリカと至る所をまわって、南太平洋のタヒチ、ニューカレドニアにも行ったよ。あそこはフランス領だからね。金剛さんと別れてからは、亡くなった清美川さんにいろいろ面倒を見てもらったんだ。でも、あとは本当に一人っきりだったなぁ。
――当時のヨーロッパ・レスリングはどういう感じでした?
井上)まあ本来のヨーロッパ・スタイルってやつだったね。場外乱闘なんかもちろんなかったよ(笑い〉。ドイツ、スペインは5ラウンドのラウンド制。フランス、イギリスは日本と同じ試合方法だった。
大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントとの友情、一緒によく飲み歩いた
――どんなレスラーと対戦したんですか?
井上)イギリスでは、ピート・ロパーツ、スチーブ・ライトなんかとやったね。ライトなんかまだルーキーだったよ。フランスではアンドレ・ザ・ジャイアントと一緒にサーキットした。確か彼は“ジーン・フェレ”とかいう名前でやってたよ。
――それでアンドレと親友に?
井上)まあそうだね。彼は45年の1月に国際に来てたでしょ。それで顔見知りにもなってたしね。フランスの場合、会場に行く時は、レスラーがカフェテラスに集合してそこから車でいくわけ。屋外のカフェテラスがたくさんあるんだけど、オレ達はブローニュの森に近い高速道路沿いの店で待ってたんだ。
当時はシリというプロモーターの仕事をしてたんだけど、偶然デラポルト(当時IWA会長)のプロモーションで働いているレスラーもそこが集合場所。そこでアンドレとバッタリ会ったんだ。アンドレは「こっちのプロモーションに来いよ」って誘ってくれてね。それからずっと一緒にサーキットして、スペインにも一緒に行ったよ。よく2人で飲み歩いたなぁ(笑い)。
――親友の井上さんから見て、アンドレはどういう人物ですか。
井上)彼は頭もいいし、人当たりもいいんだよ。だれとでも気軽につき合える男だね。外人にはケチな人間が多いけど、彼は金の切れもいい。よく、おごったり、おごられたりしたもんだよ。何年か前に会った時に、「オレは金を使いすぎるから、これからは貯めなくちゃ」なんて言ってたね(笑い)。彼もフランス時代は食えなかったし、お互いよく遊び、よく仕事をしたよ。
――アンドレとのエピソードを・・・
井上)日本での話になっちゃうけど、彼がケタ外れに飲むことはみんな知ってるだろう? でも一番凄かったのはビールを150本飲んだこと。一人で150本だからね(笑い)。彼を連れて“フロ”に行ったこともあったし、名古屋のスナックで2人でママを口説いたりもしたね(笑い)。彼の名誉のために言っておくけど、彼が自分から“女を紹介しろ”なんて言ったことはないよ(笑い)。でも、オレが全日本に入ってからは会ってないんだ。変に誤解されると嫌だから。
――アンドレと話す時はフランス語ですか?
井上)彼もアメリカに入ったころは、まだ英語がうまくなかったからね。話す時は英語とフランス語のチャンポンだね。オレもあと半年フランスにいたら、完全にフランス語をマスターできたと思うな。
――ドイツにはどんなレスラーがいました?
井上)ジャック・デ・ラサルテスが全盛期だった。彼は自家用飛行機を持ってて、よく乗せてもらったよ。4年前、10年ぶりに向こうへ行ったら、ラサルテスがまだトップで、ハンブルク・トーナメントのチャンピオンになってたんだ。10年たっても強かったね。ヨーロッパの街も全然変わってなかったけど、レスラーの顔触れも変わってなかったなぁ(笑い)。
――ローラン・ボックの名前は聞きました?
井上)いや、ボックの名前は聞かなかったね。そのころドイツには、ハノーバー、ハンブルク、ブレーメンと大きなオフィスが三つしかなかった。そこでよく名前が出たのは、ホースト・ホフマンだよ。
――ギャラはどうでした?
井上)フランスとドイツは、1日いくらで支払いされるんだ。フランスではプロレスを定期的にやってないところもあるから、レスラーはみんな他の仕事を持ってるんだ。プロレスが副業みたいな感じだったね。その割に、ボクなんかは結構良いギャラをもらってたよ。金を貯めようとか思ってなかったから、食べたいものを食べて、酒もうんと飲んだ。苦労なんて全然感じなかったね。
――でも言葉は困ったでしょう?
井上)最初のうちはね。オレは各国を回ったから、フランス語、スペイン語、英語、ドイツ語と話さなくちゃいけない。だから6カ国語の辞書を買って毎日勉強したよ。初めに行ったフランスで、ここに行ってくれってプロモーターに言われても、言葉はわからないし、電車の乗り方も切符の買い方もわからない。その時はもう必死で会場まで行ったよ。さっきも言ったけど、こんなことは苦労ともなんとも感じなかったな。好きでこの社会に入ってきたんだから。だから私生活も真面目だった。みんな信じないかもしれないけどね(笑い)。毎日買い出しにいって、ご飯をたいて、漬け物も自分で漬けた。あとは言葉の勉強と読書だったね。ヨーロッパに行って1年半、オレは女性と一度も遊ばなかった。これは本当だよ(笑い)。
――ヨーロッパを出てからカナダへ?
井上)うん、47年の春にモントリオールへ。半年ぐらいいたけど、あのころのモントリオール地区は活気があったよ。アンドレもいたし、バション・ブラザースも元気だったしね。
凄かったバーン・ガニア、印象に残る試合(AWA・IWAダブル世界戦)
――帰国してから、IWA世界王座挑戦という大抜擢を受けましたね
井上)47年10月に帰国して、チャンスをもらったのは49年だった。あの時は若くて無我夢中だったけど、“なんでオレが?”って思ったよ。先輩の木村さん、草津さんもいたし、どうして2人がやらないんだろうってね。
――三度目の挑戦でビリー・グラハムを破って、新チャンピオンに
井上)そうだったね。大分、名古屋で負けて越ケ谷で取った。チャンピオンになってから、やっぱり責任を感じたよ。バションに負けた時は、内心やれやれという気持ちだったからね。
――当時、国際のエースとして、馬場さん、猪木さんと比較されたでしょう?
井上)よくマスコミの人から「猪木さんとやらないの?」なんて言われたけど、オレは本当にやりたいと思っていたよ。
――チャンピオン時代、一番印象に残っている試合は?
井上)それはガニアとやったダブルタイトル戦(AWAとIWA)だね。地元の大阪だったし、レフェリーはビル・ロビンソン。こんな豪華メンバーでやれたことは最高の思い出だね。さすがにあの時は固くなったよ。ガニアの強さというのは普通のレスラーとはちょっと違うんだ。あの体から力強さは感じられないだろ? だけど握力がもの凄く強いから、関節をぐっと絞めつけてくる。ガニアやバションは、何かスキがあればやってやろうという気でくるから、まったく気が抜けなかったね。
――AWAタッグ王者として来日したレイ・スチーブンス(パートナーはニック・ボックウインクル)ともやっていますね。
井上)うん、スチーブンスの方がニックより派手なファイトだった。オレはニックともノンタイトルでやったんだよ。ガニアとロビンソンが蔵前で名勝負をやったろ? あの時、セミでニックとやってフォール勝ちしたはずだよ。ニックは地味だけど、うまい。ジワジワ攻めてくるテクニックはすばらしいね。その辺は今(1987年)も全然変わってないな。
――井上さんもキャリア20年のベテランになりましたが、今後の抱負を
井上)オレはね、体が小さいし顔もこの通り童顔だからハッタリが効かない。だから、この20年間いつも“なめられてたまるか!”という気持ちでやってきた。
最近ジャパンの栗栖なんかがガンガンつっかけてくるだろ? そういう時はもう意地になってやり返す。オレはいつも相手が来ればやってやると思っているし、こういう商売はなめられたらおしまいだからね。
今思うとこの20年はアッという間に過ぎたね。過ぎてしまえば早いものとは言うけれど、まだあと20年やりたいって心境だよ(笑い)。実際それは無理だけど、まだ体力に自信があるから、チャンスがあればタイトルも狙っていくよ。自分の好きな職業につけて幸せだと、今改めて思うんだ。オレの人生はプロレス。体がボロボロになるまで頑張りたいね。
▼[Fightドキュメンタリー劇場 45]国際プロ・新日プロ対抗戦1979年「IWA世界タッグ」とは何か?
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