[Fightドキュメンタリー劇場 45]国際プロ・新日プロ対抗戦1979年「IWA世界タッグ」とは何か?

[週刊ファイト11月03日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼[Fightドキュメンタリー劇場 45] 井上義啓の喫茶店トーク
 国際プロ・新日プロ対抗戦1979年「IWA世界タッグ」とは何か?
 by Favorite Cafe 管理人


 団体対抗戦は、勝ち負けを均衡にして「なーなー」でキズがつかないようにやってしまう。それを私は好まないしファンも望まない。極端に言えば、勝ち負けはどうでもいい。何年か後に、ファンが清々しい思いで振り返ることができるような試合にして欲しい。(I編集長)

■ 闘いのワンダーランド #061(1997.02.27放送)「I編集長の喫茶店トーク」
 1979.02.02 札幌中島体育センター
  アントニオ猪木 vs.トニー・ロコ
  坂口征二&ストロング小林 vs. ボブ・ループ&クルト・フォン・ヘス

猪木、ロコ、ヘス、ループ、マレンコ(TV放送画面より)

(I編集長) この番組「闘いのワンダーランド」は、新日本プロレスの試合を年代順に放送している訳ですが、いよいよ新日プロと国際プロレスとの対抗戦が始まり、8月には夢のオールスター戦の開催された昭和54年に入ってきました。今日は昭和54年の新日本プロレスの最初のビッグマッチ・・・、と言うよりは国際プロレスの大会についてなんですが、そのお話をいたします。
 昭和54年1月21日に東京・後楽園ホールでIWA世界タッグ選手権のタイトルマッチが行われました。IWA世界タッグと言いますともうご存知かもしれませんけども、これは国際プロレスが保持していたタッグタイトルだし、この後楽園ホールの試合は、国際プロレスの大会なんです。このIWA世界タッグ選手権試合に新日本プロレスの山本小鉄と星野勘太郎のコンビ、ヤマハブラザースがチャレンジャーとして乗り込んでぶつかっていった、ある意味、他流試合なんですね、これ。新日本プロレスと国際プロレス、団体同士の対抗戦が行われたんです。

▼[Fightドキュメンタリー劇場25] 井上義啓の喫茶店トーク
 国際プロレスが三団体タッグ・ベルト統一へ動いた(1977年)

[Fightドキュメンタリー劇場 25]国際プロレスが三団体タッグ・ベルト統一へ動いた(1977年)

(I編集長) まず最初に、IWA世界タッグ選手権とは何なんだということをお話しなくちゃいけないでしょう。これはIWA本部、当時IWAという団体がパリにありました。しかしIWAはレスラーを抱えて興行を打っていた団体では無いんです。ハッキリ言えばIWAというのは、国際プロレスが使用したブランド商品だったと考えてもらっていいでしょう。ですから、商社が海外からブランド物のバッグとか洋服を輸入するのと一緒ですね。国際プロレスが、パリで作られたIWAというブランド商品を輸入しただけのことなんですよ。ですけども、そのIWA世界ヘビー級ベルト、世界タッグベルトは、両方とも非常に権威があったんです。
 IWA世界タッグは、昭和45年の5月16日、初代タッグチャンピオンをトーナメントで決めることになったんですね。パリでトーナメントが行われました。これにはヨーロッパの錚々(そうそう)たる連中が参加したんです。そして国際プロレスから選ばれて乗り込んでいったのが、豊登とストロング小林です。

(I編集長) 当時の豊登、豊さんはですね、面目にトレーニングをしておって非常に調子が良かったんです。豊さんと言ったらもうご存知かもしれないですけども、非常に博打好きで有名でした。「豊さんはどこですか?」と尋ねたら、「井上さん、会社や道場を探したってダメだよ、豊さんを捕まえるんだったら競艇場へ行きなさいよ」と言われたもんですよ、ハッキリ言えば。それほどまあ、競艇とかそういった博打の類いが好きな人だったんです。だけども、国際プロレスに移ってからというものは、気合いを入れ直したというか、非常に頑張ってやっていましたよ。

(I編集長) 当時、豊さんは「マスコミは日プロの事は記事に書くけれども、ウチ(国際)の記事はほとんど書いてくれない」としょっちゅう言っていましたよ。あの頃はまあ、日本プロレスからの暗黙の圧力があったんです。ですから、どのマスコミも日プロに遠慮して、国際プロレスのことはあんまり書かなかったんですよ。それでも私はですね、遠慮せずに「ドーン」と書いたんです。豊さんはそれを非常に有り難がってくれて、「週刊ファイトさん、お宅だけだ、日プロと同じように扱って、同じようにスペースをとってくれるのは。だから週刊ファイトの方には足を向けて寝られませんよ」てなことを私の顔を見る度に何回も言ってましたね。

豊登(ファイト 1967年6月21日号より)

(I編集長) そういう状況で、豊登は張り切ってトレーニングを積んで、そしてパリのトーナメントに出場したわけです。パートナーのストロング小林は若くて非常に荒削りだったですけど、パワーは抜群だった頃ですね。絶好調の豊登と若さとバイタリティ溢れたストロング小林とのチームがトーナメントに参加したんですからね、ハッキリ言って優勝しなかったらおかしいぐらいのチームだったんですよ。とは言え、当時のヨーロッパ勢というのは非常に強い、いろんなレスラーが揃っておったんです。そして結局、優勝戦に出てきたのが、モンスター・ロシモフ、イワン・ストロゴフ組だったんですね。イワン・ストロゴフという、まあ、ちょっと名前を申し上げてもご存じない方が多いかも知れません。このチームは非常に強かったですよね。

IWA世界タッグトーナメント(週刊ファイト記事より)

(I編集長) このロシモフのチームと豊登&ストロング小林組が優勝を競って、その結果、勝利したんです。ですからこれは、ハッキリ言って堂々たるものでね、いい加減なタイトルじゃないですよ。それでも国際プロレスのIWA世界タッグと言うとね、しょうもないタイトルだと言われる方が、ままおるんですよ。そうじゃないんだ(ドンッ!)。
 私はこういう経緯を機会がある毎にプロレス者とかには話しているわけですけども、今日は知らないファンの方も多いかと思いますから、この喫茶店トークでこういった初歩的な話から入ることにしたんです。

(左)優勝戦でイワン・ストロゴフを攻めるストロング小林

(I編集長) そして時を経て、昭和49年1月、IWA世界タッグチャンピオンは、グレート草津、アニマル浜口組が保持しておったんです。ちょうどアニマル浜口がのし上がって来た頃ですね。とにかく、これまたバイタリティに溢れた若さいっぱいの素晴らしいレスラーだったんです。当時の国際プロレスには、サンダー杉山とかラッシャー木村、グレート草津もおりましたけども、ハッキリ言って、若手でのし上がってきたアニマル浜口、マイティ井上、ここら辺がメキメキ実力を付けてきた選手として注目されていたんですね。ですから、草津・浜口組というのも非常に強力なIWA世界タッグチャンピオンチームだったんです。そのチームに54年1月21日の国際プロレス・後楽園ホール大会でぶつかっていったのが、新日本プロレスのヤマハブラザース、山本小鉄・星野勘太郎組なんですね。

ファイト 1969年6月5日号

(I編集長) ヤマハブラザースといいますと、人気のあった凄いチームですよ。全盛時代は凄かったですよ。メキシコなんかでも活躍しましたしね、タイトルも獲ったんですから。しかし、昭和54年当時、この時のヤマハブラザースはとっくの昔に峠を越えていましたよ。ましてや山本小鉄は新日本プロレスの総務課長的な立場でセミリタイヤ状態でしたからね。だからあの当時、あの人はいつも背広を着ていましたよ。 試合もやっていたんですけどね、これ。3日に一回とか、4日に一回とか、思い出したようにリングに上がっていました。こんなふうに、だいたいがフロント業務を担当するという形でやっておったわけですね。ですから、ハッキリ言えばセミリタイヤした山本と、星野勘太郎が組んでヤマハブラザースを結成しても、すでにあまり迫力は無かったですよ。我々マスコミとしても、IWA世界タッグに挑戦すると言っても、国際プロレスのタイトルだし、相手の団体に行って試合をするわけだから、ベルトは獲れないだろうと、皆がそう考えておったわけです。

ヤマハ・ブラザース

記事の全文を表示するにはファイトクラブ会員登録が必要です。
会費は月払999円、年払だと2ヶ月分お得な10,000円です。
すでに会員の方はログインして続きをご覧ください。

ログイン