10月26日(日本時間)、日米で野球のビッグ・イベントが開幕した。日本ではNPBの日本シリーズ、アメリカ(カナダを含む)ではMLBのワールド・シリーズである。
NPBは横浜DeNAベイスターズ(セントラル・リーグ)vs.福岡ソフトバンク ホークス(パシフィック・リーグ)、MLBはニューヨーク・ヤンキース(アメリカン・リーグ)vs.ロサンゼルス・ドジャース(ナショナル・リーグ)という、奇しくも両国とも東西対決となった。

ヤンキースとドジャース、同じ名門球団でもチームカラーは対照的
海の向こうのワールド・シリーズでは、ニューヨーク・ヤンキースとロサンゼルス・ドジャースという名門対決だ。特に注目されるのは、ドジャースの大谷翔平とヤンキースのアーロン・ジャッジとの二冠王(どちらも本塁打王と打点王)の強打共演である。
大谷については、もう説明不要だろう。投打の二刀流としてNPBとMLBで大活躍し、野球の常識を覆した。そしてジャッジは、MLB史上最高の長距離打者の呼び声高い。
ヤンキースとドジャース、共に歴史深い老舗球団ながら、チームカラーは対照的だ。東海岸のヤンキースと西海岸のドジャースという違いだけではない。そもそも、ドジャースだって元々は東海岸、それもヤンキースと同じニューヨークの球団だった。
ヤンキースとドジャースの違いを一言で言えば、ヤンキースは保守的、ドジャースは革新的である。
まず、ヤンキースのユニフォームは長い間、デザインがほとんど変わっていない。ホーム用は伝統のピンストライプに、左胸にはニューヨークを示すNYのロゴ。そして、背番号の上には選手名が書かれていないのもヤンキースのユニフォームの特徴だ。
また、ヤンキースではヒゲや長髪も禁止されている。日本で言えば読売ジャイアンツのようなものだが、自由なイメージのあるアメリカで、未だに前近代的なルールを採用しているのだ。
一方のドジャースは、二大リーグ制となった近代MLBで初めて黒人選手を起用した球団として知られている。まだ人種差別の風潮が色濃かった第二次大戦直後のアメリカで、ドジャースは黒人選手であるジャッキー・ロビンソンと契約したのだ。
それまでのMLBは白人選手のみの世界。黒人選手はニグロ・リーグでプレーしていたが、その重い扉を強引にコジ開けたのがドジャースだった。以来、MLBでは有色人種にも門戸解放し、革命を起こしたロビンソンに敬意を表して、現在のMLBではロビンソンが着けていた背番号42を全球団で永久欠番としている。もしロビンソンの存在がなければ、MLBで大谷のような日本人選手が活躍することもなかったかも知れない。
そして、ドジャースは元々ニューヨークの球団だったと前述したが、ロビンソンが入団した頃はまだブルックリン・ドジャースだった。当時のMLBは交通事情もあり、球団は東海岸に集中して、最も西にあったのはセントルイス・カージナルスだったのである。
しかし、戦後のアメリカは旅客機時代を迎えて、ドジャースは西海岸にいる大勢の野球ファンを逃す手はないと考え、同じニューヨークにあったニューヨーク・ジャイアンツを誘って、西海岸のロサンゼルスに本拠地移転した。ニューヨーク・ジャイアンツはサンフランシスコ・ジャイアンツとなったのだが、それまでのニューヨークは1都市に3球団が存在するという、現在のMLBでは考えられない一極集中型だったのだ。
それ以降のMLBは積極的なエクスパンション(球団拡張)を行い、1都市に最大2球団までで、3球団も抱える都市は存在しない。MLB球団は全米各地に満遍なく散らばっているが、そのキッカケを作ったのがドジャースだったのである。
保守的で排他的と言われる東海岸に比べて、西海岸は日系人を含む移民者も多い。日本人初のメジャー・リーガーであるマッシーこと村上雅則はサンフランシスコ・ジャイアンツ、大量の日本人メジャー・リーガーを生み出すパイオニアとなった野茂英雄がロサンゼルス・ドジャースに入団したのも、歴史的必然だったのだろう。

日本人にはなかなか理解しがたい、アメリカの国土事情
アメリカでニューヨークとロサンゼルスと言えば、日本では東京と大阪のようなものと思っている人も多いかも知れない。しかし実際はかなり違う。
東京と大阪は離れていると言っても新幹線で約2時間半、飛行機なら約1時間で行けてしまう距離だ。だがニューヨークからロサンゼルスまで飛行機利用でも、6時間以上もかかってしまう。
仮にロサンゼルスを午後0時に飛行機で出発すると、ニューヨークに到着するのは6時間後の午後6時過ぎ……とはならない。東海岸と西海岸では3時間もの時差があり、ニューヨークの時刻はロサンゼルスより3時間も早いので、到着は午後9時過ぎと、時計のうえでは9時間以上もかかってしまう計算になるのだ。
これはもう、日本の感覚では異国と言ってもいいぐらいである。実際、アメリカは州ごとに法律が違うので、ニューヨークとロサンゼルスは別の国という認識なのかも知れない。
そういう事情もあってか、かつてのアメリカのプロレス界はテリトリー制を敷いていた。現在は全米を統括したWWEも以前はニューヨークを中心とする東海岸のプロレス組織だったし(当時の名称はWWWF→WWF)、他に中西部のセントルイスを基盤にするNWA、ミネアポリスのAWA、西海岸のロサンゼルスにはWWAがあった。
その中で最も大きな組織はNWAで、WWFも元々はNWAのニューヨーク支部という位置付けだったのである。ただ、支部とは言ってもニューヨークはアメリカ最大の都市で、首都ではないとはいえニューヨークこそがアメリカの中心という意識が強い。アメリカの中心ということは、アメリカ人の感覚では世界の中心である。
そう考えると、ニューヨーク住民にとってロサンゼルスなど西の果てにある田舎に過ぎない。
前回、ニューヨーク・メッツの千賀滉大投手について書いた時も同じようなことを述べたが、野球に関してニューヨーカーにとっての関心事はアーロン・ジャッジやフアン・ソトらであって、大谷翔平のことなど眼中にないのである。
日本で言えば、関西で人気の吉本芸人が、東京では全く知られていないようなものだ。
ジャイアント馬場が、師匠の力道山やライバルのアントニオ猪木に対して、明らかに上回っていたのがこの点である。猪木は日本では馬場以上の人気を誇っていたが、アメリカではメイン・エベンターにはなれなかった。
力道山も、アメリカでの活躍の場は西海岸かハワイぐらいで、東海岸への進出は果たせなかったのだ。
一方の馬場は、若手修業時代には既に全米のどこでも通用するトップ・スターとなっていた。中でも、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデン(MSG)でメインを張ったのは、馬場にとって大きな自慢だっただろう。
ちょうどその頃、当時はWWA世界ヘビー級チャンピオンだった力道山がニューヨークにやって来たものの、ネーム・バリューがなかったため試合を組んでもらえず、「ビッグ・ババの師匠のリッキー・ドーゼンだ」と紹介しなければ観客が全く無反応だったので申し訳なかった、と馬場は自著『王道十六文』(日本図書センター)で述懐している。
ニューヨークの大プロモーターだったビンス・マクマホンSr.にとって、WWAなど西海岸の田舎団体という認識しかなかった。だから、その世界王者だった力道山でも、軽くあしらわれたのである。実際、WWAは間もなくNWAに吸収された。
やはりニューヨーカーの意識は、他地区の住民とはかけ離れているようだ。ことアメリカに関しては、馬場は力道山や猪木に対して圧勝である。

